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2007/04/05(木)
ホームレス画家のホームレス訪問記A
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車上ホームレス氏はよほど好きなのだろう「パリは燃えているか」の音楽をガンガンかけ、「師匠、留守は大丈夫ですか」「師匠、金の管理はしっかりしなければいけませんよ」とか何とか、つまらぬ事を話かけてくる。氏は躁病持ちなのだろうか・・・
俺は「うるさい」と思いつつも、氏に納得いくように答えてやる。それは 俺が大道で似顔絵を長年やって身につけたのは、どんな種類の人間でも、その人の興味を中心に話をする技術を身につけたからであろうと思い、一人苦笑する。
それとともに長年の似顔絵放浪旅でどんな環境でも寝れる術も身につけている事である。 俺は音楽とカメラマン氏の話続ける雑音を子守唄に深い眠りに陥っていった・・・・・
ウトウトしながら取りとめないことが脳裏をかすめる。
俺の実家は小さな食料品店でその近くの公園にもホームレスが二・三人住んでいた。その人達にアルツハイマー気味の俺のお婆ちゃんが食料品を持っていくのだが、それを近所から咎められていた事である。 何故なら二・三人が五人、六人と増えてきたからであり、それも前からいたおとなしい老夫婦のホームレスが追い出され、凶暴そうなホームレスが住みついたのだ。それを姉はいつも謝りにまわっていたな・・・
思うにホームレスの世界とは、生存をかけた剥き出しの競争社会であり、ややもするとホームレスの中の弱者は、仮の棲家からも排除されてしまう。そして、もし、そうだとするならば、それは子供の世界が親の世界の反映であるのと同じように、日本社会の現実をも写しているのであろう。
会社で、学校で、あらゆる組織で、正論を吐く人間、異質な人間、弱い人間は排除されているのではないか? 現代は悪貨が良貨を排除するような社会になっているのではないか? そして最後には力がものをいう世界なのではないだろうか?
だからこそ、日本社会は世界中のどこの国と比べても、次ぎから次ぎへとホームレスを排出し続けているのだろう。
しかし、公園から自立するホームレスもいる。民間の宿舎に入るものもいる。死ぬものもいる。だがすぐに新たなホームレスが現れる。切りがないのだ。
俺はこの事で、できるだけ冷徹な目でホームレスの人々の世界をみてきた。だが今は、奇妙な感覚に囚われている。冷徹な目で見られていたのは俺のほうではないのだろうか・・・と?
我々と我々の属する社会こそが、ホームレスの人々の存在に、鋭い問いをつきつけられているのではないのだろうか?
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