|
2007/06/05(火)
似顔絵の歴史A古今東西の似顔絵
|
|
|
では「エカキ」という言葉は何時から使われたのか。 「日本書記」の雄略記七年の件には、百済から多くの技術者が渡来した時、陶部高貴(すえつくりこうき)鞍作堅貴(くらつくりけんき)等の中に画部因鞍羅我(えかきいんくらが)といって画部を「エカキ」と読ませているのが最始であろう。
ただし彼等は律令制化の権力組織に隷属的な部民集団で、あの高松塚古墳壁画に見られる様に全ての顔は「引き目釣り鼻」で個性は表現されていない。つまり顔は個性的に描くのではなく、いわば権力そのものを描くことが様式美と確立されていたものと思う。
ところが八百五年に唐から帰る空海が、当地の画家・李真に描かせた真言宗の祖師五人の肖像画は迫真的、写実的であったが為、日本の大和絵に受け入れられ「似絵」と呼ばれる肖像画が誕生する。
鎌倉時代に入ると「似絵名人」と言われた藤原隆信、その子の藤原信実に到っては「似絵描き大名人」と尊称された人々が出るが、源頼朝像や平重盛像を描く延臣画家の手では面白くない。
ところが面白い資料が見つかった。 それは鎌倉時代の最末期、浄土真宗の仏光寺派では絵系図というものを作った。「現存の時よりその面像を写して、末の世までその形見を残さん」という事で、念仏を求めて入信した人達の絵姿を描き、絵による入信譜を作った。なにしろ自分の顔や姿、名前が書き残されるのだから、我も我もと入信し、そのため仏光寺は門前市をなすのだ。
反面本願寺の方は閑古鳥が鳴いたというのも「似絵」の大勝利で、しかもこの絵系図の場合には入信者が庶民で、これは注目に値し「個」への関心が強まってくる・・・
十五世紀には後世から画聖と仰がれた雪舟のような人物が出てくるのだが、とくに石見の大名・益田兼堯の肖像は個性の追求として秀逸の一つである。と同時に画面に「雪舟筆」と署名した事だが、それは彼が独立した画人の行為と自己の作品である事を宣言したことだ。ちなみに彼は岡山総社の生まれであるが、その後、やはり岡山藩の儒者であった浦上玉堂、田原藩士渡辺崋山等、次々台頭してくるのだが、十五世紀という時期に日本絵画史に「近代」を予兆するような、これだけの重みを持つ画人の出現した事は大いに驚きに価する。他に「似顔絵」の言葉を始めて使った浮世絵師・東州斎写楽に言及したかったが、あえて走り抜けよう・・・・
|
|
|
|