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2007/03/15(木)
40年前の美観地区日記より。 七十三回
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ところで小生の友人に奥山という男がいる。 彼は現在ドイツのドレスデン美術大学に留学していて帰国するとよく話しを聞くのだが、彼の説によると似顔絵が大量に描かれるようになったのは、鉛筆の発明からであろうと言う。たとえば十六世紀フランソワ一世の宮廷画家であったジャン・クルーエは鉛筆による似顔絵が数百枚、シャティのコレクションに残っているように・・・・
なおこの似顔絵集は当時複製販売され、人気を得たというがそれは丁度今日、写真やグラフ雑誌が大衆に映画俳優やスポーツのスタープレヤーの容貌を伝えるのと同じであるまいか。
また十八世紀のルイ・カロジスという画家はオルレアン公のお抱え絵師だったが、カルモンテルという偽名で色んな人の顔を描いたことである。 そのモデルの其々の物腰、身なりが自然な表情で描かれているのは鉛筆画が油絵よりたやすく、しかも安価であったからであろう。故にクルーエの似顔絵がかって引き起こしたのと同じ様な熱狂が再びみられるのだ。彼の似顔絵も散逸したものを除き、七五0点がクルーエと同じくシャティイに現在も残っている。
それにしても王侯、貴族、ブルジァア階級だけの肖像画が横行していた時代に庶民を好んで描いたと言う事は二人共、反骨精神を秘めていた事であろう。新たな大きな創造を成そうとする者は絶対反骨精神が必要なのだ。
ヴアン・エイクは「オータンの聖母」に於いて寄進者を聖母の下に身体をくねらせ、辛い姿勢で跪かせている。ポッティチェルリは「東方の博士の礼拝」に於いてメディチ家の人々を可笑しくなるほど、尊大と傲慢さを描き加えている。レンブラントの「夜警」に到っては光線の原理を追及するあまり、支払いを拒否され、クールベは写実主義を追及するあまり、監獄に囚われているのである。
話を本流にもどす。先の奥山の話を続けるとドイツに於いてもチューリヒ駅前通りの路上でバグパイプやギター演奏者のストリート・アーチストに混じって似顔絵描きも大勢いるらしい。しかし、何といっても有名なのはフランスのモンマルトルで、次いでスペインのマドリード広場、ニューヨークのグレニッジビレッジ(現在イースト・ビレッジ)であろう。
ではこれらは何時頃からと言われれば、やはり日本と同じく大正期(一九二0年)以降と推測される。何故ならそれ以前は第一次世界大戦があり、後には第二次世界大戦があって、とてもストーリート・アーチストを横行させる余裕などなかったと思われるからだ。
日本でも前回で紹介した漫画家の服部亮栄氏が「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」と宣言したのは大正中期であった。この頃は巷に失業者が溢れ、それに世界恐慌が追い討ちを駆け、大学を出た者さえ就職口がなく、況や漫画家や画家を志す者には何をかであり、巷にボツボツ大道似顔絵師が散見出切るようになるのだ。
それは時代の影に咲いたアダ花であったかも知れない。
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