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2007/03/11(日)
40年前の美観地区日記より。 七十回
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たしかに彼は強力な精神と反骨の精神を維持し、戦争中も一切の協力態度を示さず、尺八を吹いて門付けをして歩き、終戦前シラミに喰われて死ぬという「自我教」という精神を具現した人だった。
ここに玉川しんめい氏が興味を抱き「日本ルネッサンスの群像」、「エコール・ド・パリ野朗」等々、辻は勿論、その周辺の大正期に活動したダダイストの連中をを描き続けるのだ。 大正期は戦争と戦争の谷間で色んな思想が百花繚乱の如く跋渉していた時期だったのである。 反面、現在は私的な情念や感覚をまったく受け付けぬ無味乾燥な文化であり、一切の人間がもはや主役でない事を物語っている時代でもある。 況や玉川氏の師は中国に造望深く、ルポ・ライターという造語を最初に作ったのは竹中労氏であり、なんと師の「狂疾」を救ったのは大道似顔絵師と言うのだ・・・・・・
そのメフィトフェレスは一九四七年秋、師を山谷の家に招き、己の女房に春をひさがせる生活を開陳し、それでも本人は酒飲んで乱れず、世故に長け、仁義をわきまえ、男の情操において欠ける事なき、「ますらお」を見るにおよんで師の思想が一変するのである。
ちなみに師の父親は江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史らの作品にシュール・レアリズム風のユニークな挿絵を描いた人であり、と同時に無産者同盟のボスであったのだ。 そういう事を聞き及んでいた玉川氏は現在の大道似顔絵師に相通ずるものを見、食指を動かしたといえば少々付会しすぎるきらいがあるだろうか・・・・・・
玉川氏がこの倉敷にやって来たのは昭和六十年四月初めで、美観地区の柳が小雨打たれ緑が鮮やかな日であった。それから約半月間、俺の書いていた「似顔絵ロマン太平記」を元に、削ったり、書き加えたりの作業が始まるのである。 それは俺にとっては陣痛の時期といっても良かった。 反面、一刻も早くこの自分自身の内にあるモノを明るみに取り出して見届けかった。 あえていえば、人は誰でも一生のうち、これだけはしておかねばならぬという主題を持って生きているのものである。途中どんな脇道の仕事をしていても、長い間、筆をとらなくとも、頭の中では何時も主題の事を考えているものではないだろうか。 それは執念と言ってもよいし、人を憂うる気持ちに近いといっても良い。 故にその年の十二月にパン・リサーチ社より出版された時は、ある程度の精神安定を得たが、それに懲りず又、こうして駄文を書いている所を見ると、人間それほど簡単に情念の放棄は許されないのだろう・・・・・
俺はまだ脳病の魔王に睨みつけられているのだ。
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