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2007/08/10(金)
倉敷にがおえエレジー 題11回
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山田洋次監督描く「男はつらいよ」の渥美清演じる寅さんなら「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ、お尻の廻りはクソだらけってぬぇ。おばさん・・・まかった数字はこれだけ、一声千両といいたいね。オイ、ダメか?八百・・・六百、よし・・・浅野内匠頭じゃないが腹切ったつもりで五百両だ。持っていけっ、泥棒!」とこう言うだろう。彼もまた各地でお祭り「タカマチ」や縁日で、このような口上で品物を売る事を商いとするテキヤである。これは的屋とも書き「うまく当たれば儲かる者」といった意味にも通じる商売で、その元締めの親分と子分は「神農道」をうたい、「何々一家」といった名をなのる。つまりヤクザの世界にも通じるような一面も持っているのは確かなようだ。無論、人の良い金魚すくいの叔父さんや、甘栗屋の叔母さん等もいるが、テキヤはヤクザ、ヤクザは反社会的暴力集団。ふつう社会市民がイメージするテキヤの最大公約数はこんな図式であろう。
俺だって例外ではない。とくにチャクトウと言って場所を貰いに行く時が一番緊張する。受付場所ではパンチパーマの男達が入り混じりテントの中は空気が極めて薄く、俺達はそれだけで酸欠状態の金魚になつた。そして一列のウンコになってただ「似顔絵描きですが・・・よろしくお願いします」と頭を下げるしかないのだ。ここには烈しい掟がある。だが寅さん映画で見る限り「テキヤ」の世界、渡世の義理というものは何時でもいとも簡単に寅の都合のよいように、その世界に入ったり出たりしてしまうのである。所詮、寅の 香具師はドラマトウルギーの上に成立しており、自然リアリズム論で検討するほど馬鹿げた事はない。「映画はひたすらそれを見る人の幸せを願って作らねばならない」「人を楽しませるのが芸術」だと柳田国男の言葉を座右の銘にしている氏のことだから、一笑に附されてしまうであろう。故に寅が義理「建前」と人情「本音」を御都合主義において、取っ換え、引っ換えしても誰も怒らない。反対に「しょうがねぇなぁ、寅さんは!」と自分の中にある寅さんを許容し、カタルシスの作用でシンドさを解消しつつ、映画館の暗闇で思わず涙ぐむのである。ここに二十数年近くも汎国民的な映画となりえた秘密が隠されているのだと思う。しかし、しかし、この映画は後何年続くのだろう。例えば四十年代の神であった「網走番外 地」の高倉健が年を感じさせたとき、シリーズの命は終わったように、寅さん演じる渥美清も老いぼれ、足腰萎え異郷でと・・・想像するだけでそこには笑いがない。そこには憐れみがあるだけだ。ひるがえって俺も祭りから祭りの生活を続けて十数年、もうソロソロ有封にはいってもいい時分だろう・・・・
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