美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/03/22(木) 40年前の美観地区日記より。 八十回
41 似顔絵の歴史6大阪・京都・神戸

 ニコライ・ガノーという露国の画家の名前には二度出会っている。
 最初は世が安保闘争の真最中の頃で東大生の樺美智子の死と引き換えに「もはや戦後ではない」と第一次池田内閣が発足した頃であった。
 当時の俺は面白くない高校をさぼっては単車をぶっ飛ばしたり、映画館の梯子をしたり不安定な状況であった。

 そんな一日、大阪の盛り場・千日前を歩いていると「よう、兄ちゃんの似顔絵、描きまひょ。」と声をかけた男がおる。濃い眉に濃いヒゲ面。一見して沖縄人の顔だ。「二百円」というので描いて貰うことにしたのだが、何と彼こそが儀間比呂氏といって、行動美術協会会員で「沖縄」という「受難島」を主題に彫り続けていた時代なのである。
 そして一九五六年、沖縄で個展を開くのだが、それを見た沖縄タイムズの新川明は感動するのだ。

「当時の私は、米軍の軍事支配によってもたらされる人間否定の現実に目をそむけて、安穏とした日常に埋没している沖縄の芸術のあり方に苛立ち、抵抗の芸術運動を提唱して血気に満ちていた。そこへ儀間氏の作品に接し、彼こそ沖縄のシケイロスやオロスコである」と沖縄タイムズに個展評を書くのである。
           
 以来、二人は刎套の友となり「詩画集・沖縄から日本が見える」等を出版し続けていく・・・・

 「その時の儀間氏は芸術というものは、人が上手く行えないものを、表現して実践してやるもんじゃ。公募展等に色気を使うより、絶えず生きた人間との相互関係を大切にすることだ。云わば相互の滲透において存在するものでなければアカン。その点ニコライ・ガノーという画家は似顔絵を描いて孤児を養育したというが、これこそ芸術なんだなぁ・・・・」

 この話は今でも強烈に覚えている。


 もう一つは我国の社会事業家の先達「石井十次伝」を読んでいると、このニコライ・ガノーの名が出てきたのだ。それは十次の娘・友子の結婚相手を探していた時、日本救世軍を創始する山室軍兵(哲多町)がニコライの資料を十次に紹介。
 そこで十次はあらゆる面で援助を受けていた大原孫三郎に相談すると即座に画家・児島虎治郎の名をあげるのである。
 しかし、その当時、美術で喰えるものはごく少数で、美術を勉強するというと武術の間違いではないかと言われた時代だったが
 「人間と云う者は、決心と心掛けしだいでどの様にもなるのだ」という孫三郎の信念を知悉していた十次は「これ神命なり、疑うことなかれ」と神と孫三郎に一切を任せるのである・・・


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