美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/03/11(日) 40年前の美観地区日記より。 七十回
 たしかに彼は強力な精神と反骨の精神を維持し、戦争中も一切の協力態度を示さず、尺八を吹いて門付けをして歩き、終戦前シラミに喰われて死ぬという「自我教」という精神を具現した人だった。

 ここに玉川しんめい氏が興味を抱き「日本ルネッサンスの群像」、「エコール・ド・パリ野朗」等々、辻は勿論、その周辺の大正期に活動したダダイストの連中をを描き続けるのだ。
 大正期は戦争と戦争の谷間で色んな思想が百花繚乱の如く跋渉していた時期だったのである。

 反面、現在は私的な情念や感覚をまったく受け付けぬ無味乾燥な文化であり、一切の人間がもはや主役でない事を物語っている時代でもある。
 況や玉川氏の師は中国に造望深く、ルポ・ライターという造語を最初に作ったのは竹中労氏であり、なんと師の「狂疾」を救ったのは大道似顔絵師と言うのだ・・・・・・

 そのメフィトフェレスは一九四七年秋、師を山谷の家に招き、己の女房に春をひさがせる生活を開陳し、それでも本人は酒飲んで乱れず、世故に長け、仁義をわきまえ、男の情操において欠ける事なき、「ますらお」を見るにおよんで師の思想が一変するのである。

 ちなみに師の父親は江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史らの作品にシュール・レアリズム風のユニークな挿絵を描いた人であり、と同時に無産者同盟のボスであったのだ。
 そういう事を聞き及んでいた玉川氏は現在の大道似顔絵師に相通ずるものを見、食指を動かしたといえば少々付会しすぎるきらいがあるだろうか・・・・・・


 玉川氏がこの倉敷にやって来たのは昭和六十年四月初めで、美観地区の柳が小雨打たれ緑が鮮やかな日であった。それから約半月間、俺の書いていた「似顔絵ロマン太平記」を元に、削ったり、書き加えたりの作業が始まるのである。
 それは俺にとっては陣痛の時期といっても良かった。
 反面、一刻も早くこの自分自身の内にあるモノを明るみに取り出して見届けかった。
 あえていえば、人は誰でも一生のうち、これだけはしておかねばならぬという主題を持って生きているのものである。途中どんな脇道の仕事をしていても、長い間、筆をとらなくとも、頭の中では何時も主題の事を考えているものではないだろうか。
 それは執念と言ってもよいし、人を憂うる気持ちに近いといっても良い。
 故にその年の十二月にパン・リサーチ社より出版された時は、ある程度の精神安定を得たが、それに懲りず又、こうして駄文を書いている所を見ると、人間それほど簡単に情念の放棄は許されないのだろう・・・・・

 俺はまだ脳病の魔王に睨みつけられているのだ。


 
ここより購入してください。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/03662740

2007/03/10(土) 40年前の美観地区日記より。 六十九回
 所が「縁あれば千里」という如く、一寸した事で知り合っていた作家・玉川しんめい氏に原稿のコピーを送っていた所、返事が来たのだ。

「面白く読みました。貴君の書いたのは面白半分や趣味的な発想からではない。一人の人間がある時期、何かひたむきに信じ、闇の中の灯かりの様なものを求めて、旅して歩いたという過程の物語に感動したのです。四月初めにそちらにまいりますので、もう少し発酵させ陽の目を見せる事に致しましょう。」とおっしゃるのだ。

 人間と言うのは何処でどうなるか分かったものではないが、氏と最初に出会ったのは十数年前の富山市で、早稲田大学演劇部のOBがやっている茶店「ボロ」であった。

 その頃の俺はドサ廻りの真最中で相方はオランダのヤン君と初枝ちゃんであり、「人間ウオッチング」だと称しては食堂や喫茶店に入る時は俺一人が先に入り、バカなパーフォマンスを演じて皆から顰蹙を買う頃、ヤンと初枝ちゃんが入り人の顔を伺うみたいな事をして喜んでいたのだ。そんな客の中に作家・玉川しんめい氏が居たわけである。しかし、驚いたのは俺の方で氏が「評伝・辻潤」の著者であると共に、俺も又、ダダイズムにのめり込んでいた時期であったのだ。


 余談だがダダイズムとはトリスタン・ツアラーがスイスで始めた芸術運動だが、第一次大戦後、文学、美術、演劇に強烈なる影響を与え、各国に燃え広がり、日本では大正九年「ダダとは未来の放棄である」と「万朝報」に紹介されたのを嚆矢とする。

 ダダの先覚者・辻潤。小説家の竹林夢想庵、前衛詩人の高橋新吉。又、この岡山出身のダダ新聞を発行していた吉行エイスケ等々が有名であるが彼等はソシアリト、デカダン、ニヒリスト、アナーキスト、コスモポリタン等と一般に呼ばれたように、あらゆるものを包容し、否定していたものと思う。

 とくに加えたいのは辻潤をもって全訳されたマックス・スチルナーの「唯一者とその所有」である。
 その所有とは自我教であり「汝は汝の汝に生きよ」とか「万物は俺にとって無だ」であり、辻にとって唯一者とは仏教でいう即心即仏であって白痴浄土と解し、あらゆる虚偽的な外片が皆、剥奪され、一見何も身につけていないルンペン状態にならなければ駄目であって、刹那を最も充実した生命的欲求におき、虚無において、そこから生まれる創造を発露しょうとした訳である。

2007/03/09(金) 40年前の美観地区日記より。 六十八回
35 「似顔絵漂流記出版さる」

 俺は考えた。ユートピアン? ポンや丸尾氏のように、強い意志を持つユートピアンであればそれなりに立派だ。
 しかし、俺はそうじゃない。酒でも飲まなければ他人と話す事が出来ぬ、弱い情けないユートピアンだ。
 羞恥の狂言、凄惨な擬態を繰り返すユートピアンだ。
 まったく筋道も思想もない不潔の一句に尽きる矛盾だらけの男である。
 しかし、俺の内奥で鬱屈している或る想念は、どんな甘い夢を持ってしても、酒や女でも、それを押し静める事が出来ないものであった。

 その矛盾をどのように解決するか。それには先ず己の内に一杯詰まっているものを明るみに取り出し、ハッキリと自分の眼で見届ける事ではないか。

 全国を十数年ニガオエを描き跋渉した時の心情や見聞、色んな人達との出会い等、その一つ一つが俺との事項のつながり、互いの関係を明らかにする事によって、今までまったく混沌とした状態に置かれたまま出口もなく、迷路に嵌まり込んでいた己が打開できるのではないか。

 己のなして来た行動をしっかり反芻し、それを正しく整理し、己の想念が誤りなく発露する欲求が生まれてくるのは当然の事なのである。
 キザにいえばその時は胸の内にあるものを全て吐き出してしまわなければ生きていけないと感じる瞬間であったのかも知れない。

 また俺の半生のあらゆる矛盾を燃焼せしめて一つの物語りを展開し、そこに俺の過去を埋没させ、そしてその物語の終わる頃を俺の後半生の出発点にしょうという、言わば絶望を切り捨て、絶望の墓を作り、俺はそこから生まれ変わるつもりであったのだ。

  しかし、イザ書くだんになると一体何から手をつけてよいのか、まして文筆拙い門外漢がいくら気張っても原稿用紙はアクビをするばかりで、常に鼻先に「無謀」という字がチラつき、腰は砕け通しであった。

 何回も挫折した末、ついには理想と能力は一致するものではない。俺は所詮ニガオエを描いて路上にひっくり返っておるしかないだと諦める矢先から、又「書け! 書け!」と一種の強迫観念に近いものに責めさいなまれるのである。

 それは実に激しいもので、どんな力を持ってしてもそれを押さえつける事は出来なく、又、どんな甘い夢を持ってしても、酒や女でも、それを押し静める事が出来ないものであった。

2007/03/08(木) 40年前の美観地区日記より。 六十七回
 ところで先ほどから天皇、天皇と言っているのに読者は奇異感じられていると思うので、脱線気味だが説明する。

 彼が常に言っているのは「君らは東北人をバカにするが、東北こそ日本の先進地帯であったのだ」と。

 ちょっと難しいが続ける・・・
 「大和の首長であった安日彦(やすひこ)長髄彦 (ながすねひこ)兄弟が九州に突然現れた神武の東征によって、北に追われるのだが、結局彼等は東北にアラハバキ王朝を形成する。そこは天然の良港十三港に恵まれ、朝鮮半島や大陸との交易を盛んに行い、異文化に彩られた大きな都市だった訳だ。又、食料も稲は植物派農法を知悉しており、サケ、マス等も豊富で富を貯蓄する必要もなく、自然との共存の中、信仰もアニニズムでのち神道でいう八百万神(やおろずのかみ)につながるのだ。

 また社会は完全な原始共産制で「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を福沢諭吉より何千年前に実行していたのである。
 エセ学者どもの「大和朝廷の歴史教育」に汚染されているから高天原が九州とか、大和とか、つまらぬ議論をしているが、東北にはそれより上等の最上原があったのだ・・・・云々」と何度もいうものだから、我々似顔絵かきは「又、彼の天皇論が始まった。とソッポを向き、あるものは「戦後出た南朝第二十二代の直系と称した熊沢信彦天皇の再来だ! 」という奴もいる訳である。

 たしかに彼の書いているのは「古史古伝」(古事記や日本書記等の様な御用学者を経緯したものではなく非公認の超古代関係の資料をいう)を元にした本である。
 だが古史古伝と云うのはとうしても誇大妄想体系に傾きがちで、例えば分裂病者が現実の両親を認めず、神の子であるとか、皇帝の落胤であるとか称する血統妄想と同じように己自身の神話こそ真実でなければならなかった。傍からどれほどおかしな不合理なものに見えようとも、妄想体系が維持されるのは、内的自己の独自性を支える為に必要だからである。
 故にこの世界はどのように足掻いても、文化の起源について、どのような理論を立てようとも実証も反証も出来ないのがこの世界の弱点ではなかろうか。

 しかし、何はともあれ出口王仁三郎にしろ、南方熊楠にしろ肥大した自我を燃焼し続け偉業を成し遂げたのである。
 清原にしろ、今尚、それを続行中なのである。

 俺はこういう人間には文句なしに頭を下げるのだ。

 翌日、清原天皇がやって来た。相変わらず怪異な風貌に買い物車を引っ張り、さすがに寒いのか蚊帳ごとき着物の上にドテラを着ておった。
 開口一番「ミョーケンへ行っていてね」と言う。
 「ミョーケン?」俺は余り突飛な言葉でミミズが腹痛を起こした様な哀れな声で聞き返した。
 「君は倉敷に住んでいて妙見さんも知らないのか。妙見とは阿智神社の事だ。浅原安養寺を毘沙門天、帯江不洗寺を観音さん、日間寺をお薬師と言うのだよ」

 たしかに彼は八宗兼学でも気がすまぬ。ニガオエ商売をなしつつ諸国の風俗、伝説口碑を聞き「日本創生記」に書き加えつつあるのである。

 故にただただ頭が下がるばかりである・・・


2007/03/07(水) 40年前の美観地区日記より。 六十六回
 だいたいこの清原天皇と最初に会ったのは京都河原町四条通りにある銀行前でニガオエを描いている時だった。
 フト横を見ると一人の男がニガオエを描いているのだが、その姿は子持ちの南京虫の様にズングリ太り、蚊帳ごとき着物にドタ靴のいでたちだ。おまけに頭髪がヨモギみたいにボウボウと突っ立っているではないか。
 しかし、それが別に奇異に感じさせないのは、その男の顔が求道者によく見られる人を萎縮させる様な、何か魁偉な容貌が全体を引き締めているからであろう。

 事実、彼は求道者である。

 「異説・日本創世記」「最上原朝史」等の著作に全てを賭けているのだ。
 水戸日報には求名隠士の名において「明治天一坊、天津教教祖、竹内巨麿伝」を掲載していたのもこの頃である。

 そんな眼で眺めると彼の行動、容姿全てが絵になるのだ。

 芸らしい芸は何もしなくても、いわば存在そのものが作品だといいたくなる役者が減少の一途をたどっているように、ニガオエ描きもそういう人が少なくなった。況や、その人を見てカッコが良いとか、悪いとか言っているうちは必死に生きていない証拠で、必死と言うのはもっと不様なものではないだろうか。

 自画自賛になるがその清原天皇は俺に・・・

「弊衣破帽、ちびた下駄に汚れ手ぬぐいをぶら下げ、絵を描こうとも、ゲーテに泣き、ハイネに酔う。まさに多情多感なアルトハイデルベルグだ!」
 こういう矛盾だらけの事を言ってくれるのだから、あまり他人の事を言えた義理ではない。

 しかし、世は多情多感であった。新幹線開通、東京オリンピック開催、ベトナム戦争拡大戦略に反対する小田実等のべ平連結成。  全共闘では山本清隆 (東大)や秋田明大(日大)議長が学園否定を自己主張するのである。
 そして自由、平等、友愛がもっとも優れた形で表現しょうというモルガンの言葉をスローガンにヒッピーが台頭してきて、美術研究所で大の男がマスターベーションみたいな絵画等描いている時ではなかったのだ。

 この清原天皇と京大・熊野寮を足場に、西の風月堂と言われた六曜社、あるいはフォーク歌手の岡林信康らが作った反戦喫茶「ほんやら洞」で口角泡を飛ばし、まさに梁山泊の趣を呈していたのである。


下は京大・熊野寮祭りでの「無産者礼賛のモニュメント」

2007/03/06(火) 40年前の美観地区日記より。 六十五回
30 ニガオエ天一坊 清原天皇の生涯@

 「謹啓、遂に出現! 言語学、歴史、宗教の各分野に一大衝撃を与える開闢以来の未曾有の奇書。併しして貴君は唯物無我論的合理主義オミコシ担ぎの手前、コソコソと我が天日のごとき大真理から逃げようとするのか初めに五十部、次は三十部、そして一部も配布不可能とは情けない男也。確かにそこは大政翼賛会発祥の地であり、難しいだろうが、宗教色の濃い土地柄でもあるはずだ。要するに金銭労力の問題ではなく、世間体を繕い、事なかれ主義的に世の中を紡いで行こうとする君の方針に疑惑を感ずるのだ。その上、文化国家的奴隷根性が強く、マルクスとか、実存主義とか、抽象的文化とか、愚にもつかない西洋外道のカスみたいなものを有りたがって拝蹲する事になり、そしてコペルニクス的新学説を誹謗し、彼を処刑する様な失態に陥るのだ。ともあれ今の私は東京の借家を追い出され、ここ京大・熊野寮も立ち退かねばならぬ宿無しの境遇故そちらで厄介になりたし。文章で言えない事はその折に・・」


 清原天皇の一方的な手紙で、時、昭和五十六年晩秋の事で荷物と一緒に転がりこんできた訳である。


 その頃の俺はここ倉敷に引っ越して間なく、自慢じゃないが俺一人喰うのがやっとの事で、家賃も日払い?というていたらくだった。そこへ食客遠方より来た故、まるで首吊り男の足を引っ張りに来た様なものである。

 しかし反面精神的に浮かぼうか沈もうか、もがいていた矢先で、年来の友人に会える方が嬉しかった。

 俺に言わせると天地間で尊敬出来る人物は、何でも大本教の出口王仁三郎と博物学の巨人というより怪物の南方熊楠。その次がこの清原天皇で、そういえば三人ともよく顔付きが似ているように思えるのだ。故に相談しがいがあると思った訳である。


2007/03/05(月) 40年前の美観地区日記より。 六十四回
 ところで古今東西、人は誰しも行ってみたい憧れの地、帰りたい郷愁の風景を持っているはずである。

 たとえばウエルギリウスの「牧歌」以来、繰り返し歌われてきたアルカディアや、近代ヨーロッパの理想都市像として描かれたトマス・モアの「ユートピア」。あるいは我が東洋の桃源卿など、いずれ一作家の文学作品がきっかけとなって生まれ、やがて文化に深い影響を及ぼすことになった理想卿像であろう。

 大正六年、作家・武者小路実篤がここ宮崎の日向に「新しき村」を創設したのも大いなる試みであった。
 「自己を生かす」「自由」という言葉の解釈の違いより多々試行錯誤があったとはいえ、現在この実篤のユートピア社会主義は埼玉・毛呂村で経済共同体として「完全自活」に到達した事は、史上のあらゆる「ユートピア」の試みの中で異数の成果というべきであろう。

 多くの空費と欠陥を乗り越え、文学的ユートピアが遂に一つの成果を獲得したのに大いなる感動を覚える者である。
 何故ならばだ。今、我々は超管理抑圧社会の中で、人間の生きる根本的な条件ともいえる、そうした充足感すら変態的飽食文化が奪いさろうとしてる時代においてだからだ。
 況や、この僅かな間に高度経済社会、環境整備の美名のもとに「地城」はほぼ崩壊し、家族は孤立無援になってしまい、その結果、生きているシステムの構造と機能の狂いが顕著に見え始めている時期であるからである。
 しかし、その前を個々をアトム化され、バラバラに解体されたロンリークラウド達が立ちはだかった時「地城」崩壊の傷跡が想像以上に深いことに気ずき始め、ユートピアを目指して新しい共同体が誕生しているのを耳に聞く。
 それが如何に泡沫のごとくにあったとしても、人々は己の傷つきを、不条理であったとしても安らぐことの出来る故郷とも呼べるような、心のスペースを探すため「帰りたい風景」を少なくとも自らの周囲に読み取り、描き続ける努力は一層必要であろう。


「ユートピア、それは明日の真理である」と言ったビクトル・ユゴーの言葉で結語とする。



最近の「新しき村」のホームページです。
http://www.atarashiki-mura.or.jp/

2007/03/04(日) 40年前の美観地区日記より。 六十三回
  誰が沸かしてくれたのか、木の香しい風呂に入れて貰って、部屋に入ると酒肴が揃えてある。

 「さあ、さあ、遠慮はいらんぞ。まあ、一杯。ガタロウ、丁度いい。この焼酎は河童の誘い水といって、お主にピッタリじゃ・・・」

 なるほど、イモ焼酎の名前が「河童の誘い水」で河童好物のキューリ漬けもある。

 「ところで丸さん、先程からここでお子さん見かけたが何方のお子さんですか・・?」

 「ああ、トシ坊か。俺が東京でお世話になった下宿屋の息子で同級生にイジメられ、登校拒否でひきこもりだよ、それで俺が預かっておる。都会ではこういう子が増えているの、解かるよ・・・親も親で富寿朗という過分な名前をつけおって・・・・全て期待大なんだよ。ここで俺が教え、暇なおりは近くの酒谷キャンプ場で使い走りしておる。皆に好かれて生き生きしておるよ・・・ウハハハハハッ」


 そうか、人も環境しだいと思いながら・・イモ焼酎をグッと呷るとー曇、雲飛び去り、青山在りだ・・・・

 「あの子も真面目な子だが、あの自殺したモダンアートの石田氏もあまりにも真面目すぎた。真面目な人間があんな所におると気狂いになる。気狂いにならなくとも他の奴が気狂いにする。狂人や自殺者が多くなるだけ、我々の文化が進んだ証拠と言ってしまえばそれまでだが・・・」

 「ワシもしばらく東京に住んでいる間に、精神も肉体も疲れさせ、荒らされて心のツヤを失ってしまった。これは危険だと思った。ここへ来たのはワシの自然を回復する事。シンプルライフ。つまり素直で簡単な暮らしから心の平和を得られるのではないか。何より土に近い生活は精神的にも肉体的にも人間を健康にするし、それに孤独。人間は孤独において真の自我と存在の最も深い意義を見出すのではないか。まあ、こんな生活、君達から見れば現実生活からの脱落、逃避と言う消極的な意味しか持っていないように見えるだろうが、ワシにすれば一人集団から離れて山河草木の自然に自己を放つことが生の本源に帰一する生き方たと思っている」

 俺が久しぶりの客人なのか、根っからの話好きなのか談論論風発・・・・だ。

 俺はフト思った。・・・すれば前号で紹介したポンこと山田隗也氏のユートピアは、団体としての自然との共存共栄であり、丸尾氏のユートピアは個人としての自然との共存共栄であろうか、と。

2007/03/03(土) 40年前の美観地区日記より。 六十二回
彼はある時、俺にこんな事を話していたからだ。

 一人の人間が組織に埋没する事なく、自己の実力だけで敢然と生きていけるのはニガオエの世界に住む事の一つの利点だ。
 しかし、社会に対して何の責任も持っていないと言うことは、社会から解放されるのと同時に自分からも解放されたと錯覚する。
 こいつが曲者で我々を少しずつ腐敗させていく。

見てみろ!あの上野公園の階段でやっている似顔絵描きの連中を・・・・削った鉛筆を二十数本胸に差し、安物のスケッチ・ブックをもって飛び回っておる。そしてそれがすめば酒だ。中にはマンションを買ったとか、車を買ったとか、何等、芸術活動しておらないじゃないか。

 目先の欲得に捉われて、己の時間を持とうとしない。

 今は神武景気とかバブルとか言われているが、どのような時代、どのような社会でも二種類の人間しかおらないのだ。
 それは奴隷か自由人かという事である。一日のうち三分の一以上、己の為に時を刻む瞑想的行為を持たぬと、奴隷以外何者でもない。
 ワシは彼等より一歩退いて眺める時、一種臭気さえ感じるよ。

 「あいつ等が絵描きなら、蝶もトンボも鳥のうちよ」最後に吐き捨てるようにいった言葉が俺の 頭にこびりつき、丁度鹿児島オハラ祭りの終わった後だったので彼を訪ねてみようと思った。そこで日南駅より妙にすいたバスに飛び乗ったのである。


 一時間も走ると小高い丘に農家を改造したアトリエ風の建物が見えて来た。
 バスを降り、丸太で土止めした段々を上がると、動くのか、動かないのか解からぬポンコツ車に古木が積んであり、あちこちに作りかけの椅子や机が散乱しておる。
 突然、犬の鳴き声で振り返ると見覚えのあるヒゲ面男が・・・
 「ヨウ、ガタロウ!こっちの犬がノムで、あっちの犬はネルと言って、ワシの分身じゃ・・ワハハハハハッツ」

 大笑いで出迎えてくれるのだ・・・・・・

2007/03/02(金) 40年前の美観地区日記より。 六十一回
34 丸尾氏よりユートピア論を考える

 ニガオエを描いていると色んな人に出会う。
 今日もだ。若い男で顔、服装は整っているのに眼がうつろで、終始貧乏揺すりをしながら「エカキさん、この辺りで落ち着いた喫茶店、知りません?」と問うのだが、よく見ると手には五・六個の喫茶店のマッチを持っているのである。

 思うに若い頃は落ち着かない時期と云う時があるものだ。己がやすらうべき安住の場所が得られず、瞳に涙し、心は切ない憧憬をもって、腰を下ろす場所を求めるが、そう簡単には下ろさせてくれないのである。

 俺も好きな絵を諦めさせられ、無理やり進学高校に入れられた時がその様な状態であった。
 故に学校をサボっては映画館に行ったり、一日中ジャズ・キッサで過ごしたり、車を暴走させたり、ついには阪大の心療内科に無理やり押し込められるのだ。

 もう一つは十四・五年も続いたニガオエ旅。ありてい言えば金を稼ぐだけの旅が日常性になってしまい苦痛になって来た時のことである。


 そんな折、ニガオエの先輩・丸尾という男が「人間は動物から機械に退化した・・」と言って、東京のニガオエ生活に疑問を感じたのか、彼の崇拝すべきソローに感化されたのか
(ソローは十九世紀半ばマサチューセッツ州のコンコルドのはずれ、ウオルデンの森に自分一人で小さな小屋を建て、権力や情報支配に引きずられないシンプルな生活をした人)
宮崎・日南の山奥にひきこもってしまうのである。

 その生活はあらゆる現実生活から一歩退き、それとの接触、参加を拒否し、一切の煩わしい人間関係の外側に身を置こうとするのである。

 それは自己の内的生活をなにより優先し、アウトサイダーとして、一度サッパリ単純なものにして、自己生活を再設計していく意味もあったのだろうと思う。

 彼にすれば彼と家族、己と社会、己と自然との関係を好きな家具作りを通して具現したかったのに違いない・・・・・・



2007/03/01(木) 40年前の美観地区日記より。 六十回
 今野英樹さんも無我利にやってきてアブリ漁に加わった。彼もまた政治とか開発反対運動には興味はなかった。生まれ育ったのは北海道で調理師の免許を取った彼は日本とアメリカを往復する船に乗るのだが、単調な日々の中、先輩が持っていた山田魁也氏の機関紙「無我利」とか「人間関係」を見て感動するのだ。そして来てみると予想通り、毎日毎日が子供達と騒いだり、ユニークな人々がおりカーニバルの様に楽しかったという。

 無我利道場閉鎖のきっかけとなった右翼「松魂塾」のダンプカーが道場へ突っ込むのを身を挺して阻止した新井孝雄さんの場合も政治的には無関心だった。埼玉生まれの彼は都会に絶望し、たまたま立ち寄った無我利に心の生きがいを見出すのは久志の人達、無我利の人達、生活、自然が気にいったからだと言う。

 また典型的なジャパニーズビジネスマンの父親を持ち、慌ただしく、人が人を利用して押しのけ、本音も押し隠して生きる都会生活に疲れた、伊藤貴子さんは無我利で元気を取り戻して住みつくのである。

 とにかくこの人達にとっては、無我利に反対する右翼「松魂塾」の言う「政治結社」でも「宗教組織」でもなく、ポンの書いた「奄美革命論」を実践する所でもなく「自然と共に暮らす事、自然を破壊するような開発や人を不幸にする戦争に反対する共同体」を目指していたのだ。

 思うに彼等の共同生活は北欧で試みられている「福祉をテーマにした、羽田澄子監督の映画(安心して老いるために)で紹介された・・」に相通じるものがあるような気がする。

 それは複数の住居に、共用の保育施設や老人室、またフリー・スクールも設け、血縁関係に閉ざされる事のない人間家族を作ると言う事である。とくに驚くのは家賃が三軒合わせて月、数千円であり、九人の人間が月十万円程度の金で自給自足している事である。

 ある外国人が「今の日本人は熱したフライパンの上で踊りまくっている様だ」と言ったがまさにその通りで、子供達は勉強に追われ、大人達は共稼ぎで夜遅くまで働いても「庭付きの一戸建て」はまず無理で、その自己保身が家庭崩壊へと導きつつあるのではないか。
 それに引き換え弱い人達への配慮が行き渡っている無我利道場、この事だけでもユートピアの名に値すると思った。
 しかし残念ながら今はない。


 これからますます人間関係が難しくなるであろう・・・・


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