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2007/03/23(金)
40年前の美観地区日記より。 八十一回
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ところで人間は区々たる運命に翻弄される者だが、人間は何の為に生きるのかと考えた時、己の中に生まれながらに与えられている才能の可能性を、出来るだけ幅広く伸ばそうとすると豊譲な出会いをするものなのだ。彼等はそんな人達であったろう。況や人間の価値を逆さまに、異人の方が根源的には真実を語り、実践していると確信する乞食エカキにとっては裏話に興味があるのだ。 「生き物にはその行動に於いて、奇妙な裏話が在る」と書いたのは「昆虫記」のファーブルだが、総一郎氏はその本を座右の書としていたとあるので誤解を恐れず続ける・・・・
それにはやはり孫三郎で、翁はまさに「下駄と靴を片足ずつ履いて、そのまま歩き通した人生」だと言ってもよく、非常に分かりにくい人だったそうである。語録にも「学校の先生が褒めるような人物はたかが知れている。」「愚問を大胆にやって真を掴むことが出来る。賢そうな行動には発見も発明もなし」等だが、故に氏は思想的に右でも左でも夢を抱いて生きる男が好きであった。 山川均等は氏と小学校が一緒であったが、社会主義者の旗手であり、明治四十一年、堺利彦の赤旗事件に連座して千葉の監獄に入れられたとき、孫三郎はわざわざ慰問にいくほど親しくしている。 また大原社会問題研究所を創設したとき「貧乏物語」の著者・河上肇を所長に招こうという下心もあって、自ら河上を訪ねている。河上は思いがけぬ資本家の来訪に驚き「私の様な所へ来られると、あまり貴方の為になりませんよ」と孫三郎をたしなめている程である。
勿論これらは靴の方で、片方の下駄には当然ながら、彼の周囲には特定の女も居た訳で、とくに好んで老芸者の世間話に耳を傾けた。 「ワシはあまり本を読まぬ代わりに、そういう女より、とても学校では教えて貰えんような学問をした」というのだ。
有名な話では東京での学生時代、放蕩で高利貸しから今の金で言う数千万円の借金したとき、倉敷まで付いてきた付け馬に「他国の若者に大原を信用して、よくそれほどの大金を貸して下さった。」とご馳走し、返済したと言う孝四郎と言う父も並の人ではない。 この孝四郎という人は松田元成の臣で、藤田大炊介を祖とし、四代照之は蘭皇と号した儒者で京・大坂の著名な学者・文人と交わった家柄である。 総一郎の曾祖父にあたる五代目大原与平は旧禄・新禄との闘争、下津井事件にも連座しているとして片耳を切られたり、立石孫一郎一党に銃で威嚇されたりするがあくまで商人としての堅実主義に徹し、名実ともに大原家の礎を築く。 その頃、著名な儒者・森田節斎が倉敷に招かれ塾を開いたのを機に、自ら住居を「謙受堂」と名ずけ、藤田孝四郎を養子としているのは「満は損を招き、謙は益を受く」に共鳴したからであろう。この「謙受説」は倉敷紡績の社是となり総一郎氏にも受け継がれていくである。
さて大原美術館の楚を築いた画家・児島虎治郎だが、過日、東京美術学校での彼等の写真を見ていると何と児島虎次郎が持っている肖像画は片山センのものではないか。片山は岡山・久米の生んだ国際共産主義の組織者で今でもセン・カタヤマの名で記憶されているが、児島の青年期の不安定な情緒を見る思いだった。 尚、あの社会事業家の石井十次も十六歳の時、宮崎で友人と飲酒、悲憤慷慨して明治政府を攻撃し、岩倉具視暗殺の必要を論じ、この為友人共々逮捕抑留されている。 徳富蘇峰は彼の性格は鉄をも溶かす情。山をも動かす意志の力として言行一致型としているが、直情怪行でもあると指摘している。
十八歳で警官に奉職していた時も、友人の妹が遊郭の女になっている事を知り、奔走して多額の金を集め、これを救済したのもそうだし、岡山で医学校に在学中、女巡礼に惻隠の情絶えず何のあてもないまま子供二人を引きとったのもそうであろう。しかし、それが岡山孤児院の起源で、孫三郎とも出会う切っ掛けになるのである。その孫三郎は「わしの目は十年先が見える」といったが、その子息・総一郎は五十年先、百年先の世界を見据えていたように思う。
「この様な住みにくさを造り出した経済活動に、我々は無条件にそれを謳歌するのに躊躇せざるを得ない。よくも立派な経済成長という美名に隠れて戦争で破壊された以上の破壊を戦後にやってしまった。」という意味の言葉も一つであろう。 氏は晩年、戦時中働いていた女子挺身隊員の招きで沖縄へ行っているが「本土が文化的殖民地化していく時、我々の故郷は沖縄にこそあると思う」と沖縄タイムズに載せている。 これを担当したのが新川明であった。
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