美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/08/06(月) 倉敷にがおえエレジー 題7回
C 雨降って地流れるニガオエ師


「美観地区とは名の示す通り、白壁や美術館だけをさすのではない。ポイントは心の風土てある。そこには当然、人とのかかわり合いがからんで来なくてはならない」これは美観地区で酒屋を営む老刀自の言葉である。

 たしかに初めて倉敷に来た俺にとっては白壁や美術館より、何より嬉しかったのは自称バスク人の子孫や星の王子さまに会ったことである。それは極言すれば一陽めぐり来たって万物蘇生の気分でもあった。何故ならばこの画一化した世の中に異色ある人物が段々と跡を絶ち、いわゆる良識ばかりの発達した同じような人間ばかりになれば、世の中は退屈極まりないものになるからである。それに帰途ゴミ箱に首を突っ込んでいた乞食氏を見たことであつた。大道ニガオエ師は知らない異国の土地をの人情を乞食の有無において推し量るのだ。我々の経験からいうと乞食のいる町はニガオエが描ける。それだけ町の人の心にゆとりがあるという証てあろう。ところが誰でもウスウス感じていると思うが生活環境が整備されるということは必ずしも幸福につながっていないという事である。人間が築く建築、主義、政治、宗教運動の底にはそれがどのような立派な町であり、良き運動であろうとも獣的な利己心、優越性に対する酷いあさましい我欲の念か動いているはずであるそれはあくまで虚態の繁栄の社会なのだ。その社会の表層から隠蔽されたモノを人々の眼前に引きずり出し、秩序の仮面の下からカオスを涌出させる者が乞食といえる。バランディユ風に言えば「心理学的な儀礼の偉大な司祭」と呼ばれる所以である。故に乞食の姿なき町は滅びる・・・・色んな妄想、幻惑、放屁。ウトウトしていると瞼の裏が突然、真っ赤になるではないか・・・・

2007/08/05(日) 倉敷にがおえエレジー 題6回
我々は緑御殿の石段に座って話しをした。さきほどの牛のクソ面男、幸福そうに熟柿の匂いを発散させているのだが、星の王子だというのには驚いた。汚い鼻毛をのばした王子さまだ。きっと九等星か十等星くらい
の星だろう。ところが以後、彼とは倉敷市民会館での反戦フォーク、草の根市民運動「元気屋」での反核ディ
スカッション、倉敷キリスト教会館での似顔絵師ポンこと山田魂也のヒッピーコミューン運動など俺の行く先々
顔を会わすのだ。しかし、彼と付き合えば付き合うほど、まったく俺の文章のごとく春だか秋だかハッキリ分からない王子さまである。サン・テグジュベリーの「星の王子さま」によると「本質的なモノは目に見えないこと」とある。すれば彼こそ本質的なモノを掴んでいるのかも知れない。と勝手に飲み込むことにした。

 「わしゃ、バスク人の子孫じゃけんのぅー」待ちかねたようにおっしゃるのはベレー帽の爺さんだ。一人一人
舐めるように見ていって、少しでも異を唱えそうなら怒鳴りかねない剣幕である。聞くところによるとキリストも
除福も日本に墓がある。故に彼がバスク人であっても可笑しくない。我々にも損得はない。助け舟の恩義があるから聞いているだけである。ただ、よく観察してみるとベレーはバスク人の発明であり、バスク固有の三角顔。眼は洞穴のように深く、おまけにワシ鼻でそういう眼で見れば見えぬことはない。いっその事、赤いネッカチーフに銃でも持たせればフランコ将軍も裸足で逃げ出しただろう。ピカソはヤンヤの拍手をしたに違いな
い。上手くいけばゲルニカの絵が貰えたかも知れないのだ。「わしゃね、日本人のコセコセしている所が嫌いなんじゃ。さきほどのガードマンも枝葉末節に捉われておる。なぜ姿、形ばかり見てその奥にある深層の本質を見ようとしないのか・・・まあ、あの男に言っても無駄じゃろうが・・」こういってバスク老は深く凹んだ眼をしばたいた。「言ってあげるが長い人生、ときには自分の思う通りにいかんもんじゃ。望むのと生きるのは別の事。こんな事でクヨクヨするんじゃオエン。肝心なのは望んだり、生きたりすることに飽きない事じゃ、後は我々の知ったことじゃない」人生の重い荷物でチリメン腰にはなっているが、幾つかの人生の悲哀を通過したあと故意見は確実で俺達に安らぎ希望を与えてくれた。やっぱり亀の甲より年の功だと思った。

 さて、こんな騒ぎにまぎれて、奇怪千万な年末の夜がコソコソとやって来た。俺達は明日、播州赤穂義士祭りに討ち入りに行かねばならぬ。倉敷駅にて三人、野良犬に喰われぬようかたまって寝た。寒かった。カタツムリがもしいたら、なんて人間っていう奴は不便な生き物かと笑っていただろう。
 時、昭和四十六年十二月二十三日の事であった。


2007/08/04(土) 倉敷にがおえエレジー 題5回
バスク老と星の王子さま

 


 ボナールの「欄干の子猫」見たかい。色の魔術師といわれた彼の絵も近くに寄ってよく見ると汚い色の複合だった。嘘で大きな真実を生む、この嘘と真実の微妙な釣り合いが問題で極端な誠実さとはやはり奇異で鼻持ちならないものだね。と小野君こと迷宮かいう。俳優の加藤剛に似てハンサムだが「三日前に母親が亡くなりました。禅坊主に帰依して三七・二十一日間、ソバ湯だけでとうしました」と言うようなやつれた大岡越前ノ守だ。げんに彼は京都の大徳寺で座禅し、禅の瞑想だけでは飽き足らずヒッピー詩人ゲリー・シュナイダーらが日本でやっていた「部族運動」にも片足を突っ込んでいた。故に彼の言説は紆余曲折的であり、そこから迷宮というアダ名を献上されたのであろう。

 もう一人の田島はカリエールの「思い」が気にいったとみえ絵ハガキを買っておる。煙りのようにボンヤリした中に憂愁にみちた女の顔があり、どことなく不安を蔵する画面でる。後の話であるが、あの幼女連続殺人のMはこの絵の前で半日でも一日でも立ちつくしていたという。思うに、Mにとっては現実の世界がつらい、それを真っ向から乗り越えるではなく、空想の世界に逃避・埋没しょうとした時によき対称であったのではなかろうか。すれば作者カリエールの「悲哀を知らない人は、善についても何も知らない」という言葉と裏腹でとんでもない間違った鑑賞していた事になる。とまれ・・・こんな所でM論していたら俺達三人とも野垂れ死にだ。Mは酒と共に胃に流しこんでイーゼルを美術館の前に突き立てる事にした。


 季節がら柳の緑はなかったが、倉敷川を挟んで残っている白漆喰の塗籠め造りの土倉、民家の持つ品位と格調の高さには驚嘆した。いつ鞍馬天狗が現れても可笑しくないと思った。天狗は現れなかったが観光客もポロポロである。しかし、さすが美術館前のせいかそのポロポロが全て描かせてくれるのだ。俺は意味もなくバッタのように平身低頭する奴とあべこべに後ろにのけぞる奴は信用しない事にしているが、この時ばかりはのけぞるだけ反り返ったものである。だが世は人事雲千変だ。さきほどからネズミのように首をだしたり引っ込めたりしていた男が「わしはガードマンだ」と言って、さも珍しい種類の連中が来たとばかり俺の前に顔首をグッと突き出すのだ。「いま美術館はゴッホ、ルオー等の作品が盗難にあって取り込み中。こんな所で幕を開けると迷惑する、すぐやめちゃい」との御託宣である。幕?・・・成る程、俺にしろ越前にしろ面体がドサ廻りの旅役者には持ってこいの風格だ。三流芝居なら勧進元の声は天の声である。皆をうながしてニガオエ道具を片付けていると「ガードマンさんノォー、このヒゲの先生方が芸術活動なさるのを、どうあっても止めさせなくちゃ顔が立たんとオエンのか。ここを東洋のモンマルトルにしたいと言うのが大原氏の意向じゃろ。やらせてあげなされ」声の主はチリメン腰だがワシ鼻にベレー帽の粋なジイさんからの助け船である。すると今度は「オメエリャの出現は倉敷の一大啓蒙じゃ、かまやせん、ヤレ・・ヤレ・・」と牛の糞を踏んずけたような顔の男が、梅毒の広告みたいな世辞で追風を吹き込んでくれるだ。船は頑固で風は横着、ネズミは威信で三つ巴である。なんでも世の中の悶着は機械のせいだと先哲ウイリアム・モリスは指摘したが、ここの悶着は俺達のせいだ「まあ、まあ」と言いながら騒動の原因を作った俺が仲裁に入って、皆を緑御殿まで退却せしめた。それを見届けたガードマンは己の使命感からくる満足を身体一杯にあらわし美術館の中に消えていった。

2007/08/03(金) 倉敷にがおえエレジー 題4回
新幹線が東京ー岡山間が開業したのは昭和四十七年である。その前後年には作家・三島由紀夫が
東京市ケ谷の自衛隊内で割腹自殺を遂げ、軽井沢の連合赤軍五人が篭城、機動隊の包囲網の末犯
人逮捕というショキングな事件が起こった。と同時に大阪で日本万国博覧会が開催され、田中角栄内閣誕生。氏の「日本劣等改造論」がベストセラーになり、巷では青年のロングヘアがあふれ「シラケ」「ガンバラナクチャ」等の流行語を生み出したのもこの時代である。ここに於いて国民半ばが思想を失い、節度を忘れ、ただ物質謳歌へ闇雲に走りだし、自ら魂の空白状態へ落ち込んでいくのである。我々大道ニガオエ描きの身辺にも、環境整備の美名のもとにコチコチの衛生タイルみたいな街造りが氾濫しだし、息苦しくなってきた。終戦直後よりニガオエを描いていたモダン・アートの石田氏がカッターナイフで喉元を突き憤死。上野の京成百貨店屋上より「オレはゴッホだ、世界中の人々を描いてやる」と叫びながら飛び上がり狂死したO氏。まさにその頃の事を思い出して見ると洞窟を覗いているような時でもあった。しかし、このあたりの状況を語るには多くの枚数が必要だ。こんな所で道草を喰っていたら日が暮れる。読者諸氏は欠伸をするだろう。今はとにかく倉敷に急ぐ事にする。大道ニガオエ師の大半は都会より脱走という旅に出たのだ。


  秋風落莫として行人旅に愁いは西行法師の文句だ。大道ニガオエ師悄然として異郷に悩みそうなのは俺たちの胸中だ。しかし、旅先では所詮幻想にしろ窒息しかかっている所より逃げ得ることが何より救いであった。ある時、東北のローカル線で靴磨き道具とハブラシ一本だけ持って旅している老人に出会い「靴磨きならどこで定着してやった方が良いのではないか」といったらその老人が答えた。「人間の不幸の原因は記憶の積み重ねから始まるノオ、だから記憶が積み重さらないうちに他所の土地に行くのジャ・・・」と。その時、俺はその老人の気持ちが痛いほどわかった。ところが奇妙なことにこの老人も含め、ニガオエで全国を回っている連中が避けるのは山梨、滋賀、岡山県なのだ。なるほど山梨は甲州商人、滋賀は近江商人など好ましいイメージでは語られていない。では何故、岡山県を彼等は避けるのか・・・

  過日、テレビで浜家輝雄なる人の司会で岡山県人論なるものをやっていた。面白いと思ったのは、セールスマンが岡山で仕事が出来れば全国何処でも通用するという事。それに「燃えろ岡山」というリフレーンとは正反対に浮つくことを極度に嫌う県民意識故に燃え得ないということであった。たしかに岡山を日本のユダヤと言ったのは大宅壮一だ。備前浪人は油断も隙もないから召し抱かえるなと言ったのは狸オヤジ家康だ。岡山人の学問は自己を掘り下げるより、一家保全か個人の粉飾するためと言ったのは祖父江孝雄氏だ。など色々あるがこれを読む倉敷人はコン畜生と思われるであろう。俺もコン畜生だ。何故なら、だいたい県人論の類いは悪口雑言であり、所詮個に帰し盲人巨象を撫でる意だからである。まして一定の職業もなく、何等社会的見識もない乞食エカキが言ったところでますます気狂いあつかいされるのがオチであろう。況や、どうやら首吊りもせず日々炊飯器のフタも開くというのは誰のおかげか。みな美観地区、倉敷人の好意の成せる賜物ではないか。俺はひたすら小さくなる。人間とか蜘蛛なんて奴は必要に応じていらでも小さくなるものとみる。 


時は流れる美観地区。夜が明ける。雪の空。と言えば白楽天のまがいものになるが、初めてここに来たのは俺一人ではない。ここ倉敷出身の小野君と群馬出身の田島君とのトリオ編成であった。小野は後に創画展で大賞をとり、田島は子門マサトの歌う「泳げタイヤキくん」の足の出た鯛のデザインで数千万円手にするのだが、この地点では神でさえソッポを向いていたとみえる。桃太郎の鬼ケ島も正直爺さんの雀のお宿も、行きさえすれば的があって外れっこないが、俺たちの旅は暗がりで鉄砲を撃つようなもので全く見当がつかぬ。故に面白いのだ。この息苦しき世の中に、万事が一たす一は二になりきる安直な合理主義時代にだ。まだまだ埋もれたる人材、夢みる人間にも出会うこともある。これから紹介する、たぶん極楽に引越されたと思うが、自称バスク人の子孫という三宅氏。牛のクソを踏んずけたような顔をしなら、星の王子様と名乗るおじさん等登場しドラマがチックに展開するはずだったが残念ながら紙数が尽きた。今回はひとます去ることにするが次回は面白くなる事を予告する。誰かぁ、俺の背中を蹴る奴は・・・・・・・・

2007/08/02(木) 倉敷にがおえエレジー 題3回
蓬髪ニガオエ上人のいでたちを見た倉敷人は代官所の焼き討ち事件以来の大騒動であった事は前に述べた。彼等にすれば大原美術館にある絵具を塗りたくった抽象画より余程奇妙に見えたのであろう。なかでもお婆ちゃんが「南無大師、遍照剛」などと唱えつつ両手を合わす姿にはさすがの俺も恐れいった。お婆ちゃんはてっきりキ印か、破壊坊主ぐらいに思ったに違いない。禅用語でいえば「森羅万象すべてにして異なるものはこれを疑う」だ。では何故、人をコケ脅しするようなそんな格好をするのかと詰問する人あるならば、俺は次のように答えるしかない。作家クタバッテシメイ「二葉亭四迷」にのめりこんでいたのである。二葉亭は常に奇妙な風体をして・・・・・例えば洋服の上に羽織を、ヒョウタンを提げて田舎の茶屋を遊びまわったり、垢じみた綿服の尻からげで立派な料理屋へすまして入ってみたりして、そこにこそ本当の人間観察ができるのだと真剣に考えていた。また、人間の美しい天真はお化粧してきれいにに包まれている高等社会には決して現れないで、ボロボロの下層社会にかえって真のヒューマニティを見ることが出来るのだと。だが晩年、それはことごとく失敗であったとして名前のごとくタタバッテしまうのだ。そのエピゴーネンの日蓮ヒケ゛も、人を試すつもりが己が心を破壊したと気ずくのは後年のことである。俺のナロードキもクタバッテ空中分解するのであった。じゃ、この時代はいつ頃のことであったのか・・

2007/08/01(水) 改ー倉敷にがおえエレジー 題2回
分刻みの観光客は小旗とともにバスに押し込まれ、子守の爺さんは寒くなったので家に帰ったのであろう。一人になった俺は石垣にもたれながら考えた。ニガオエで糊口をしのいで27・8年、よくまあ干物にもならず生きてきたもんだと感心した。大阪美術研究所を振り出しに難波、京都、三宮。花の万博で尻をわり、それから上京、銀座、新宿、上野公園。一転フーテンの寅よろしく、北は北海道から南の九州まで祭りを回り回って、落ち着いた先がこの倉敷という按配だ。蓬髪に日蓮ヒゲ、ウス汚れた鼠色のコート、そしてニガオエ道具の入っている頭鉈袋。おまけに煎餅みたいな下駄には、垢のたまった親指が周囲の景色を窺っておる。後で聞くところによると、この姿を見た倉敷界隈の人は倉敷
代官所焼き討ち事件以来の大騒ぎだったそうである。倉敷人が驚けば俺も驚く。よくまあ色んな人間に出喰わし、色んな場所に行ったものだ。出喰わしてないのは生涯連れ添う女と河童ぐらいだろう。行ってないのは宮内丁と刑務所ぐらいだろう。しかし、こういう旅だからこそ人々の喜びや悲しみなど共有出き、人情の機敏に触れられたのではないか。だいたい人間の思想とは大学や図書館、宗教にあるのではなく、本来それはある覚悟をもって生きる人間の生活から、ある毒気をもって沁み出すものと俺は頑なに信じている。それが信じられないのは、旅の空で病気と金に困った経験のない奴だけであ
ろう。それにしても昨今、ニガオエを描いていて感ずるのは笑いを惜しみ、涙を惜しみ、感動でさえ惜しもうと情感の枯れはてた人間、他者に対する共感の欠けた人間がなんて増えたことか。当世はやりの言葉ていえばゾンビのオン・パレードだ。民俗学者の柳田国男氏は昭和30年頃「今のうちに日本人の顔を撮っておかないと、日本人の顔がなくなる」と言ったそうだが、それは超管理抑圧社会の中で人間が生きる根本的な条件ともいえる、そうした充足感すら変態的飽食文化が奪いさろうという時代を予見し言ったのだろうか・・・・

「先生」刹那の想像は矢車のように回転するがこの一声で現実に戻された。スクランブルの編集長・
山本清隆氏だ。彼曰く「先生に原稿依頼の件あって参上しました」とアル中の日蓮ヒゲに見込みをつけるのだ。確かに俺はこの世に対して言いたいことは山ほどあり、話したい事も腐るほどある。こうなれば三千世界の神や仏に忘れられたように沈没している訳にはいかないと、廃屋に帰り書いているだが四苦八苦だ。これを読まされる読者諸氏は四苦八苦だろう。しかし、それでも尚、読み続けるならば、本当に人間らしく生きる場所は何処にあるのか、生きている手ごたえを求め瞳に涙し、さまよい続ける人々に何らかの示唆を与えるであろう。

 時には暗い梅雨空にポッカリ小さい青空を見出して喜びを感じて貰えるであろう。それでも不満あるならば、不肖チモト宏アルコール漬けになった、この汚い顔首を差しあげようじゃないか。


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