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2007/08/26(日)
倉敷にがおえエレジー 題23回
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ただ酒飲み絵師の詭弁かもしれないが酒飲みの名誉?のために申しそえると、一般に酒で正体を失っていると言うがこれほど馬鹿げた言葉はない。何故なら反対にたいがいの人が酒を飲まない事によって正体を隠しているからだ。彼等は極言すれば酒を飲んで破廉恥した者と等しく、ある種の感覚の欠如者であり、一般にイントレラントになる可能性が強い。そこから生まれでた強度の自信は認識の柔軟性を失わしさしめ極端な偽善者となりがちである。だからとっちもどっちなのだ。本来インドのソーマ神にせよ、ギリシャのバッカスにしろ酒に関係する神格は躍動や歓喜、あるいは忘憂を意味するものであった。つまりアルコールとはアラビア語で「引き出す」の意であり、そこへスピリットという言葉をかけて人の魂を引き出すことだ。 ああ・・こめん、飲みたくなった。 お浜・・・・酒や、酒や・・・
続ける・・・ たとえばニガオエを描くとき、頭で掴んだイメージが腕を通って指先で開花するまで普通ガタガタになる。しかし酒を飲むとストレートにいく。頭で描くのではなく、理屈を超えた内なる行為がほしいのだ。無心になる。あれこれ思い煩うと大脳の新皮質が邪魔になる。余計な命令をだして眼フイルターがかかる。故に飲む。浜の真砂が尽きても飲む。縄文人も飲む、キリスト、日蓮、一休禅師、白楽天、横山大観も只ひたすら飲む。乞食エカキも飲む。飲んで駄洒落を吐いてニガオエを描き、偽りの天下泰平安穏を歌うもよし、悲憤慷慨して涙流すもよし、行く付く先は博物館に陳列される魚貝昆虫と同じくアルール漬けになるのもよいではないか。楽天、楽天・・・酒なくして何が己がニガオエ描きかなである。
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