美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/03/20(火) 40年前の美観地区日記より。 七十八回
40 似顔絵の歴史5倉敷編

 大原県倉敷・・・この奇妙な県名を聞いたのはこの倉敷出身の似顔絵描きの小野君からであった。といって別に奇妙でも何でもなく、俺が大阪の美術学校に通っている頃から、先生や美術研究生からオオハラ・クラシキと何度も呪文の様に聞いていたからだ。

 確かにクラシキを世界的な名にしたのは倉敷川を挟んで白壁,本瓦葺き、格子窓といった特異な蔵屋敷をバーナード・リーチやエドマンド・ブランデンが絶賛した事にもよるが、何といっても大原一族の存在だろう。

 その大原氏は早くも明治二十一年に英国より紡績機械一式を買い入れ成功するのだが、ただ単なる実業家でなく「富のうちのみに死する者は、汚辱のうちに死する者でる」と云い、実践した世界
最大の鉄鋼王カーネギーに似て、社会事業に身を捧げるのである。倉敷奨学会、岡山孤児院、大原社会問題研究所、大原農業試験所、倉敷中央病院、民芸館建設等などだが有名で誰でも知っているのは大原美術館だろう。

 その大原美術館は昭和五年開館だが、当初は児島虎次郎記念館みたいなもので、全ての作品は大原氏の援助で児島氏が集めたものと彼自身の作品であったからだ。
 そもそも虎次郎は成羽町の宿屋の息子であったわけだが、画才が優れ大原孫三郎の援助によって東京美術学校に入校。この時の校長が黒田清輝で同期には和田三造、辻永、南薫造、熊谷守一。

 そして文豪・夏目漱石をして「あの人は天才だと思います。」と言わしめた青木繁等、日本洋画壇の精鋭が揃っていた。とくに青木芸術は歴史の激しい審判を超えて第一級の名を後世に残しているが、当時の彼は黒田や岡山出身の児島や松岡寿、満谷国四郎を馬鹿にし、「海の幸」より「わだつみのいろこの宮」が最末席になるや「大家は退化なり、貯財せずば大家になれず。困ったものなり・・・」の文を敲き付けて出奔、満身創痍のうち他界する。

 一方、孫三郎の庇護下にあった虎次郎は石井十次の岡山孤児院を描いた「情けの庭」が一等賞を獲得、皇后のお買いあげとなるのである。
俺の感性では藤島武二の描いた石井の教育理念の「ライオン教室」の方が面白いが仕方あるまい。
 結局、虎次郎は孫三郎の薦めでパリのコランに次いでベルギーのガン美術学校に学ぶのである。その在学中に泰西名画の原画を見るに及んで感動、孫三郎に西欧絵画のコレクションを進言、アマン・ジャンの「髪」を手始めにモネの「睡蓮」、マチスの「画家の娘」。そしてマルケ、デヴァリェール、ドニ、ベナール、コッテ等の作品二十七点を購入。そして「第一回仏蘭西名画展覧会」が、この倉敷の新川小学校で大正十年に催されるのだが、その反響は異常なほど大きかったと言う。小磯良平や前田寛治など多くの画家の渇仰を癒し、遠くは北海道や九州からはるばるやって来た愛好家まであって汽車が着くたびに倉敷町民も驚いたが、一番驚いたのは孫三郎だったらしい。

 以後、孫三郎は再三、虎次郎を名画の寡集の旅に出発させ、後、大原美術館の顔にるエル・グレコの名作「受胎告知」等手に入れるのだ。


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