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2007/03/16(金)
40年前の美観地区日記より。 七十四回
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37 似顔絵の歴史B
「文明」というものは創製、発展、爛熟、衰退という生命と寿命にも似た経過をたどるものであり、その爛熟期が大正時代だったと思う。 心理学者・南博氏は「現在の我々の周りを取り巻く現象はほとんど大正期にその原型が存在していたのである」と指摘されるのだ。
例えばデモクラシー、マルクス主義、そして私小説、風俗小説、プロレタリア芸術、前衛派等の芸術面。マスコミ、マスカルチャー等々の現代との酷似。生活、風俗の面での生活の合理化、家庭文化、消費文化などは大小の差こそあれ、そのパターンは現代の原型に見られる。
たしかにこの時代は目覚めと行動の時代であり、芸術活動は盛んになって文学者や画家が輩出し数々の名作を発表した。
反面、失業率が多大で画で喰えない画家は銀座や浅草、あるいは上野公園に似顔絵描きとして立ったものと推測する。 この頃の浅草は谷口潤一郎の「鮫人」や川端康也の「浅草紅団」などに描かれているように、軽演劇やレビューのメッカで人々は毎日溢れていたし、銀座でも今では(銀ブラ)など死語とかしているが、この頃は眩しいような街で、人々は(銀ブラ)というものはステータス化していたのである。これは昭和に入ってからだが作家・武田鱗太郎は「銀座八丁」で銀座のカフェーを次ぎのように活写しているのにも伺える。
「時々、扉が開くので、皆はそちらを見るのだが、実に多いのは花売りの子供や声色屋、明暗教会の箱をぶら下げた虚無僧、バイオリン弾き、そして似顔絵描き」と出てくるのである。その頃流行った流行歌「東京行進曲」では銀座、浅草、新宿などを歌っているように其々の盛り場には先ほどの連中も集まって来たのであろう。
似顔絵描きの先輩の話によると有名な漫画家の近藤日出造や清水昆も無名時代には大道似顔絵師として活躍していたそうだし、上野公園では日展審査員で「舞子像」を得意とする鬼頭鍋三郎氏も似顔絵を描いていたのもそ一例である。
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