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2007/04/15(日)
ホームレス画家のホームレス訪問記 J
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「T君、おはよう、オレだ!!」
車の中を見るとよほど疲れているのか、大きな口を開けて寝ておる。相変わらず「パリは燃えているか」の音楽が鳴っている。
「T君、私だ。エカキの」 肩を揺さぶると眼を宙にそえて・・・ 「社長、・・・ああ、師匠だっか」
追い出された会社の事を夢見ていたのであろう。長年勤めた会社の事を一ヶ月や半年で忘れられるものではない。いわんや髪振り乱し働いてきた血は骨の髄まで沁みこんでいるだろうからだ。
「師匠、警官が二時間おきにきよりまして。その度に車を動かさなああきまへので、おちおち寝てらへんでしたわ」眼をこすりこすり起きだして来た。
このT君も、サブやんも俺も男の舞台をもぎ取られた人間である。篠田節子の「小説・カノン」の一節、「普通に生きていくこと自体が限りなく難しい人々が、世の中にいる」という部類でもある。
俺自身に限って言えば、バブルの時期から、人々が非常に大事なものを身の内からも外からも崩壊していくという感じがニガオエを描いていて、お客さんの顔から痛烈に感じるようになった。
「巨匠たちの自画像」を表したマヌエル・ガッサーは「顔とは自我と環境の衝突によって作り上げられる現場だ」と結論した。 この言葉はまさに至言で、例えば最近の政治家、教師、医者、坊主までが顔が良くわからない。これは彼等の自我というか、使命感の欠如であり、モラルの崩壊であろう。女でもいいとこのご令嬢と思っているととんでもないコールガールやアダルトに出没しておられるのである。
民俗学者・柳田國男氏は「いまのうちに地方を回って顔の写真をたくさん撮っておかなくてはいけない。何故ならもうじき日本人の顔がなくなるからだ」とおっしゅっている。 作家、司馬遼太郎氏は「現代の人間は魂の量が希薄だから書く気しまへん」ともおっしゃる。
まあ、いいだろう。日本人の顔が進化か、退化か、皆が宇宙人や北京原人の顔に画一化されたら似顔絵描きやすいじゃないか。
「ああ、エカキさん、おおきに。皆喜びますわ。最近は夫婦とか、親子連れのホームレスも多くなりよりましたさかい・・」 サブ爺さんはそう言って山と積まれたリヤカーを押して去って行った。
「師匠、大阪で一番見晴らしのいいのは何処か知ったはりますか?」 「そりゃ、大阪城の天守閣からのながめやろ」 「ちゃう、ちゃう。このオータニホテルの屋上からの眺めだっせ」 「どうして?」 「そや、おまへんか。黒いグロテスクな建物が見えよりまへんもん」 なるほど、奇妙なグロテスクなホテルの屋上に立てば、それは見えない。人生でも絶望とか悲しみの上に立てば絶望も悲しみも見えないのと同じ論理だ。
「T君、そろそろ仕事に行くか? 「・・・・行きまひょう」
人の顔もそうなら、建物さえ、刑務所を模倣したビルの中を歩いていった・・・・・
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