美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/06/30(土) 「冬のソナタ」と「おしん」より、学ぶ。
人の心には国境はない。映画おしんは内容も深く広範囲である。時代によって社会や人々の価値観が変わるかに見えるけれどもそれは表面的な現象である。時代の流れとともに移り変わる価値観は時代によって歪められているだけで、人の心の根っこのところは時代が変わっても、国や文化がちがってもそれほど違うはずがない。それはひとつの真実である。映画おしんは時代と国を越えた普遍的な人としてのあり方に迫った作品だからこそ世界中の人々が感動した。

 現代は物質的には恵まれているけれども、戦争中の社会も、敗戦後の社会も、高度経済成長期の社会も見てきた私は心という点では今の時代はあまりにも貧しくしあわせな時代とはいえないと思う。私の親世代は戦争という不幸な時代であり物質的には貧しくもあった。政治は真暗闇だったけれども一般庶民の心は現代よりはるかにあたたかい時代だったという気がする。

 極限的な貧しさの中で奉公に出るしかなかったおしん。学校に行くことすら出来なかったおしん。生きることが精いっぱいという中ではとかく金銭や物に執着して心までも失ってしまいそうですが、物質的な貧しさの中にあっても心豊かに最高の教養と見識を身につけた。

 その心のゆたかさ、あたたかさ、水々しさに感動する。映画おしんはとっくに過ぎ去った貧しかった昔の話としてではなく、時代背景は違っていても現代の問題として考えてみなくては意味がない。

 現代の日本は経済大国で豊かだ豊かだというから一応豊かだということにしておこう。社会には物があふれ、自由があふれ、これほど教育の機会がありながら、なぜこんなにも心がやせ細ったのか。昔の人間に比べると心に対する感度がこれほどまでに鈍くなったのはなぜか。人の気持のわからない幼稚化した人間。おしんの何倍もの才能ある人間が育ってもよさそうなのに現実はその反対である。

 このドラマを古いの一言で片づけてしまって、見ようともしなければ聞こうともしない若い人が多い中で、せめてこの映画を見て感動する若い人がいればむしろそのことにこそ私は感動する。現代だけしか知らなければ彼らにとっては現代はごく当たり前なのであって、現代がどういう時代かわかるはずがない。温故知新なくしては過去も現在も本当にはわからず、将来への展望もない。

 現代の教育の誤りはああだこうだの理屈人間ばかりを育ててきたことにある。高い学費を支払って大学まで卒業しても何もえてこなかったか理屈をこねる材料を仕入れただけではないのか。自由社会ですからどう解釈しようが自由ですが、資格取得とか、知識・技術を身につけるだとかは教育と言うほどのことではない。

 学校を卒業した本当の意味とは一体何なのか。昔は学校などに行かなくても立派な人間はいくらでも育ったではないか。真の教養ある人物は沢山育ったではないか。現代社会ではどんな立派な学歴や資格をもっていても、知識や技術をもっていても、その中味はどうか。社会的な地位を利用して好き勝手する人間の犯罪が多いことをみればわかる。いわゆる勝ち組こそ様々な問題を内包している。そういう意味で、この日本社会では立派だとか教養だとかいう言葉の意味自体がすでに死語である。



冬のソナタ(キョウル・ヨンガ)がなぜこれほどまでに感動を呼んだのか。人間の心に真面目に迫っているからである。60年も以前の日本のドラマをみるといい。夏目漱石の作品でも読んでみるといい。現代日本は敬語も使えなければ丁寧語も使えない。礼儀もけじめも物事の順序も何もかもかなぐり捨ててものを知らない人間の集団と化した。これが民主主義の真相である。まだまだ韓国社会は日本のように堕落していないだけである。

 「人の心の根っこのところは時代が変わっても、国や文化がちがってもそれほど違うはずがない」と言うのはひとつの真実であるが、もう一つの真実として物質と情報は人間の心を堕落させ社会を破壊し崩壊させる。人間を仕合わせにはしないということである。

2007/06/29(金) 税務署ニモ シャブ庁ニモ不満イワズ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
税務署ニモ シャブ庁ニモ不満イワズ
言ワレタダケノオ金ヲ払イ
年金モ辞退シ

慾ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ三枚ノパント
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテ 人ノ情ケヲ忘レズ

美術館ノ石垣横デ
チンマリ似顔絵 描イテイル

東ニ登校拒否ノコドモアレバ
学校ナド行カナクテ良イト言ッテヤリ
西ニアルハイマーノ老婆アレバ
行ッテ良ク話ヲ聞イテヤリ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニ喧嘩ヤイジメガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒトリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニホームレストヨバレ
ホメラレモセズ
ニクマレモサレズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

2007/06/28(木) 倉敷市観光大使うめ吉さん本日倉敷へ
倉敷市初代観光大使に俗曲師うめ吉さん
「倉敷節」など通じ全国にPR

桧山うめ吉さん
 倉敷市は19日、同市出身の人気俗曲師・桧山うめ吉さん=東京都在住=が、同市の初代観光大使に就任すると発表した。うめ吉さんが、昭和初期に作られた民謡「倉敷節」などを収録したCDを27日に発売するのがきっかけで、同市観光部は「コンサートなどで倉敷を全国にPRしてほしい」と期待している。

 うめ吉さんは天城高を卒業後に上京し、国立劇場の寄席囃子(ばやし)研修所に入所。その後、寄席で俗曲師として活動しながら、戦前、戦後の歌謡曲を集めたCDを制作したり、国内外でライブ活動を行っている。

 27日に発売する新作「倉敷節〜倉敷お国じまん〜」では、1936年に詩人北原白秋が作詞しながら長らく埋もれていた「倉敷節」をはじめ、「倉敷小唄」や「下津井節」など倉敷が題材の民謡5曲を収録。今後は、これらの歌を通じて倉敷をPRするほか、市のイベントや宣伝などにも参加し、観光客の呼び込みに協力していく予定。


「倉敷小唄」など安らぎになりますのでurl聞いてくださいー







http://www.hmv.co.jp/product/detail/2555652

2007/06/25(月) 大道絵師 巴里にて客死の唄 2
1 似顔絵やるある 皆来るよろし
  上手くゆこなら 可愛がっておくれ
  娘なかなか きれいきれいあるよ
  チンライ チンライ
  チンライ チンライ チンライライ


2 鉄砲なんぞは ぶよぶよ(不要不要)あるよ
  喧嘩よくない 麦播くよろし
  支那(チャイナ)なかなか 広い広いあるよ
  チンライ チンライ
  チンライ チンライ チンライライ


3 似顔絵上手(うま)いある よく見るよろし
  娘きれいある 見とれるよろし
  上手くゆこなら 耳輪買っておくれ
  チンライ チンライ
  チンライ チンライ チンライライ


http://www.geocities.jp/abm168/Takurou/tinrai.html

2007/06/24(日) 大道絵師 巴里にて客死の唄
1 生まれ故郷を あとにして
  俺もはるばる やって来た
  薔薇の花咲く 巴里中で
  男一匹 腕だめし


2 金もなければ 地位もない
  生まれついての 丸はだか
  持った度胸が 財産さ
  やるぞ見てくれ この意気を
     
     (長い間奏)
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/16-20/rannohana.html

3 赤い夕陽に セーヌ香に
  もえる希望が あればこそ
  なんの苦労も 青天井
  じっと万里の 空を見る 

2007/06/20(水) 似顔絵の歴史4古今東西の似顔絵
ところで小生の友人に奥山という男がいて、彼は現在ドイツのドレスデン美術大学に留学していて帰国するとよく話しを聞くのだが、彼の説によると似顔絵が大量に描かれるようになったのは、鉛筆の発明からであろうと言う。たとえば十六世紀フランソワ一世の宮廷画家であったジャン・クルーエは鉛筆による似顔絵が数百枚、シャティのコレクションに残っているように・・・・

 なおこの似顔絵集は当時複製販売され、人気を得たというがそれは丁度今日、写真やグラフ雑誌が大衆に映画俳優やスポーツのスタープレヤーの容貌を伝えるのと同じであるまいか。

 また十八世紀のルイ・カロジスという画家はオルレアン公のお抱え絵師だったが、カルモンテルという偽名で色んな人の顔を描いたことである。
 そのモデルの其々の物腰、身なりが自然な表情で描かれているのは鉛筆画が油絵よりたやすく、しかも安価であったからであろう。故にクルーエの似顔絵がかって引き起こしたのと同じ様な熱狂が再びみられるのだ。彼の似顔絵も散逸したものを除き、七五0点がクルーエと同じくシャティイに現在も残っている。

 それにしても王侯、貴族、ブルジァア階級だけの肖像画が横行していた時代に庶民を好んで描いたと言う事は二人共、反骨精神を秘めていた事であろう。新たな大きな創造を成そうとする者は絶対反骨精神が必要なのだ。
 ヴアン・エイクは「オータンの聖母」に於いて寄進者を聖母の下に身体をくねらせ、辛い姿勢で跪かせている。ポッティチェルリは「東方の博士の礼拝」に於いてメディチ家の人々を可笑しくなるほど、尊大と傲慢さを描き加えている。レンブラントの「夜警」に到っては光線の原理を追及するあまり、支払いを拒否され、クールベは写実主義を追及するあまり、監獄に囚われているのである。

 話を本流にもどす。先の奥山の話を続けるとドイツに於いてもチューリヒ駅前通りの路上でバグパイプやギター演奏者のストリート・アーチストに混じって似顔絵描きも大勢いるらしい。しかし、何といっても有名なのはフランスのモンマルトルで、次いでスペインのマドリード広場、ニューヨークのグレニッジビレッジ(現在イースト・ビレッジ)であろう。
 ではこれらは何時頃からと言われれば、やはり日本と同じく大正期(一九二0年)以降と推測される。何故ならそれ以前は第一次世界大戦があり、後には第二次世界大戦があって、とてもストーリート・アーチストを横行させる余裕などなかったと思われるからだ。

 日本でも前回で紹介した漫画家の服部亮栄氏が「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」と宣言したのは大正中期であった。この頃は巷に失業者が溢れ、それに世界恐慌が追い討ちを駆け、大学を出た者さえ就職口がなく、況や漫画家や画家を志す者には何をかであり、巷にボツボツ大道似顔絵師が散見出切るようになるのだ。

 それは時代の影に咲いたアダ花であったかも知れない。

 次回 似顔絵の歴史 B

2007/06/06(水) 似顔絵の歴史B古今東西の似顔絵
さて江戸から明治へ時代が変わると、日本人がそれまで知らなかった事物が無数に到来した。絵の世界も例外でなく明治政府が招聘したイタリア人画家キョソーネが描き出した肖像画には無視しえない程の大きな影響力があったといえる。
 それは彼のアカデミックな描法と緻密なコンテ画で明治天皇や元勲達を描いたモノだが、モデルの実在を超えてリアルな印象を見る者に与えるモノであったのだ。
 初代・五姓田芳柳などは西洋画の普及奨励を希念して、門人ともどもと描いた油絵を明治七年の夏、当時、浅草奥山一帯の興行師の取り締まりをしていた新門辰五郎の了解のもとに油絵興行の小屋かけを拵え開業した事だ。木戸番、口上言、囃子方等の陣容も整い、まず場内で、口上言が陳列画の詳しい説明に始まり「よくお目に止めてご覧下さい」巧みに述べれば、見物人は成る程と感激して「画がものを言いそうだ」「今にも動き出しそうだ」着物は本人の切地だろう」等と口々に驚嘆の目を見張ったという。
 もっともここでの油絵は、泥絵具にニスを引いただけの代用油絵であった。しかしこれを見た人々は描かれたものをリアルだと感じたのは、線的遠近法や陰影法を含めて、様々な描写法によって表現された世界を写実的だと感じる認識の方法を、彼等がすでに自然に身に付けていた事を意味する。と同時に彼らは今までの例の「引き目、釣り鼻」という様式化された権力肖像に飽き飽きしていたのであろう。

 あえて言えば大久保利通や伊藤博文等、明治の元勲や権力者をいくらテクニック上手に描いていても共感を得なかったであろう。それは、そういう肖像は国家体制の一環としての表現であり、そもそも「国家」とか「権力」という存在ほど実体のない、また曖昧なモノでない事を肌で嗅ぎ取っていたのだ。ヒットラーやスターリン、毛沢東の肖像画の様にである。
 反面、北沢楽天や岡本一平の風刺似顔絵は本質的には民衆の立場に立った絵画であり、反骨の矢を持っていたから民衆は喝采を送るのだ。

 それらの風潮に浅井忠、石井拍亭、坂本繁二郎、池部釣、川端龍子、東郷青児等有名画家も参加。
 変わった所では尾崎鍔堂の長子・彦麻呂。島崎藤村の息子・鴎助の胎頭により時の権力より弾圧。あの忌まわしい戦争に利用されていく。

 極論すれば何時の世も人は反骨精神を忘れたら駄目だと言うことだ。
 それは人々も濁るし、権力も腐敗する・・・

2007/06/05(火) 似顔絵の歴史A古今東西の似顔絵
では「エカキ」という言葉は何時から使われたのか。
「日本書記」の雄略記七年の件には、百済から多くの技術者が渡来した時、陶部高貴(すえつくりこうき)鞍作堅貴(くらつくりけんき)等の中に画部因鞍羅我(えかきいんくらが)といって画部を「エカキ」と読ませているのが最始であろう。

 ただし彼等は律令制化の権力組織に隷属的な部民集団で、あの高松塚古墳壁画に見られる様に全ての顔は「引き目釣り鼻」で個性は表現されていない。つまり顔は個性的に描くのではなく、いわば権力そのものを描くことが様式美と確立されていたものと思う。

 ところが八百五年に唐から帰る空海が、当地の画家・李真に描かせた真言宗の祖師五人の肖像画は迫真的、写実的であったが為、日本の大和絵に受け入れられ「似絵」と呼ばれる肖像画が誕生する。

 鎌倉時代に入ると「似絵名人」と言われた藤原隆信、その子の藤原信実に到っては「似絵描き大名人」と尊称された人々が出るが、源頼朝像や平重盛像を描く延臣画家の手では面白くない。

 ところが面白い資料が見つかった。
 それは鎌倉時代の最末期、浄土真宗の仏光寺派では絵系図というものを作った。「現存の時よりその面像を写して、末の世までその形見を残さん」という事で、念仏を求めて入信した人達の絵姿を描き、絵による入信譜を作った。なにしろ自分の顔や姿、名前が書き残されるのだから、我も我もと入信し、そのため仏光寺は門前市をなすのだ。

 反面本願寺の方は閑古鳥が鳴いたというのも「似絵」の大勝利で、しかもこの絵系図の場合には入信者が庶民で、これは注目に値し「個」への関心が強まってくる・・・

 十五世紀には後世から画聖と仰がれた雪舟のような人物が出てくるのだが、とくに石見の大名・益田兼堯の肖像は個性の追求として秀逸の一つである。と同時に画面に「雪舟筆」と署名した事だが、それは彼が独立した画人の行為と自己の作品である事を宣言したことだ。ちなみに彼は岡山総社の生まれであるが、その後、やはり岡山藩の儒者であった浦上玉堂、田原藩士渡辺崋山等、次々台頭してくるのだが、十五世紀という時期に日本絵画史に「近代」を予兆するような、これだけの重みを持つ画人の出現した事は大いに驚きに価する。他に「似顔絵」の言葉を始めて使った浮世絵師・東州斎写楽に言及したかったが、あえて走り抜けよう・・・・

2007/06/03(日) 似顔絵の歴史 @
似顔絵の歴史1古今東西の似顔絵

 「似顔絵漂流記」で玉川しんめい氏は次のように書いている。
 「肖像画の歴史まで遡れば、遠く奈良朝の聖徳太子像以来と言うことになりかねないのであるが、現在の似顔絵という商売が成立して、絵師が街頭に立ち始めたのは、どうも大正期以降という事らしい。それは昭和二年に服部亮英という漫画家が「似顔絵雲水」なる本を書いていて、本人は関東大震災後に風の吹くままに人の似顔絵を描いて全国行脚を試みているのであるがその中で次のように述べている。

 「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」
 「大正八年だったと思う。静岡民友新報に川瀬蘇北氏がおられた頃、大坂漫展の帰りに立ち寄って、この地では初めて漫画展覧会を開催した。その席上で常時静岡市の名士の似顔絵を描いた事があった」
 「時の内務部長、駅長、助役、検事、等の顔が数分間に描かれると直ぐ会場の一隅に張り出された。大勢の男女学生はやんやと押し寄せて、似てる似てないと、御本人のモデルを側にして批評していた」
 「似顔絵を民衆の前で描いたのは、恐らくこの時が初めてで、東京ではまだみられなかった。云わば静岡は漫画似顔絵の民衆化としての酵母の地であり、かくして近代似顔絵の発祥は大正中期にあると考えられる」

 少々、引用がながくなったが、確かに似顔絵が盛んになったのは大正中期頃からで、例えば詩人の金子光晴が渡欧の際、金の無いときは船の中で似顔絵を描いたというが、彼にすれば東京美術学校時代から浮世絵師の小林清親に師事しているぐらいだから似顔絵ぐらい簡単な事であったろう。
 またその頃、哲人ジャーナリスト松尾邦乃助がパリ滞在中、サンチェスという大道似顔絵師にカルカチュア風の似顔絵を描いて貰っている所をみるとヨーロッパでもボツボツ大道似顔絵師が出て来たものと推測する。
 前衛画家・岡本太郎の父・一平も明治のポンチ絵から脱して、軽妙洒脱な風刺似顔絵で新生面を開いたのも大正時代で、その辺りより近藤日出造や清水昆等の似顔絵の大家が出てくるのだ。
 そこで俺は俺なりに戦前・戦後から平成まで続く似顔絵師列伝を考察しょうという訳だ。



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