美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/04/23(月) ホームレス画家のホームレス訪問記 L
 大道で商売する場合、八目ウナギみたいに八つの眼が必要である。客相、流れ、露天、警官の様子、隣の商売、天候等等で見る為に・・・・

 天気は暑いが暑さを凌ぐ木もないので我慢することにして、それ以外は申し分ない場所である。ただ、離れているが新しく店開きしている露天の人がちょっと気にかかるが、贅沢は言っておれない。早々「嵐」の二ノ宮や大野などの似顔絵を並べ始めると、おかしなコスチュームを着た女の子の悲鳴にも似た歓声があがる・・・・

 「ああ、お嬢ちゃん。胸に「O」のマークをつけているから大野君ファンだね。おっちゃんも大野君が好きだよ。しかし、お嬢ちゃんのお顔もいいね。何故、おっちゃんの好きな顔に生まれてきたの?」
 大道では腕でかせぐより口でかせぐ、ぞくにいうのをタンカ売だ、というのだ。」

 そこで「女は愛嬌、坊主はお経、漬物ラッキョウでおじさんもお勉強しちゃう。六枚三千円を二千円・・・」 

 もうこうなれば黒山の人だかりで、前で吉本の新人タレントだろう・・・
 
 「ピーちゃん、今日はいい天気やな」
 「何言うてんねん、日干しになるわ、このノーテンキ」と言っていたのが何処かへ行ってしまった。こちとらは船場太郎直伝の猛者とは知るまい。

 「サーサ、イラサイ。イケノコイ」だ。
「サーサ、イラサイ。イケノコイ」
 「何!! 半額、では顔は半分になるよ」
 「そんな可愛い顔して無茶言わんといて、それにしてもお嬢ちゃんは何故、私の好きな顔に生まれてきたの・・・」
 「サー買ったり、買ったり。親は子に、子は孫に伝えたいこの感動を・・」

 こうした冗談を適度に入れて商売するのである。
 ある落語家が言っていたように「緊張と緩和」を上手く取り入れるのだ。

 それと「ああ、ニノちゃん。六月生まれの江戸っ子だね。お嬢ちゃんはダイちゃん・・。彼も絵を描くのが好きだ。それに書道四段だったね。まいった、まいった。おじさんなんかは書道はカイダンだよ。ハハハハハッ。そこのお姉さんはアイバ君、おお、彼はクリスマス・イヴ生まれだったな」

 仕事をする前は必ず「嵐」のメンバーの下調べしたうえで商いすると親近感も増し、ますます売れる。もう、手持ちの絵も少なくなったので手伝ってくれていたホームレスのサブ爺さんと車上ホームレスのT君が車に絵を取りに行った。

 それにしても暑い。ノドはカラカラで日干しになりそうだ。こういう時、俺は俺の親父や爺さんがガダルカナルで、ニューギニアで、インパールで戦かった事を想いだすのである。水だけでなく、食料もなく、マラリアやアミーバ赤痢、それで生き延びても蛾死で数百万の兵士が死んで逝ったことを思うと大抵のことは我慢出来るのだ。

 「ああ、お嬢ちゃんは大野くんね。カルダンの袋、奮発しちゃおう・・・」
 「・・・で貴方は・・・?」

 「ヤイ、ヤイ。カルダンかブツダンかバクダンか知らんがオッサン誰に断ってやってやがるんだ・・・!!」

 「さ・・て、来なすった。」
 可愛いお嬢ちゃん連中は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、華やいだ空気から一変重苦しい雰囲気だ。
 俺はイーゼルに向かいながら、背中で一人、二人、ウッ、七・八人いるな、素早く計算した。大道でやる場合は背中にも「眼」を付けて置かなければならないのである。

「コリャ、ワレェ、聞こえんのか。早く仕舞わんと大阪城の壕へブチコムゾ・・」

 こういう場合、一呼吸置いた方が良いと言う事は長い経験で知っている。彼らの罵声を聞きながら太陽の方へにじり寄っておもむろにに振り向いた・・・

 先ほどからヤイヤイ叫んでいるのは鉄砲隊の中でも、まだ一年生であろう。上は村会議員から下は国会議員までアジるのは一年生に決まっている。故に見え張りだろう。額の側面を異様に剃り込み、眉毛に刺青を書き込んである。馬車馬って言う所だ。そしてスキン・ヘッドの禿げ鷹、片目の丹下シャ膳、三白眼で下から睨みつけるサソリのような奴。そして一番後ろにいる男が葬儀屋だろう。全てを終わりにするからだ。

 こうなると俺は自虐的に嬉しくなる。何故なら今まで無表情の連中ばかり似顔絵を描いて来た反動である・・・・・

2007/04/17(火) ホームレス画家のホームレス訪問記 K
「鶴は千年、亀万年、となりの婆さん後一年。色は黒いが浅草海苔は、白いおまんまの上に乗る。男は度胸で女は愛嬌、坊主はお経で、漬物ラッキョウ。学生は勉強でわっしも勉強させてもらいま・・・す。」

 フーテンの寅さんじゃないが、こういうのを露天商ではタンカ売という。しかし、こういう口上を知らない露天商も多く、なにより道路交通法や人のゆとりのなさで消えていった・・・

 しかし、消えてないのは露天で商売する場合「チャクトウ」といって、そこの親分あるいは責任者にそれ相応の挨拶をしなければならない。
 ところがここは公園管理の管轄で「エーイ、いいだろう」と駅とホールの一番良い場所で店を広げた。
 横になにやら怪しげな姉ちゃん達も店を広げて「嵐」のポスターやビデオを売っている。その前をダフ屋が行ったり、来たりしてこれと思う女に声をかけておる。

 ここで一寸横道にそれるが「露天商」のことを書いておきたい。
 露天商とは昔、神農さんを祭り、薬を売り歩いていたのを嚆矢とする。また仏教の教えを分かりやすい言葉で説きながら香や仏具を売り歩いた武士「香具師」が「野士(のし)」と呼ばれるようになり、やがて祭礼や縁日で者を売る商人全体を指すようになる。これが明治以降「ヤー的」に、更に上下を逆にして「テキヤ」になった。
「目の前の通行人はすべて敵と思って商売せよ」という意味からテキヤになったとも言う。
 テキヤはヤテキ(矢的)の倒置されたもので、商売があたるも外れるも矢の的(マト)に当たるようなものだということから出た言葉でもある。
最後の説が一般的なようで、漢字では「的屋」と書くらしい。
 ちなみにあの有名なモーニング娘の加護亜衣ちゃんは奈良・大和高田市を縄張りとする露天商の親分の娘である。

 しかし、ここは祭りでなく、管理は公園管理人だ。

 怪しげな女の子の横で店開きすることにした・・・・

2007/04/15(日) ホームレス画家のホームレス訪問記 J
 「T君、おはよう、オレだ!!」

 車の中を見るとよほど疲れているのか、大きな口を開けて寝ておる。相変わらず「パリは燃えているか」の音楽が鳴っている。

 「T君、私だ。エカキの」
 肩を揺さぶると眼を宙にそえて・・・
 「社長、・・・ああ、師匠だっか」

 追い出された会社の事を夢見ていたのであろう。長年勤めた会社の事を一ヶ月や半年で忘れられるものではない。いわんや髪振り乱し働いてきた血は骨の髄まで沁みこんでいるだろうからだ。

 「師匠、警官が二時間おきにきよりまして。その度に車を動かさなああきまへので、おちおち寝てらへんでしたわ」眼をこすりこすり起きだして来た。

 このT君も、サブやんも俺も男の舞台をもぎ取られた人間である。篠田節子の「小説・カノン」の一節、「普通に生きていくこと自体が限りなく難しい人々が、世の中にいる」という部類でもある。

俺自身に限って言えば、バブルの時期から、人々が非常に大事なものを身の内からも外からも崩壊していくという感じがニガオエを描いていて、お客さんの顔から痛烈に感じるようになった。

「巨匠たちの自画像」を表したマヌエル・ガッサーは「顔とは自我と環境の衝突によって作り上げられる現場だ」と結論した。
 この言葉はまさに至言で、例えば最近の政治家、教師、医者、坊主までが顔が良くわからない。これは彼等の自我というか、使命感の欠如であり、モラルの崩壊であろう。女でもいいとこのご令嬢と思っているととんでもないコールガールやアダルトに出没しておられるのである。

 民俗学者・柳田國男氏は「いまのうちに地方を回って顔の写真をたくさん撮っておかなくてはいけない。何故ならもうじき日本人の顔がなくなるからだ」とおっしゅっている。
 作家、司馬遼太郎氏は「現代の人間は魂の量が希薄だから書く気しまへん」ともおっしゃる。

 まあ、いいだろう。日本人の顔が進化か、退化か、皆が宇宙人や北京原人の顔に画一化されたら似顔絵描きやすいじゃないか。

 「ああ、エカキさん、おおきに。皆喜びますわ。最近は夫婦とか、親子連れのホームレスも多くなりよりましたさかい・・」
 サブ爺さんはそう言って山と積まれたリヤカーを押して去って行った。

「師匠、大阪で一番見晴らしのいいのは何処か知ったはりますか?」
 「そりゃ、大阪城の天守閣からのながめやろ」
 「ちゃう、ちゃう。このオータニホテルの屋上からの眺めだっせ」
 「どうして?」
 「そや、おまへんか。黒いグロテスクな建物が見えよりまへんもん」
 なるほど、奇妙なグロテスクなホテルの屋上に立てば、それは見えない。人生でも絶望とか悲しみの上に立てば絶望も悲しみも見えないのと同じ論理だ。

 「T君、そろそろ仕事に行くか?
 「・・・・行きまひょう」

 人の顔もそうなら、建物さえ、刑務所を模倣したビルの中を歩いていった・・・・・

2007/04/14(土) ホームレス画家のホームレス訪問記 I
なるほど子供は皆でそだてるか。

 中国の古い知恵でも「親を替えて育てる」と言う諺がある。あの日露戦争で有名な乃木希典将軍も、父親は登校拒否の希典の教育を、叔父の玉木文之進に託している。日本でも成人に達すると「青年宿」みたいな所でしごかれたものだ。

 「何!!ここには学級崩壊とかでノイローゼになった元・先生もおりまっせ」
 サブ爺さんは目を見開いておっしゃる。
 「ところでサブさん、釣り好きの岩さんは?」
 「ああ、岩さんか。この間の台風でテントを飛ばされよって・・・・何でも南港へ行くと言って出ていきよりましたわ」
 「・・・・・・・」

 岩さんとは四十がらみの中年の男で雨宿りさせて貰った人である。

 彼は瀬戸内海の岩国の人で漁師だったそうである。ところが岩国では東洋紡の工場が進出してきて汚染源のため、海の魚がすべて死滅したというのである。そこで東洋紡が死滅した魚を買い上げることに話がついたらしい。       
 それから毎日、漁船が帰ってくると、工場のトラックが待っている。魚種ごとに魚の目方をはかったあと、工場にはこび、タンクに汚染魚を捨てる。悪臭を放つ魚に、市場値の金が払われる。  はじめのうちは、取れば取るほど金になるので、精を出して出漁する人もいた。が、やがて漁師たちの疑いがふくらんでくる。毎日、海に出るのは、捨てるための魚を取るためではない。金になりさえすればよいと、いつまでも割り切れるものではない。たとえささやかでも、自分の仕事に何らかの意味がなくては生きていけない。 「何のための人生か。漁民だっておいしい魚を食べてほしいのだ」「情けのうて涙が出ます」と言い、そこを飛び出してこういうホームレスをしいるのだ。
 しかし、船員保険があるので何とかやっていけるが、もう一度、おいしい魚を取りたいと、とおっしゃっていた人だ。

 俺は彼の話を聞きながらロシアの作家ドストエフスキーの「死の家の記録」だったと思う。囚人に苦役を科し、土の山を別の場所に移し、またもとの山に戻すといった仕事を繰り返させたら、数日で首をくくって死ぬだろう、 これほど残酷な仕事はない。目的や意味があれば、たとえ苦しいことでも我慢するが、まったく無意味なことを自分で知っていて、しかも努力することはできない。それを強制されれば、ついに自分が自分自身に反抗するようになるだろう。この半ホームレス男はホームレスすることで反抗しているのであろうか。ともう一度会いたかったのだが・・・

 「カンジザイ、ボサツ、イッサイ、クヤク、シャリシ、・・・・イッサイ、クウ」

 いつの間に来たのか、網代笠、黒衣を着た坊主が通勤、通学者に「般若心教」を唱えだした。その中にきらびやかなコスチュームを着た「嵐」ファンも混じっている。

 「サブさん。ラーメン十箱持って来たから後で取りに来て・・オレは仕事するわ」

 イッサイ、クウ・・・・・・か。

2007/04/13(金) ホームレス画家のホームレス訪問記 H
JR大阪城口駅方向に行くにしたがって青テントも貧弱なものが多くなってくる。中には「養生シート」と呼ばれる上だけテントを張ったものもある。
 やはりここも力の世界が働いているのであろう。

 「あっ、エカキの兄さんやおまへんか?」
 出し抜けに後ろから声をかけて来たのはサブ爺さんだ。相変わらず目玉の大きいのをますます大きくしてリャカーをほったらかして駆け寄って来た。
 「ヤアー」
 「やっぱ、村田のおやっさんと一緒だっか?」
 村田さんというのは韓国人で、震災でお子さんを亡くされてから、個人でームレスのボランティア活動している人である。

 「今日は違うねん。ホラ、ジャニーズの「嵐」の公演があるやろ。それで来ましたやん」
 「ああ、そうだっか」

 このサブ爺は芸能界のことは良く知っている。あの三田佳子の劇団で貴重なコメディアンであったのだが、三田の息子が大麻事件で劇団を解散、ホームレスになったわけである。サブちゃんと呼ばれるのも昔、有名なコメディアン坊屋三郎に似ているところから付けられたらしい。

 「わてもその公演チケットを手にいれるため三度も並ばれされましたわ」

だいたいホームレスの仕事はアルミ缶集め、早朝、自転車などでゴミの回収所を巡回する。相場は一キロ当たり百円前後らしい。
 リサイクル業、ゴミ捨て場や電車内で入手した雑誌など拾い、安く売ったり、技術のある者はビデオやテレビを修理して売る。
 並び屋、こういう「嵐」の公演などのチケット、有名事件の裁判の傍聴券など。他に花火、花見などの場所取りなどがあるらしい。

 「ところでサブさん。お孫さんを連れたおじさんは元気ですか?」
 「ああ、頑オヤジか。子供が良く稼ぐので毎日、将棋ばかりしとおるわ・・」

 頑おじさんとは岡山、楢橋出で孫が学校嫌いで休んではここにくる。教育委員会が来てもこう言ってのける人である。

 
 「学校など行く必要ない。やたらに知恵を付けられ、小利巧になるように教育を押し付ける。負けてはならない。勝たなければならない、と見栄や優越感を叩き込む。人を押しのけろ。騙せ、人を信じるなと諭させる。肩書きをつけろ、財産を持て、偉くなれと吹き込まれる。そのあげくが三菱自動車や日本ハム、森永牛乳みたいになるのよ。我々さえ森永や日本ハムは喰とらんよ。ワハハハハハ・・・」

2007/04/12(木) ホームレス画家のホームレス訪問記 G
 この噴水広場をメインに西は大阪城ホール。東はJR大阪城ホール駅であり、そのストリートをはさんで木立の中に青テントが点々と見える。
 まずはトイレと思い入っていくと公衆便所を一生懸命掃除しているおじさんがいる。
 「おじさんは市の嘱託の方ですか?」
 「しょくたく?しょくたく・・てなんや」
 「いや、市の方かと思いまして・・・」
 「何、言うてんねん。わしはここでお世話になっているもんやん」
 「・・・・・・・・」
 「あんさん、太陽は誰にでも日を照らしてくれはる。月も、空気も、月々、請求書もけえへん。感謝せなあかん。それでワイに出来ること、便所掃除させてもらてますねん」
 そう言うと、また、振り向いてかいがいしく掃除を初めだした。
その顔はサラリーマンなどが決して持つことのない、天空に吸い込まれそう顔である。

 「健司、話がついた。すぐ帰れ」
 「留男、母危篤、連絡しろ」
 「新次郎、連絡乞う」                                                こういう張り紙や書付が便所のあちこちに見受けられる。

「おじさん、ありがとう。食べさしだが弁当とタバコいおていくね」
 俺は便所を出た。ここ公衆便所の近くが住む人にとっては便利がいいのであろう。青テントというよりトタンで屋根をふいた小屋があり、扉まで取り付けてある。花壇をうまく利用した小屋もあり、その軒下には風鈴が下げられ心地よい音を鳴らしている。

 少しいくとコーヒのいい香りがしてきた。そこは皆の広場らしく椅子が三・四脚あり、そこで新聞を読んでいる人、自転車の手入れをしている人、犬にエサをやっている人、様々だ。コーヒを片手に談笑する空間はまさ野外のカフェだ。

 テントのドアの前に表札を掲げている人もいた。その名は「大阪城」。
 この「大阪城」さんは「自転車修理します」という看板も掲げている。ちょうど中国人らしい人がパンクを直しに立ち寄っていた。ここも屋根はトタンで網戸もしっかりし、古時計まで掛かっており、外観もここ住人のこだわりが見られる。

 よく見ると近所のホームレスそうでない老人達もきて楽しく話しているようだ。

 こういう一面を見ていると「豊かさって何だろう」と考えさせられる。少なくとも俺の日常は、朝ゆっくりコーヒを飲む時間もないし、家のインテリアに凝る気持ちのゆとりもないのだから・・・・
 
  

2007/04/11(水) ホームレス画家のホームレス訪問記7
 橋の中ほどで壕に向かって何やらわめいている男がおる。野球棒をアミダにかぶり、赤いTシャツに縞模様の入ったズボン。その足元には紙ぶくろが三つほどおかれており、典型的なホームレススタイルである。

 「おじさん、どうしたの?」
 「・・・・・・・・・・・」

 振り向いた男は何か不思議なものを見るように俺のつま先から頭まで見て、何等関係なさそうにまた壕に向かってわめき始めた。夢中で遊んでいた子供がフイに声をかけられ、「迷惑な奴」という風情である。

 彼らの多くは会話や理屈、手垢のついた愛など必要としていない。人間と人間の棲む世界の不合理をいやというほど味わってきているから・・・・

 人の世は何処まで行っても不合理なのだ。
 かりに合理が存在していても彼らという生物が
「不合理」に出来ているからどうしょうもないのである。


 ここを通る通勤、通学人もこういう光景には馴れているのであろう。みな足早に通り過ぎていく。携帯電話に何かわめきながらである・・・

 大阪城ホールの前には派手なコスチュームを着た若い娘達があちこちにタムロしているのは、大人が作り出した「嵐」というジャニーズ系の公演がここで今日あるからである。彼女らは九州、東京、はては北海道からも来ているのであるが、他に夢がないのだろうか。
 ホール前の噴水広場前ではどうも「嵐」ファンとは異質の若者が大勢集まっておる。気になったのでその中の一人に聞いてみると「嵐」公演のサポートをするアルバイトだそうだ。

 総務省の発表によるとこうして高校や大学を出た若者が就職せず、遊んでいるいる若者が80万人以上いると言う。

 一般の人はホームレスが増える以前から彼等は経済、道徳崩壊の予兆をとっくの昔に体感していたのであろうか。何故なら彼等は高校受験、大学受験の時、彼等の進路指導の担任教師が全く何の熱意もみせず、ひたすらとにかく無事高校、大学を卒業し、どこでも良いから就職してほしいという教師や親の本音が見えたとき、きっと彼等は真面目に就職して働くことの無意味さを悟ったのではないか?実際、学校卒業時点で就職することがどのくらい困難で、屈辱的な体験にもなりうるか、この時期、年齢の若者と無縁な日本人の多くは全く知らないことがホームレスの増殖より、俺は空恐ろく感じる・・・・・

 いい学校、いい就職、いい結婚、いい子供、いい家庭、そしていいお墓か。

2007/04/09(月) ホームレス画家のホームレス訪問記E
車から降りてタバコに火を点けた。そしてフト「松島とも子」の「ホームレスさん、こんにちわ」という本を思い出していた。 それは具体的には、松島トモ子がとことん脳天気だということだ。
びっくりするぐらい脳天気だ。
「ホームレスさんこんにちは」という書名は、よくもここまでぴったりのものを付けたと思う。
でもその脳天気さが鼻につくようなことはない。
少女のまま大人になってしまった松島トモ子だからこそ、ここまでホームレスの人々の懐に飛び込んで話を聞くことができたのだろう。
松島トモ子だからこそ、相手が警戒心を抱かない、松島トモ子だからこそ、相手に対して特別な感情を抱かないのではないか(それが良いことか悪いことかは別問題)。

ホームレスの人々は、成功者ではない。
だから、苦労話を笑い飛ばしながら、明るい希望だけを語るようなことはない。
過去のよかった時期を述懐しながら、現状に対する諦観、未来に対する漠然としながら明確な形の不安。
ともすれば、読んだ後で落ち込んでしまいそうなのに、なぜか落ち込まないで済む。
それはひとえに、松島トモ子の脳天気さ故のものだろう。

一級建築士の資格を持つ元公務員のホームレスの言葉で印象に残るものがあった。
松島トモ子の
「(ホームレス同士が身の上話はしないというのを受けて)お互いに慰め合ったり、愚痴をこぼしたりするのかと思ったわ」
という言葉に対する、
「皆、ここへ来るまでにさんざん辛い目に遭ってますからね。苦い涙がまんまんと満ちたグラスにそれ以上つぎ足したら、溢れてただではすまなくなるのを知っているんですよ。優しさは哀しみの裏返しでね。ここにいれば人間の業のすべてを見られますよ」
という返答だ。

この言葉に限らず、いろいろな人が、いろいろな場所で、哀しみの数と優しさは正比例するといったことを表現してきている。昔はよく、こういう言葉に偽善臭を感じて、生理的な嫌悪感を覚えていたのだが、最近はなんだか理解できるようになってきた。
でも、強い依存心の裏返しのものも、時には優しさに見えてしまったり、あるいは自分でもそう信じ込んでしまうことがあるので気を付けよう。とはいえ、哀しみが多く、深い分だけ、それが優しさに昇華されると思えば、いろんなことを我慢できるかなぁと思った。

2007/04/08(日) ホームレス画家のホームレス訪問記D
「師匠、この建物がニューオータニ・ホテルでっせ・・・」

 車上ホームレスの指摘にその建物を眺めると奇妙な感覚に囚われる。下から眺めると天まで届けというビルである。この建物も元・大谷重工業が先ほどのアパッチ族が集めた屑鉄を加工し、こうしたホテルを東京と大阪に建てたのである。
 故にここに泊まる外国人観光客などは「日本は十年以上不況が続き、失業率も高くなっていると聞くが、街には着飾った人が溢れ、レストランには行列が出来、若い女性は我々が名前も聞いたことのない高級ブランドを身に付けている。どこが不況なのかわからない」と・・・・・

 彼等観光客が見逃しているもの、それは大阪駅や新宿駅の地下道を「動く歩道、人の座れない不思議なオブジェ、サラ金の広告のある板塀」などで隠蔽しているだけである。そこを追われたホームレスは大阪でいえばこの大阪城公園、扇町公園、長居公園に散らばっているのだ。

 その点、米国の大統領官邸、ホワイトハウスは立ち入り自由の時期があり、そこがホームレスの溜まり場になり、時の大統領が執務室に移動する廊下にも彼等がたむろしていたと言う。この際、大阪府知事公舎も大阪城公園の青いテント村の中に移動すべきかもしれない。

 「T君、俺は一寸大阪城に散歩に行ってくるわ」
 「師匠、わてはここで寝ますわ。でないと警官が二時間おきに回ってきよりますから・・・」

 なるほど道路にはたくさんの白チョークの痕で、向こうの方で警官が車のタイヤ傍に白線を引いている姿が見える。後で回って来た時その車が動いていないならば駐車違反のレッテルを貼られるそうである。なんと愚かな行政であろうか。 俺は壕を渡って大阪城公園へ入って行った。                                                 (続く)

2007/04/07(土) ホームレス画家のホームレス訪問記C
朝もやの中に大阪城が霞んで見えた。

 豊臣の外交官・片桐勝元が徳川のスパイだと決め付けられ、淀君側近の大野治長に追い出されたのもこういう日であったろう。勝元は何を思ったか、家康の住む駿府の小さな寺で割腹するのだが、残された家臣団はホームレス浪人にならざるを得なかった。歴史は繰り返されるのか、今は国から見離されたホームレスの青テントが点々と見える。

 依然として高止まりな失業率、リストラ、倒産。年間四万人に迫る勢いの自殺者。貰えないかも知れない年金保険料。消費税アップの確実な予感。他人が信じられなくなってきた漠然とした不安等等。勿論「今の日本が最高」と言える人が、少数であるが居るという事は充分承知しているが・・・・


 かってのここは作家・開口健や小松左京が描いたような不思議な世界があった。旧大阪造兵工廠が空襲で破壊され、野ざらしにされた無人の荒地であったのである。現在大阪ビジネスパークのある三角形の区画から始まり、南方向へ一キロ以上空襲で焼け落ちた工廠の建物の残骸が連なって見えたものである。

 その工廠の跡地は屑鉄や銅線など替え金出来るものがたくさん散らばっており、多くの人が屑鉄拾いを生業としていたのだ。

2007/04/06(金) ホームレス画家のホームレス訪問記B
高速道路に入ったのだろう、あちこちビルの乱立が見え初めてきた。
 相変わらず「パリは燃えているか」の曲がかかっていて、俺は
また眠りに陥った・・・・・

 そして夢の続きを見続ける・・・

 そもそもホームレスとは現代社会のカナリアではないのか? ?と思い始めたのだ。
 我々は今、幸せかも知れない? しかし、今の社会のありようを続けて行っていいのだろうか、と。

 メキシコで長年サンテーロ(聖画行商人)しながらインディオを暮らした画家・北川民治氏は「救いがたい今の日本の政治家、芸術家」と評している。
 とくに芸術家はネコもシャクシもパリ、パリで女の裸に赤い腰巻を巻いたものや風呂屋にあるような風景画を描いて喜んでおる。金になるからであろう。  メキシコではオロスコ、リベラ、シケイロスという画壇の大家でさえ、うす暗い貧民窟を鷹のような目をして、泥水のような空気の中をぬって歩く。そこには人間本来の姿があり、心に触れ、創作意欲を沸かすのだ・・・・・リベラも、オロスコもシケイロスもここから失われた本能的な命を汲みとってくるのだ・・・
 日本も一度革命が、革命と言ってもドンパチ撃ったりする革命じゃなく、精神的な革命がない以上、このまま放置しておいたら滅亡するよ・・・・・  

「師匠、着きましたよ」 車上ホームレス氏の声で眼が覚めた。        

2007/04/05(木) ホームレス画家のホームレス訪問記A
 車上ホームレス氏はよほど好きなのだろう「パリは燃えているか」の音楽をガンガンかけ、「師匠、留守は大丈夫ですか」「師匠、金の管理はしっかりしなければいけませんよ」とか何とか、つまらぬ事を話かけてくる。氏は躁病持ちなのだろうか・・・

 俺は「うるさい」と思いつつも、氏に納得いくように答えてやる。それは 俺が大道で似顔絵を長年やって身につけたのは、どんな種類の人間でも、その人の興味を中心に話をする技術を身につけたからであろうと思い、一人苦笑する。

 それとともに長年の似顔絵放浪旅でどんな環境でも寝れる術も身につけている事である。
 俺は音楽とカメラマン氏の話続ける雑音を子守唄に深い眠りに陥っていった・・・・・

 ウトウトしながら取りとめないことが脳裏をかすめる。

 俺の実家は小さな食料品店でその近くの公園にもホームレスが二・三人住んでいた。その人達にアルツハイマー気味の俺のお婆ちゃんが食料品を持っていくのだが、それを近所から咎められていた事である。
 何故なら二・三人が五人、六人と増えてきたからであり、それも前からいたおとなしい老夫婦のホームレスが追い出され、凶暴そうなホームレスが住みついたのだ。それを姉はいつも謝りにまわっていたな・・・

 思うにホームレスの世界とは、生存をかけた剥き出しの競争社会であり、ややもするとホームレスの中の弱者は、仮の棲家からも排除されてしまう。そして、もし、そうだとするならば、それは子供の世界が親の世界の反映であるのと同じように、日本社会の現実をも写しているのであろう。

 会社で、学校で、あらゆる組織で、正論を吐く人間、異質な人間、弱い人間は排除されているのではないか? 現代は悪貨が良貨を排除するような社会になっているのではないか? そして最後には力がものをいう世界なのではないだろうか? 

 だからこそ、日本社会は世界中のどこの国と比べても、次ぎから次ぎへとホームレスを排出し続けているのだろう。

 しかし、公園から自立するホームレスもいる。民間の宿舎に入るものもいる。死ぬものもいる。だがすぐに新たなホームレスが現れる。切りがないのだ。

 俺はこの事で、できるだけ冷徹な目でホームレスの人々の世界をみてきた。だが今は、奇妙な感覚に囚われている。冷徹な目で見られていたのは俺のほうではないのだろうか・・・と?

 我々と我々の属する社会こそが、ホームレスの人々の存在に、鋭い問いをつきつけられているのではないのだろうか?

2007/04/04(水) ホームレス画家のホームレス訪問記@
 流浪の終点は死である。

 勿論、一直線に生きた方の終点も死であるが、絵筆とスケッチ・ブックだけ持って出かけた。 
己の部屋から出て行くことはパソコンや本棚から離れること、持っているものから離れるのことなのだ。それからお手伝いや友人や銀行通帳とも離れるのである。

 なんと素晴らしいことだろう。

 裸で生まれてきたのに生きているうちに色んなものが纏いついてしまう。
 それはその時の状況では垢やダニである。
 持ち物、家族、友人。失礼だがお客さんまで垢やダニに感じてくる。その垢やダニから離れることが出来るのである。

 今回は一期一会で知り合った、車上ホームレスのカメラマン氏と同行であるが・・・
 さて私達の行く先は観光地でもなく、風向明媚な所でもない。ホームレスの住んでおられるような所である。

この車上ホームレス氏とは二・三日前、倉敷・美観地区で知り合い、私の家に来てくれたのである。
 氏は大阪・泉南地方のあるIT関係の仕事をしていたが、やり手で同族会社が赤字を出したことにより、親会社より派遣されたのだが、氏は何事でもズバリという性格で煙たがられるようになる。
 ある意味では会社で仕事をする事は出る杭はうたれる。況や、家庭や仕事、あるいは財産など執着するものを持つことによって正直な言葉や行動をおこせないことが多い。

 可哀想な人を見ても、眼を閉じて見ぬふりをし、言いたいことも大部分、唇の奥に閉じ込めてしまう。そういう垢をスーツで押し隠し生きているのである。

 氏はそれが許せなかった。孤軍奮闘するのだが気がついた時は病院であった。

 社長は氏に休養を命じ、給料払うからしばらく会社にくるな、と。
 いい話のようだが、困ったことに氏の家の近くには親戚、友人もいる。まして近所の手前、大の男が家でゴロゴロしておれない。・・・・・

 そこで朝九時に会社に行くふりするが行くあてがない。近くの公園もあきて、遠出する。鳥取へ、島根へ、愛媛へ、岡山へという具合で車上ホームレスになったという訳である。

 長くなったが「さあ、出発だ・・・」ホームレスにやるインスタント・ラーメンも積み込んだ。車の中は以外に広くクーラー、ステレオも完備してある・・・・・

2007/04/03(火) ホームレス画家のホームレス訪問記
 ホームレス支援の堀部氏より、元・漁師の岩さんと元・大工の国さんが亡くなったの連絡を受け、急遽、大阪へ。

 ところが大阪城へやって来て驚いた。青いテントの山々であり 、なんとも不思議な光景である。これが先進国といわれる国なのだろうか。1箇所にこれだけの数のホームレスが集まっているのは・・・・頭の中にみるみる疑念が沸いてくる。

 確か国際協力事業団のパンフには「我々先進国の人間は、ヒューマニズムの観点から途上国に対して無関心ではいられない」とある。だが寡聞にも、日本の政治家たちや官僚、とりわけ大蔵官僚たちが、ここの現状を視察に来たとは聞いたことがない。

 海外には、何兆億円もの援助をしている。この国は、まるで外見が大事とばかりに破産した肉親は見向きもせずに、町内会全ての寄付金を贈与する、馬鹿一家ではないか。

 俺はきしくもマザー・テレサ氏が來日した折の言葉を想いだしてた。  
 「この日本は人間が人間を見捨てているのよね。政府は人々を、人々は政府を、親が子を、子が親を、兄が弟を、友が友を、隣人が隣人を」という言葉を。

 こんな状態にしておいて何が指導者か、教師か、日本国民か。
 確かに不況で失業率は五・六パーセントと高い。しかし、失業率三十パーセント以上の国でさえこんなに多くのホームレスを放置している国なんか聞いたこともなく、見たこともない。

 こうなった原因の一つはマックス・ウェーバー風に言えば職業的論理の衰弱であるとともに、高度経済成長を境に管理社会が家庭だけではなく、学校まで侵蝕し、いわば異種の私によって乗っ取られた虚偽の公「おおやけ」に喰い荒らされ、吸収され、精神まで空洞化されたからだろう。

 私は腹が立っている。
 血圧も高くなっている。

 イランの自衛隊じゃなく、多国籍軍という軍隊はオランダも帰るし、すぐ引返してホームレスで一個師団を作ってイランのお手伝いするのが憲法にも触れず、一石二鳥じゃないのかな。

 そうそう、ホームレスを馬鹿にしちゃいかんぞ。
元・自衛隊員もおるし、建設業の元・社長もおる。命知らずのヤクザもおるし、全て揃っているではないか。

 第二次世界大戦のおりは刑務所入りや乞食まで狩り集めて南方へ送ったではないか。
 己さえ良しとする生活はもうやめようではないか。
 俺も一介の乞食絵描きだが、最近の日本人の顔は惨くて描く気がしない。

 人間の顔を悪くするのは神の激しい刑罰なのだ。

 興奮してる。血圧高い。故に文脈の乱れは諒とされたしよ。

 ウハハハハハハッ・ホームレスの高杉晋作だ。

「面白くない世を、面白くするのが人間の務めじゃないのかな・・・・」

 乞う、ご期待を・・・・

2007/04/02(月) 40年前の美観地区日記より。 終章
ブックス評論・「モンマルトルの丘は観光客相手の画家で賑わう。日本でも七・八年前までは銀座四丁目界隈で似顔絵師達がイーゼルを立てかけ、通行人の足の止まるのを待ち構えていたものだ。今はほとんど見かけなくなった。のどかに似顔絵の出来上がりを待つ心や時間のゆとりがもうないのか。銀ブラも死語になってしまって、心の遊びとは無縁の雑踏の街になり果てたという事か。
 今は昔・・・上野や浅草、銀座、新宿とベレー帽をかぶった街の絵師達の仲間に、七十年代初めのヒッピームービメントを経験した新種の似顔絵師が加わるようになった。
 この本の主役ヒッピー風似顔絵師ガタロー事チモト・ヒロシもそんな一人で、丁度「越中ばんどり騒動記」に取材に来ていた玉川しんめい氏と地元の変わり者が出入りする喫茶「ボロ」であったのも神の配剤であったろう。しかも初対面ながら十年来の知己に巡り会ったように話が弾んだ。それもそのはず、ガタローが信望する人物を書いた愛読書「評伝・辻潤」の著者は、誰あろう目の前の玉川さん。それが別れぎわに分かり、二人とも合点したのである。


 ガタローの話は、なぜ似顔絵師になったのか。似顔絵師は一ヶ月どのくらい稼げるのか。どのようにして客を勧誘するのか。旅に出る時は何処に行くのか。
 一人で聞くには勿体ないような、面白い人生放浪記だった。
 ガタローは四十歳、四年前から倉敷を日本のモンマルトルにしょうと、大原美術館前で似顔絵を描いている。
 「似顔絵が一番受けたのは、高度経済成長がピークに達して、そろそろ崩れかけた昭和五十年頃です。当時はどんな下手くそな絵師にも客が並ぶほどでした。」と。
 彼は高校を中退して大坂美術研究所に通いながらアルバイトをしていた時、ホテルのパーティ会場で似顔絵を描く仕事が舞い込んだ。二・三時間で良い稼ぎになった。以来、二十年間、来る日も来る日も他人の顔との付き合いの始まりだった。持って生まれた陽気な性格も、大道で未知の客とのコミニュケーションをはかるにはうってつけだった。玉川さんがガタローの側に立って客のやりとりを聞いていると、話術ショーを聞いている趣があった。

 彼は初め京阪神、そして東京へと移動していたが、都市開発や道交法、それに都会人の心のゆとりなさに嫌気がさし、全国的に露店商が繰り込むお祭りに行くと、相当な稼ぎになる事がわかった。以来、映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんと同じである。
 ただ絵を描くのが好き、人と話すのが好き、旅に出るのが好きというだけでなく、似顔絵描きとしての生き方を選んだのはガタローなりの人生哲学があった。もし、この世に似顔絵師の様な大道芸がなければ、画一的な管理社会が出来上がるだけで、息抜きというモノがなくなってしまう。そんな四角四面の社会では、人々だってやっていけないのではないだろうか、と。


 又、玉川さんの人生哲学とも波長が合ったに違いない。ジャーナリストでもある玉川さんに依れば地域別似顔絵師列伝と、各県人別の名字と性格、体型の違いを一覧表にした章はガタローが二十年をかけて体得した人物判断で、一読のもとに読者にも理解させる貴重な報告だそうだ。

 ではガタロー語録を二・三紹介する。
 「顔ではなく人を見よ。が似顔絵の極意で、それは瞬視にある」
 「似せようとしても駄目、人の顔なんて多少残酷に扱った方が良い」
 「僅かな人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。俺のほしいのは大衆の喝采だ」
 「あってもなくってもよい、と言うのが大道絵師、それを命がけでやる」等々。

 そしてガタローは最後にこういうのだ。
「日本人は戦後本当に平和と幸せをかちえてきたのか?それを問うために、やがてこの倉敷も出て四国八十八ケ所の旅に出たい・・と。
 それは弘法大師の遍歴した後を追って、行きあう人はいうに及ばず、草木虫魚に到るまで合掌しながら、人の魂を打つような形を求めていきたい、と。道なき道を行く戦士、オフロード・アドペンチャラーよ。いや、孤独で自由な渡り鳥よ、すこやかに飛んでくれ!・・・・」


 どれもこれも穴があれば入りたいような批評であるが、俺自体、常に夢に現れるのは死んで逝った大道似顔絵師の事ばかりてある。いそがなければならない。俺にとっては死者達の世界こそ花ざかりなのだから・・・


本当に皆さん、長い間トビをよごしてすみませんでした。しかし、目暗千人に目明き一人とは良く言ったもので私を理解してださる良き友も出来、たくさん注文頂きました。鳥取の方が多いのはどうしたのでしょか。
 いずれにしろありがとう御座いました。       チモト・宏拝


本はこちらで手にはいります。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/03662740

2007/04/01(日) 40年前の美観地区日記より。 九十回
47 終章 似顔絵師の墓漂碑

 前号で大道似顔絵師は大部分消滅したと言った。すると読者から「お前は消滅したというが東京タワーや時代劇村、あるいはイベント等で幾らでもいるではないか」というご指摘をいただいた。
 違うのだ。俺の言っているのはあくまで大道で似顔絵を描いているもので、檻の中にいれられ、キバやツノを抜かれ、バカなパフォーマンスしている似顔絵描き等の事をいっているのだ。
 思うにこの消滅の傾向は昭和六十年前後より予感するようになり、どうしても大道似顔絵師のことを活字に定着したく、「似顔絵漂流記」を発表した訳である。まさに大道似顔絵師の墓標碑であるが、最後にこの本に付いての評論を書き、この章を終わりたい。

 中央公論「誰でも出会っているのに、何時かその事を忘れてしまう。私達にとって(大道似顔絵師)はそんな存在ではないだろうか。本書は、現在全国に四十人(うち半数以上は東京)いると推定される彼等の生態を丹念に伝えるものである。絵筆の実力はともかく、破天荒ぶりではいずれもひけをとらぬ奇人、変人達のバイタリティ溢れる姿には唖然とさせられる。とりわけ、好奇心旺盛である事おびただしく、大胆かつ人情家、したがって好色な主人公ガタロー(俺のアダ名)が著わした「全国漫遊日誌)は圧巻である。宿も金もない放浪の旅ではあるが(あるいはそれ故にか) 当世これほど豊かな日常を送っている者が他にいるだろうか。と羨望せずにはいられない。もしかしたら、私達がとうに忘れてしまったのは、人間そのものに直面する素直な眼差しなのかも知れない。

 文芸春秋・「似顔絵漂流記」という題名から察しられる通り、ガタローの描いている日記は秀逸だ。どの章にも変わった人物が登場し、内容を面白くしているが、考えように依ってはガタローの訴えたいのは、似顔絵描きから見た社会と人間の実装ではないかと思える。それはガタローが滑稽やユーモアやエロチックの絵筆を駆逐して面白おかしく描いているが、読者の勝手ですまされねものは、ガタローがそれを通して訴えようとしている慟哭や怒りから眼をそらす事である。ガタローが力をそそいで描きだそうとしているのは、これらの登場人物への深い愛情であって、読者はそれを感じてくれれば笑いも涙に変わるであろう。またガタローにとって何処の誰かもわからぬ一介の貧乏画家であり、ヤクザである汚き格好をした者によせる庶民の愛情である。我々と同じく貧乏で不幸で惨めな境遇にありながら、その中にこそ、美しい人間性を見出そうとする探求にこのガタローは賭けているようである。故に高度成長とかいいながら、道具に使われ、身辺を飾りたて、内容空疎な人間達には痛烈な批判の一書になるだろう。



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