美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007年3月
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2007/03/19(月) 40年前の美観地区日記より。 七十七回
 相変わらずトンボという似顔絵描きは服部時計店前や松屋前等を飛び回って、似顔絵を描き、独立展に出展していたが入選せず、公衆便所の中で凍死するのだが彼の口癖は「林武のアトリエにウンコして来てやった」であった。

 東大法科出のゴーケツという絵師はハオリ・ハカマで矢立て描く人だったが名の通り、正義感強く、三人連れの米兵に日本娘が悪戯されているのを目撃すると、下駄を脱ぎ捨てその中に割って入るのだが何しろ栄養失調だ、米兵にスキヤ橋下に投げ捨てられたあげく水死。俗に言うヤンキーゴーホーム事件だ。

 明治芸術学部出の野崎という絵師は絵を描き終わっても「ザッシライト」と言わなければ、おもむろに鉛筆削りを取り出して鉛筆を削り始め威嚇するのだ。彼は後年NHKより「失われた大陸」等ドキュメンタリー物をモノにするのだが、ちなみに彼は岡山・高梁の出であった。

 又、ある奴は柳の木に登り「ミィ、ミィ」と蝉の鳴き真似をしたり、「ホーホケキョ」とウグイス」の鳴声して「外人にはわかるメェ」のタンカを切ったり、「俺の身体売ります」と言う看板を首からぶら下げたり、まだまだ街はデカダンとニヒリズムの洪水であった。

 一方、無頼派と称する文学達はアドルムやヒロポンを手にし「ニヒリズム奨励」の文学を書きまくっていたのである。
 あえて言えばとことん落ちてしまえば住みやすい世界だったのだろう。

 ところが講和条約なるや大道絵師の大半が住んでいた新橋、有楽町の国鉄ガード下にあったバタヤ部落の強制徹去。それに児童福祉法の改正施行にもとずき、警視庁は銀座の花売り、靴磨きを一斎補導乗り出すのだ。似顔絵描きの中でも未成年の者がおって、彼等は上野公園に進出して行くのである。

 上野公園は寛永寺跡だが、明治より博覧会のメッカで、そこに尚、動物園、博物館、美術館等多くあり、とくに桜の季節になれば花見客で満杯になる所だ。

 それに昭和二十六年になると東京国立博物館でアンリ・マチス展。ついでピカソ展,ブラック展等開催多くの人を集めるのだが、余談ついでにこのヒカソ展を見た大原総一郎氏は「頭蓋骨のある静物」を二年がかりで手にしているのだ。

勿論ここにも数人の似顔絵描きがいた。戦争孤児をテーマにした作品を描き続けている西村滋氏に依るとストコフスキーというアダ名の似顔絵師を紹介しているが、やはり日本人が米兵に悪戯されると、大きな声でアメリカ国歌を歌い、それが大合唱になって兵士はコソコソと姿をくらましたという。
 彼等はズボラであったが一方で露ほどの規制も因襲も嫌う潔癖さを持っていて、虐げられる者同士の仲間意識が強く、その一つが警視総監が数名の部下を連れて夜の上野公園を視察中、オカマやその仲間に殴られる事件もその一つであろう。

 また新宿だ。新宿は昭和初頭より、おそらく東京中で一番人の込み合う町だったろう。故に流しの芸人は銀座より多かったし、花売り娘も、易者も、乞食も、況や大道絵師も大勢闊歩していたと思う。
 戦後、この一帯を娯楽センターにする構想は敗戦三日後にすでに決定、歌舞伎町となるのであるが、数人の男エカキに混じって井上のおばあちゃんエカキに左手のない池田という若いおんなエカキが出現していた。しかもここが一番柄の悪い絵描きの集まる所で、あえて言えば精神病院入院一歩手前の様な奴ばかりで、ここを縄ばりにしていた尾津組も和田組もこのような大道絵師からはショバ銭は取らなかった。

 関西でも京都では口で絵を描く睦ちゃん。大坂の難波では共産党員で二人がかりで一枚の似顔絵を描く人。行動美術で沖縄出身の儀間比呂志氏。神戸で橋本関雪と京都絵画学校で同期だった杉本氏等々を話しに聞くが、ではこの倉敷ではどうだったのだろうか。

 「秋津温泉」で有名になった郷土作家・藤原審鋳は今の千秋座に近い喫茶店の二階に住み「秋楽町横丁」を描いている。これによると、この岡山に進駐してきたのはコート代将でここもご多聞にもれず食料難で進駐軍に浅ましい行為をする事を禁じている。涙ぐましい事には食料難を解決する為に新渓園で「もみ殻パン」「スイトン」「どん栗餅」奇抜な所では「鼠のスキ焼き」等を試食しているのである。

 しかし嬉しいことには終戦の年には早くも大原美術館開館、何とすぐにピカソ・マチス展を開催しているのには驚く。
 それに現在は日展会友であり、後世の育成に邁進されている「福ちゃん」の愛称で親しまれているK氏が即席似顔絵を描いて倉敷を明るくしたことが救いであろう・・・


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