|
2007/03/01(木)
40年前の美観地区日記より。 六十回
|
|
|
今野英樹さんも無我利にやってきてアブリ漁に加わった。彼もまた政治とか開発反対運動には興味はなかった。生まれ育ったのは北海道で調理師の免許を取った彼は日本とアメリカを往復する船に乗るのだが、単調な日々の中、先輩が持っていた山田魁也氏の機関紙「無我利」とか「人間関係」を見て感動するのだ。そして来てみると予想通り、毎日毎日が子供達と騒いだり、ユニークな人々がおりカーニバルの様に楽しかったという。
無我利道場閉鎖のきっかけとなった右翼「松魂塾」のダンプカーが道場へ突っ込むのを身を挺して阻止した新井孝雄さんの場合も政治的には無関心だった。埼玉生まれの彼は都会に絶望し、たまたま立ち寄った無我利に心の生きがいを見出すのは久志の人達、無我利の人達、生活、自然が気にいったからだと言う。
また典型的なジャパニーズビジネスマンの父親を持ち、慌ただしく、人が人を利用して押しのけ、本音も押し隠して生きる都会生活に疲れた、伊藤貴子さんは無我利で元気を取り戻して住みつくのである。
とにかくこの人達にとっては、無我利に反対する右翼「松魂塾」の言う「政治結社」でも「宗教組織」でもなく、ポンの書いた「奄美革命論」を実践する所でもなく「自然と共に暮らす事、自然を破壊するような開発や人を不幸にする戦争に反対する共同体」を目指していたのだ。
思うに彼等の共同生活は北欧で試みられている「福祉をテーマにした、羽田澄子監督の映画(安心して老いるために)で紹介された・・」に相通じるものがあるような気がする。
それは複数の住居に、共用の保育施設や老人室、またフリー・スクールも設け、血縁関係に閉ざされる事のない人間家族を作ると言う事である。とくに驚くのは家賃が三軒合わせて月、数千円であり、九人の人間が月十万円程度の金で自給自足している事である。
ある外国人が「今の日本人は熱したフライパンの上で踊りまくっている様だ」と言ったがまさにその通りで、子供達は勉強に追われ、大人達は共稼ぎで夜遅くまで働いても「庭付きの一戸建て」はまず無理で、その自己保身が家庭崩壊へと導きつつあるのではないか。 それに引き換え弱い人達への配慮が行き渡っている無我利道場、この事だけでもユートピアの名に値すると思った。 しかし残念ながら今はない。
これからますます人間関係が難しくなるであろう・・・・
|
|
|
|