美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/03/13(火) 40年前の美観地区日記より。 七十一回
では「エカキ」という言葉は何時から使われたのか。「日本書記」の雄略記七年の件には、百済から多くの技術者が渡来した時、陶部高貴(すえつくりこうき)鞍作堅貴(くらつくりけんき)等の中に画部因鞍羅我(えかきいんくらが)といって画部を「エカキ」と読ませているのが最始であろう。
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 ただし彼等は律令制化の権力組織に隷属的な部民集団で、あの高松塚古墳壁画に見られる様に全ての顔は「引き目.釣り鼻」で個性は表現されていない。
 つまり顔は個性的に描くのではなく、いわば権力そのものを描くことが様式美と確立されていたのであろう。
ところが八百五年に唐から帰る空海が、当地の画家・李真に描かせた真言宗の祖師五人の肖像画は迫真的、写実的であったが為、日本の大和絵に受け入れられ「似絵」と呼ばれる肖像画が誕生する。
 鎌倉時代に入ると「似絵名人」と言われた藤原隆信、その子の藤原信実に到っては「似絵描き大名人」と尊称された人々が出るが、源頼朝像や平重盛像を描く延臣画家の手では面白くない。

 ところが面白い資料が見つかった。

 それは鎌倉時代の最末期、浄土真宗の仏光寺派では絵系図というものを作った。「現存の時よりその面像を写して、末の世までその形見を残さん」という事で、念仏を求めて入信した人達の絵姿を描き、絵による入信譜を作った。なにしろ自分の顔や姿、名前が書き残されるのだから、我も我もと入信し、そのため仏光寺は門前市をなすのだ。

 反面本願寺の方は閑古鳥が鳴いたというのも「似絵」の大勝利で、しかもこの絵系図の場合には入信者が庶民で、これは注目に値し「個」への関心が強まってくるのだ。

 十五世紀には後世から画聖と仰がれた雪舟のような人物が出てくるのだが、とくに石見の大名・益田兼堯の肖像は個性の追求として秀逸の一つである。と同時に画面に「雪舟筆」と署名した事だが、それは彼が独立した画人の行為と自己の作品である事を宣言したことだ。ちなみに彼は岡山総社の生まれであるが、その後、やはり岡山藩の儒者であった浦上玉堂、田原藩士渡辺崋山等、次々台頭してくるのだが、十五世紀という時期に日本絵画史に「近代」を予兆するような、これだけの重みを持つ画人の出現した事は大いに驚きに価する。
 他に「似顔絵」の言葉を始めて使った浮世絵師・東州斎写楽に言及したかったが、あえて走り抜ける。


 さて江戸から明治へ時代が変わると、日本人がそれまで知らなかった事物が無数に到来した。絵の世界も例外でなく明治政府が招聘したイタリア人画家キョソーネが描き出した肖像画には無視しえない程の大きな影響力があったといえる。
 それは彼のアカデミックな描法と緻密なコンテ画で明治天皇や元勲達を描いたモノだが、モデルの実在を超えてリアルな印象を見る者に与えるモノであったのだ。

 初代・五姓田芳柳などは西洋画の普及奨励を希念して、門人ともどもと描いた油絵を明治七年の夏、当時、浅草奥山一帯の興行師の取り締まりをしていた新門辰五郎の了解のもとに油絵興行の小屋かけを拵え開業した事だ。木戸番、口上言、囃子方等の陣容も整い、まず場内で、口上言が陳列画の詳しい説明に始まり「よくお目に止めてご覧下さい」巧みに述べれば、見物人は成る程と感激して「画がものを言いそうだ」「今にも動き出しそうだ」着物は本人の切地だろう」等と口々に驚嘆の目を見張ったという。

 もっともここでの油絵は、泥絵具にニスを引いただけの代用油絵であった。しかしこれを見た人々は描かれたものをリアルだと感じたのは、線的遠近法や陰影法を含めて、様々な描写法によって表現された世界を写実的だと感じる認識の方法を、彼等がすでに自然に身に付けていた事を意味する。と同時に彼らは今までの例の「引き目、釣り鼻」という様式化された権力肖像に飽き飽きしていたのであろう。

 あえて言えば大久保利通や伊藤博文等、明治の元勲や権力者をいくらテクニック上手に描いていても共感を得なかったであろう。それは、そういう肖像は国家体制の一環としての表現であり、そもそも「国家」とか「権力」という存在ほど実体のない、また曖昧なモノでない事を肌で嗅ぎ取っていたのだ。ヒットラーやスターリン、毛沢東の肖像画の様にである。
 反面、北沢楽天や岡本一平の風刺似顔絵は本質的には民衆の立場に立った絵画であり、反骨の矢を持っていたから民衆は喝采を送るのだ。

 それらの風潮に浅井忠、石井拍亭、坂本繁二郎、池部釣、川端龍子、東郷青児等有名画家も参加。
 変わった所では尾崎鍔堂の長子・彦麻呂。島崎藤村の息子・鴎助の胎頭により時の権力より弾圧。あの忌まわしい戦争に利用されていく。

 極論すれば何時の世も人は反骨精神を忘れたら駄目だと言うことだ。
 それは人々も濁るし、権力も腐敗す・


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