美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2007年3月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の絵日記ダイジェスト
2010/05/12 大阪で昆布屋
2010/04/15 000000000
2010/03/08 次回は油絵を・・・・・
2010/03/04 浅田真央ちゃん
2010/03/02 遅くな諒としてください

直接移動: 20105 4 3 2 1 月  200912 11 8 1 月  200810 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 月 

2007/03/31(土) 40年前の美観地区日記より。 八十九回
ところが近年の社会は高度成長という虚構のローラーでならした様に画一化され、人間の生活圏を一部を為してきた(異界)というモノを徹底的に隔離されつつあったのだ。
 ちなみにここで云う(異界)とは人間が互いの間のアンビヴァラントな違和のため身動きならなかった人間同士は、共同体異界とに違和の関係を負わせ代行させる事によって連帯を存在論的に可能なモノとして己達を「人間」への構造化してきた事をさす。まあ、分かり易くいえば潤滑油だな。具体的な例としてはアウトサイダー、大道芸人、露天商、ホームレス、破壊坊主、一種のエセ宗教家およぴ芸術家。最近ではノマドといった精神状況の一群も含まれるであろう。

 彼等の存在はあらゆる怠惰な日常性に生きる人達に対して、手垢のついた愛や真実を破壊し、社会に依って飼い馴らされた抑圧を、心の解毒剤として神聖な力に転化する効用はアリストレスのカタルシス(浄化)の思想を紐解くまでもない。

 一見華やかで、良い事ずくめの繁栄の虚構裏には予備軍としての底辺で生きる(異人)あり様を注目することで見抜かれる。この方法は事実解明の鉄則であって、彼等は現代のカナリアであるのだ。ちなみにカナリアはかっての炭鉱の底にあって身を持って危険を知らせたのだ。

 しかし行政は衛生が悪いだの、外観がとうなの、都市の美観を損ねるだの基本的には道路交通法で撤去していくのだ。
 結果、全てシスマティックに整備され、人々は己だけの関係性に閉じこもり、社会の共同性は薄れ、孤立化したカプセルはシュミレーション習俗のプレート上でのみ、より豊かな生活や高い学歴を求める脅迫的な「幸せ競争」追い立てられていくのである。

 俺は倉敷で長年お世話になっているので余り悪口を言いたくないが、過日、子供連れのお母さんに「清ちゃん、しっかり勉強をしなければ将来ああいう風になるのよ。」と云われた。母親にすれば子供にいい学校、いい会社、いい結婚、いい子供を生んで最後にいいお墓に入るプロセスを思い描いているのであろう。しかしこれを手に入れるには大変な抑圧で、これも又、お勉強の出来そうな高校生がこう友人に話しているのだ。

 「いま大雨が降ったら面白いぜ。」「どうして?」「こいつら、困るじゃろ」

 俺はこの言葉が耳に入ったとたん、管理機構が物凄い勢いで社会や学校、はては家庭まで侵入しているのではないかと思った。そして心に病気を持った人間がすさまじい勢いで増殖している事であり、その病気も徹底した自己中心の病巣である事だ。極論すれば我々の生活は何処へ行こうとしているのか?
 家庭も学校も営利企業体に乗っ取られ、喰い荒らされ、空洞化されて行くのであろうか・・・


 俺は浅草芸人のように蛇を鼻や口に出し入れしたり、、生きた鶏を喰ってしまうという芸当なと出来ないが、大道でニガオエを描く事に依って人々への反面教師でありたいと願っている。

            

2007/03/30(金) 40年前の美観地区日記より。 八十八回
46 似顔絵の歴史11浅草編

 銀座、新宿、上野、池袋とくれば浅草であろう。ここは江戸より最大の盛り場で、蛇を鼻から入れて口から出したり、生きた鶏を喰ってしまうというグロテスクな大道芸人発祥の地であった訳だ。彼等は喰わんが為もあったが、見ているお前だって、これ以上の地獄に落ちるかも知れないし、生まれ変わるかも・・・という仏教的反面教師でもあったのだ。この世を「厭離穢土欣求浄土」とみなして大道芸人はもっぱら「厭離穢土」を担当し、人々を「欣求浄土」へと、お寺や神社へと救いを求めさせる働きをしていたのである。いわば神社仏閣が光輝く浄土や仏の国への入り口であるとすれば、大道芸人は人間の精神世界の闇を幻視させる装置であり、 宗教と芸能が相呼応しあって、浅草のような劇的空間を形作るようになるのである。

 ここ出身の作家・池波正太郎氏は「鬼平犯科帳」で浪人の似顔絵師を紹介しているし、明治、大正、昭和初期にかけて砂似顔絵の全盛期であった。 

 俺の知る範囲では闇市時代からの似顔絵師コタロウ爺さんや山ちゃんぐらいしか知らない。とくに山ちゃんに記憶があるのは彼ほど数奇な運命に翻弄された人間を知らないからである。彼はアダ名のごとく山手の専売公社・支社長を父に持ち、何不由なく慶応大学・中等部に通学していたが、父親が今で言う汚職に巻き込まれ自殺。以後サラ金に手を出し、追われ新宿で野宿、そのままホームレスになってしまうのだ。そこで知り合ったのが、円谷という浮浪者風の肖像画家であり、彼の手伝いをしているうちに似顔絵を描くようになるのである。

 ただ彼の特徴は絵を描きながら、客の嫌味を言ったり、ときには叱りつけて得意がって居ることである。思うにこのスタイルは彼が好んで見にいっていた浅草のコメディアン深見千三郎の影響だろう。この千三郎は「バカヤロウ!この野郎!田舎モン!」というのが芸風で、彼の弟子にはこの倉敷出の長門勇、渥美清、それにビートたけしに到るのだ。

 なぜこんな事を覚えているかというと浅草名物・酉の市で似顔絵の合間にフランス座にいくとエレベータ・ボーイがビート・たけしなのと、その後、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺。
そのテレビを見た山ちゃんが「人間という奴はァ生きている時、死んでいて、死んだ奴こそ生きているような気持ちになる・・・」という言葉を含め印象が強かった日だったからである。


 俺もその様な印象に捕らえられてたのはの東北の遠野祭りに行った時であった。この町ではお盆、それに春と秋のお彼岸会には村人達それぞれの檀家寺に集まり、一日死者の肖像画と共に過ごすのだ。例えばこの寺では日露戦争の佐々木種吉より、日中・太平洋戦争で戦死した軍服姿の英霊。紋付姿のお爺さんやお婆さんから、若くして死んだ青年子女から童子までコンテ、水彩、油絵、絹本、写真等の肖像が数百点、ジッとこちらを見ているのである。その前で村人達は御詠歌をあげ、祖先を供養するのであるが、と同時にこれらの人々が残された我々を守ってくれるという願いが籠めるられているのだ。

 思うに我々は死者を思うことによって、一時的悲嘆よりも永劫の霊的紐帯を求めようとする。それは死者の霊魂と霊的に交渉することで想いを新たにする美しい行為てあり、その行為によって自己を精神的に救済したり、慰謝する事ができるのだ。とくに感動するのは、死者達があの世で何不由なく生活出来るように米や酒、魚、果物。あげくのを果ては金まで書き入れてあるのだ。
それは愛しいものがあの世で幸福に暮らしているのだ。と己ずから納得せしめる行為であろう。あるお婆さんは「この寺にくれば先祖代々が何時も変わらぬ姿で迎えてくれる。いずれオレも・・」
 と涙ぐみ、彼女も生きて居る事は死に向かっていることだと悟り、この影の部分で安心立命を得ているのだ。


 如何にその絵が村々にいた素人絵描きや喰いつめ者の放浪画家の手になる拙劣な絵であっても・ここに於いて大いに感動を覚える者である。何故なら芸術の本質を突き詰めていけば「異界」の問題へ即座に至るのは理の当然である。なんでも柳田國男の兄上は軍人として南方の民俗を調査しておられるが、その影響からかあの有名な「遠野物語」を完成させ、(平地人より文化人を驚嘆せしめよ!)というメッセージが意味ありげに響いてくる・・・

2007/03/29(木) 40年前の美観地区日記より。 八十七回
 
 池袋には今は大道似顔絵師は誰も出ていない。
 しかし、この地は戦前、日本のモンパルナスと言われた如く、多くの画家が住みついていたのである。御大・熊谷守一を始め曽宮一念、鶴田五郎、安井曽太郎、牧野寅雄、石井鶴三等など、当時の美術名鑑にはこの辺りに住んでいた画家三十四人の名を記しているほどなのである。


 余談だが石井はここでシュール・レアリズムを基にした「美術文化協会」を設立するのだが、それに参加したのが、この倉敷の三橋健であった。しかし美校出の彼にとっては放蕩無頼、野武士的な彼等に疑問を感じ、それに戦時色が濃くなるにつれ返倉。大原美術館の館員になるのである。その三橋に絶縁状を送った石井も逮捕。結局、転向「エクゼターの反乱」みたいな戦意高揚画を描くのだ。

 このエピソードが象徴しているように戦争で日本のモンパルナスも雲散霧消、故に駅周辺だけに限って云えば文化性も薄く、俺の知る限りでは大道似顔絵師が定着した事は知らない。


 ただ 昭和40年代、全国で似顔絵師が雨後のタケノコの様に出てきた頃、この池袋に宮本三郎に師事していたカクさんと云う男が似顔絵を描き始める。そこへクリスチャンでアル中の滝氏。トラになって全国たいていのトラ箱を経験、トラ箱評論家の後藤君。定時制高校の美術教師の村田氏。それに例の放蕩無頼絵師の宮ちゃん等集まってきたが、超高層ビル・サンシャインが計画される頃よりホームレスと共に姿を消すのだ。新宿も同じである。都庁の件で都市空間が整備されるにしたがって彼等は排除されていくのである。


 思うに現代日本は様々な面で画一化が進み、個性ある者、人と変わった生き方をする者を疎外したり、「一定の枠」に嵌め込もうとする傾向がある。結果、何やらウスペライ、変に眩しい窮屈な超管理社会が出来あがったものである。この事をハイデッガーは「輝ける闇」とも云った。それは輝けば輝くほど、闇の空間は狭くなり、人々の感情を苛立たせると云うことだ。


 また俺は前に乞食や大道芸人のマイヨリティを受け入れない町は滅びる、という暴言を吐いたと思うが、昨今面白い事に横浜の野毛や静岡、名古屋の大須、富山で「大道芸フェステバル」というものが催されている事である。
 しかし、これは市のチンドン屋みたいなもので、管理化された芸人は卑小化され、生気のない見世物で凍結し、芸人が本来持っている土俗的な匂いなど希薄である訳だ。
 あえて言えば芸人を生むのは場末の持つロケーションと人の気質てあり、行政や都市計画で芸人の生まれた試しはない。それは自己の存在を賭けた、ギリギリの所での表現、その様なモノでないと真実の感動は生まれて来ないからである。


 嗚呼!いかなる文明にも、腿廃期に入っていくと、どのような力を持ってしても支えきれない破綻に遭遇するものである。俺がアル中になるように・・・・

 「しっ、静かに君のそばを葬式の行列が通り過ぎて行く・・・・」ロートレアモン


2007/03/28(水) 40年前の美観地区日記より。 八十六回
45 似顔絵の歴史10銀座・池袋

 過日、訃報が突然舞い込んで来た。栗山君が新宿・青梅街道で交通事故に遭い即死というのだ。
別に俺の場合、年も年だし、生命のギリギリの修羅場で生きている連中と付きあっているので又、一人ピエロが死におったか、と言う具合にすぐ忘れてしまうものだが、今回は一寸大げさだが21世紀をリードする旗手に死なれたかという気持ち多大であった。

何ゆえなら彼は東京芸大中退後、文化学院講師をしていたが「芸術は教えるものでもなく、教わるものでもない」と辞めっちまって、この道に入ってきたのである。
 俺も美術学校九年行き、教えて貰ったのはセックスだけだったから、その気持ち良く解かり銀座、新宿、上野公園、あげくは全国の祭りで一緒に似顔絵を描き破廉恥、痴愚、朦朧、卑猥等の生を踊り続けた仲であったからである。

 勿論こんな馬鹿げた事ばかりしていた訳ではない。彼は常にラジカルで例えば奇抜なブリキ彫刻で知られる前衛芸術家・秋山佑徳太子等と友達であり、その彼は若い頃、二宮金次郎の格好で街頭に立ったり、グリコのランニングシャツ姿で広場を駆けてみたり、突飛なハブニング活動で勇名を馳せ、70年代には政治のポップアート化目指して都知事選に山高帽で立候補するのだ。
その時の選挙ポスターを手掛けたのがこの栗山で、そのポスターは実に驚くなかれアンディ・ウオーホル張りだった訳だが、彼は別に単にウォホールのディタレントではなく、ウォーホルに会いにアメリカへ行って、その体験談を本に纏めているのである。

また彼は[ポートレイト]と言う異色人物ばかり集めたニガオエ集を出版したり、「聖教新聞」には時の有名人の似顔絵とコラムを連載していた。と同時に「肉体と概念の冒険」の名のもとに日本はもとより世界を波状移動し、彼のハガキと写真で世界のストリート・アーチストを知るようになるのである。また昨今は彼の仲間と共に「東京零産倶楽部」を発足させ、それは季刊誌であったがネオ・タダ的新聞で、前衛芸術家や異色芸術家に送り続けるのである。

 それは作品や作家いう安穏とした連中への挑戦であり、体制べったりの芸術という終焉に立ちあっているのだいう紀州犬の遠吼えであったかもしれない。しかし俺にすればその終焉の向こうに、まだ明確に名付けられない作品や作家に代わる何かが現れてくる待望の矢先だったからだ。

 ところで栗山を似顔絵の世界に紹介したのは、銀座での先達・宇佐美と国さんであった。宇佐美は非常に誇りを持っていて、池田万寿夫を追うぱらったのも彼であり、手塚治虫を「人間を写実的に描けなければ似顔絵は駄目だし、絵物話の作家にはなれない」と又、追ぱらってしまうのである。

 その国さんはラムネの底のようなメガネをかけたオカマみたいな男だったが、児童雑誌に表紙画を描いていたせいか、絵には一言居士で、やはり手塚を相手にしないのである。しかし、人間何が幸いするか解ったものではなく、手塚は東京を諦め帰阪、「新宝島」と云うストリー漫画を自費出版・・・・
それが隠れたベストスラーとなるのである。後年、宇佐美や国さんは「俺は手塚の先輩だ!」という様な世迷う事を吹帳する始末になると情けなくなる。

 ところでこの銀座には栃木・益子出の小林氏。福岡・旅館の息子の斉藤。広島・呉の金融業の畝氏等が居たと思う。とくにこの中で小林と宇佐美・栗山の確執は有名で、宇佐美とは今戦争末期、海軍の少年特別攻撃隊の一員だったというが小林曰く「奴のは出鱈目だ。何故なら所属部隊名と部隊番号でさえ言えないのから・・・・」と云った言葉が宇佐美の耳に入ったからである。栗山とは映画女優・内藤洋子の妹・やす子「歌手」の取り合いが端を発しているらしい。
 女は女に、男は男に競争心があると知っていたが、乞食エカキの競争心に妙に感動したことを覚えている。

 その点、釣りと酒を愛した武さん(大阪)や信ちゃん(長崎)は素直なものだった。二人ともニガオエ以外作品らしい作品は何も残さず、怨念も残さず、酒で幽冥境に遊び逝ってしまっうのだから・・・。
 自称・慶応ボーイと言っていた安部氏も、この倉敷出の竹槍氏も生死不明で、結局、最後まで頑張っていた栗山も消滅し、銀座から大道似顔絵師は壊滅したのである。


イラストは岡本太郎氏個展にて・・・

2007/03/27(火) 40年前の美観地区日記より。 八十五回
そうだ。確かトロン君も居ったような気もするが、彼はこの岡山出身で後「純粋単細胞的思考」という本をものにする。
読者はこのトロンと言う名で想起されるように、彼等は「宇宙食」と称してピリン系のハイグレランを焼酎とともに飲んでいるから、誰かが持ち込んできたラジカセにサンフランシスコ・サウンドでもセットされようなものなら熱狂的に踊り狂うのだ。

 その頃の人間は今の人間のように自分達だけの関係性に閉じこもり、精神まで管理された人間と違ってまだ人間臭かった。故にギャラリーもヒッピーのパフォーマンスに対してでも興味を示し、踊りの輪中に入り、自分も会社をドロップアウトしょうかと本気に迷っている奴も出てくる時代だった。

 思うにその頃が新宿の文化的な爛熟期だったのであろう。戦後の闇市時代からの庶民文化のパワーが、権力管理の圧力に潰され、根こそぎされていく最後の花を醇爛と咲かせていたのだ。


 さて当時の新宿には、ゴールデン街に闇市時代からのベテラン似顔絵師数名いたが、我々のやるのは歌舞伎町通りの入り口、大和銀行前であった。

 ところで何処でもそうだが、容易に商売はやらせて貰えない。何がしかの手続きがいるのである。俺の場合は清原天皇の紹介と関西へ来たおりには、我々の場所でやってもよい、という交換条件を出したからだ。とくに女似顔絵師を嫌うのは、女に客を持っていかれる危惧とその女の事でトラブルが発生する恐れで、ここは女人禁制の山なのである。

 ではここでの存在感、つまり奴が居らないと新宿が夜も明けないという新宿クマ五郎から紹介しょう。
 本名・松山といって学芸大卒。卒業と同時に似顔絵でアメリカ一周する。アダナのごとく顔は熊みたいで腕力も強く、度々派手なパフォーマンスをやり、我々を恐れさすが、ただ行動が落語に出てくる八つあん、熊さんタイプの所が救いであろう。
 聖徳太子みたいなヒゲがご自慢のヒョウ介君はビールなら十本くらい軽く平らげる薩摩隼人で、女房・烈子君も似顔絵を描き(新宿ではない)二人で数千万円稼いだというが、後、二人は別れて烈子はカナダ人と結婚した。
 この本の冒頭に出てくる「タイ焼きソング」のデザインで数千万円を手にする田島司君だ。彼もまた女房と決裂。他の女とロッキー山脈を縦走、スッカラカンになるのだ。
 杜の都・仙台出の大友君は名のごとく身体は大きいが似顔絵は反対に小さく緻密に描いていた。平塚七夕で倒れる。
 やはり仙台出のキムは母親が彼を産み落とした後、アメリカ軍人と結婚。その関係より渡米、侍姿で似顔絵描いたり、占いをしたりしていたが、最近は新興宗教の教祖に納まっているという。
 似顔絵を描いていればよいものをアクセサリーの方が儲かると転身、結果、場所取りの事で喧嘩、人を傷つけ裁判沙汰になったバカ天。
 その他「美少年」がアダナの大和田君。スケコマの斉藤、ガイコツの斉藤、イラストの斉藤での三斉藤。足は悪いが気の優しい小野寺君。朝鮮人でオチョコチョイの加瀬君、ゴッホ君等一杯いて、夫々面白いエピソードがあり、俺に取っても懐かしき人々であり、余白の関係上割愛するのが残念で偲びない。とにかくここは出入りの烈しい所であった。

 最後は銀座だ。ここからは日展審査員・鬼頭鍋三郎や日本画の重鎮・加山又造。あるいは追い出されたものの世界的版画家になった池田満寿夫氏等輩出している。
 故にここでやっている連中は「芸術の中心地である銀座でやっているんだぞ」という変なプライドがあって、他人を寄せ付けない雰囲気があり、どうも肩に力が入る所である。

 福永氏をトップに群馬の小林氏、広島の宇佐美氏、この倉敷の竹槍氏、愛媛の国さん、静岡の安部氏、和歌山の栗山君、大坂の武さん、長崎の信ちゃん等々で固めていたが「銀ブラ」など死語と化した現在は誰も出ていない。まさに大道似顔絵師もヒッピーも悲劇の鳥、トキのごとく絶滅寸前にあるのだ。
 あえて名前だけ羅列したのは、彼等の生き様に対する鎮魂歌である事を申し述べ、次号で総括したい。




七国語で喋るサカキ・ナナヲ氏。

2007/03/26(月) 40年前の美観地区日記より。 八十四回
 上野公園での仕事がすむと、夜は新宿へ行くのである。その頃の新宿は世界的詩人アレン・ギンズバークやゲリー・シュナイダー等やヒッピーの集まる「風月堂」も健在で、ジャズ喫茶も「ピットイン」「ポニー」「木馬」等あまた散在し、また頭だけの赤い丹頂鶴党(頭だけが赤い)が経営する歌声喫茶「ともしび」からはロシアの民謡が流れていた。まさに世は大量生産、大量消費を美徳とする風潮の頃より、新宿は群集の渦で、あらゆる欲望を貪欲に呑み込んでしまう街でもあった訳だ。

 ところがその頃より東口駅前の噴水広場にはロングヘア、ヒゲ、ビーズで飾り立てた異様な風袋の若者達が屯し始めるのである。ここは通称グリーンハウスと言って壁には「自然に帰れ!」とか「イエスは神の原子爆弾なり」というような意味のわからぬ言葉もあるが「ベトナムから手を引け」「車を殺せ、子供も殺すな」という良識的な事も殴り描きしてある。

 この若者達は大量に物を消費する文化に背を向け、シンプルの中に心の豊かさを求め、別のもう一つの生き方を身を持って訴えていたのである。故に後、詩人になる山尾三省がアメリカのヒッピー新聞「オラクル」を真似た「部族新聞」を売っていたのもここであり、芸大出のクボゾノがジャクソン・ボロックばりの絵を売っていたのもここであった。

 「私の志?集」の看板を首からぶら下げ、黒髪の長い美人が立っていたのもここであり、彼女はレイコと言って、詩人の日疋信に私淑しているが、その日疋は「詩は志でなければならない」という意味で「志集」とし、「街頭こそ唯一の死に場所」という信念で立っているのだそうだ。

 その横では「命売ります」と乱暴に書いたスケッチブックの上、酒臭い息を吐きながら寝ているのは似顔絵界のダダイスト、キド・軍治だ。俺は彼からいろんな影響を受けているので、項を改めて描いてみるが彼の口癖は「親しくなるのはマッピラさ、親しくなるとお互い不自由になるからなぁ」であった。

 そこへこの熟睡しているキド・軍治も飛び起きるほど、ギターを鳴らし、マントラを歌いながらやって来たのは、花やビーズで着飾った数十人のヒッピー達の御入来だ。

 「我々は心の雑巾だ、汚い格好だが他を光輝かす」と襷をかけているのは、禅寺を墨染めの衣のままドロップアウトしてきたアキタであり、彼もまた似顔絵を描く人であった。この倉敷キリスト教会で再会する、お祭りポン太こと山田塊也や大坂・和泉橋本の七山に、俺や近畿大の連中と共に「七山小屋」を造ったチビグロ等の顔も見える。「ヒゲの殿下」とアダナされたナーガや、「新宿のランボー」と言われたナンダもいる。その彼と子持ちカップルになるミコやノン、ア等と猫みたいな名の女も混じっている。


2007/03/25(日) 40年前の美観地区日記より。 八十三回
 ここでの乞食原理はマルクスのいう共同体のたんなる「飢餓対策」等ではなかった。親子、兄弟、主従、眷属がホイト(乞食)と共に一つ鍋の物を喰って家々の幸福を祈ったのであり、ホイトの側からすれば「モライの生活」を続ける事が、すなわち「信心の業」であったのだ。

 あえて言えば、古くは空也や一遍、下っては西行や木喰もそうであり、僧の境涯に拘わらないならば良寛や芭蕉を加えても良く、彼等は世俗を捨て「野」に向かう意志がはっきり見えるのだ。
 近代では作家・幸田露伴の無銭旅、俳人・種田山頭火の雲水としての托鉢行脚、ダダイスト・辻潤の尺八門付け等も脱社会への偏向臭がする。
 戦後には作家・稲垣足穂は東京中野駅前にて、今東光は奈良東大寺前にて座り乞食を、黒岩重吾は大坂釜ケ崎で占いを、田中小昌実は露店商として全国を放浪している。

 このごとく昔から僧と芸術家には乞食、浮浪旅と因縁が深いのであるが、勿論名も知れないドロップアウトした、させられた乞食、浮浪者の方が大多数占めていたのは衆知の事実であるが、一般庶民もそれを認めていたから、当時の彼等には現代ほど乞食という生活形態には陰湿で暗い影はさしていない。

 例えば大坂・天王寺動物園前で似顔絵を描いていたおじさんは帽子に「お子さまランチ」に付いている万国旗を一杯なびかせ、「にがおえ」と書いた厚紙を肩からぶら下げ寝転んでいたり、ときには器用に石を積み重ねて、飯盒に入れた米を炊き、実に旨そうに喰うのだ。客があるとワイシャツ等が入っていた箱の白い所を色紙大に切り取り、赤と青が両サイトに付いている色鉛筆で描くのだが、ハーフトーンを出すために指に唾を付けてゴシゴシこするのだ。客は厭そうな顔をしてもおかまいなしで「ハイ、出来ました。貴女は可愛いのでカルダンの袋、奮発しちゃう」と言って、これも拾ってきた紙袋に入れて手渡すのだが確か値段は百円だったと思う。

 その横ではヤットコと金切鋏でくるくる針金を折ったり、曲げたりして、レーシング・カーや小鳥を作るおじさんだ。それを買ったお客が何か言ったと見え、「これだけあれば何処でも行けるからねぇ」とヤットコと金切鋏を顎でしゃくって、
「針金はね、小学校の側の文道具屋さんに行くと必ずあるから、現地調達。焼酎代と宿賃を稼いだら後、何もいらないから、それだけやったら止め」その日もそれだけ稼いだとみえ、腰をあげると道具をしまい、その袋を肩に掛けると次の様なことをつぶやいて去って行った。
 「お客さん、人間なら何も身につけない様に、偉くならない様に努力すべきだねぇ。そうする事が本来の人間の務めであるはず。勝ち負けなんて単なる自己満足だよ」と。

 俺はその時、思った。人間の素朴な暮らしとは喰う、寝る、出す、祈る、愛するといった物だけが生存を続けるための緒行為とするならば、彼等は負け犬とレッテルが張られているが、彼等こそもっとも選ばれたる人間らしい人間と言えるのではないか。ところが我々がエゴを価値の源泉とした時から、あるいは我が者であると物に執着した刹那に縄バリが出来、国家がのしかかってきて我々は憂い、煩悶するのではないだろうか。

 更にいえば社会は個にとって虚偽の世界である。その虚偽の公に踊らされ、果てしない欲望の肥大化となって結局空洞化されていくのだ。俺はこの路線に乗るのは危険と感じた時、大道似顔絵師の道に入っていたのである・・・


 前置きが長くなったがそんな折り、俺と同じようにドロップアウトした大道似顔絵師が多数出てくるのであるが、それでは関西方面の似顔絵師から紹介してみる。

 大坂・難波では二人で一枚の似顔絵を描く、自称・共産党員の人。梅田では美術研究所での先輩小林善幸、氏は福岡の人で後パリに行き、モンマルトルで似顔絵のボス的存在になっている。やはり名は同じく出雲出身の小林忠一、氏は俺が「宏プロ」を旗揚げした時の同士で、現在は梅田で「スマイル・フェース」事務所で活躍中。やはり「宏プロ」関係では松ちゃん、彼は現在「或る虫象」の漫画家。漫画家といえば淀川三歩も「宏プロ」出身で、本名は寺田といって月刊「ガロ」で活躍していた。熱烈なクリスチャンであった森君、以後、神道系の新興宗教教祖の女と一緒になり、現在は絵を止め布教中だが過日、教祖共々俺のところにやってきたのにはビックリした。
 「宏プロ」関係の紅一点、荒やんこと白土美代子、現在は女性週刊誌の売れっ子イラストレーター。
 
 他にも破壊僧であった団すすむ。吉田舜応氏。橋本。沖縄出身の新垣君。一枚の絵での売れっ子画家になった氏家氏。溝船君。独立美術の中沢君等いる・・・・・・


 この頃巷では60年安保挫折か「このまま死んでしまいたい・・・・」という西田佐知子の歌が流れていた。

2007/03/24(土) 40年前の美観地区日記より。 八十二回
42 似顔絵の歴史F

 昭和三十五年は騒然と明けた。
一月十九日、日米安保条約が自民党だけで単独可決。民主主義の危機が叫ばれ、全国各地で数百万人規模の政治ストが行われたのだ。現・科学技術長官・江田五月氏は当時東大生で氏も自民党総裁室に雪崩れ込んでいる。そうした状況を国民に隠弊する為にも池田内閣は国民所得倍増計画を策定し、効率だけを追及する大規模な工事を乱立させるのだ。結果、都市への人口集中がおこり、農山村の過疎化が進行、人々は虚構の「豊かさ」に向かって走らされるのである。

 だいたい効率の追求とは無駄なものを省き、切り捨てる思想の事である。人間でいえば世間から爪弾きされた者。社会的に順応出来ない者。社会からドロップアウトさせられた者等々だが、この時代より「人間の利便」を追及するという大儀名文を基に圧倒的多数の人間が、人間として一番大事なモノを置き去りにし、熱したフライパンの上で踊りまくるのだ。

 たしかにこの頃より国民的映画「フーテンの寅」が放映され始めたと思うが、山田洋次監督は真に人間的だからこそ置き去りにされ、小さな真実を守り抜こうとするから大きな状況から疎外されてしまう。そのように社会からドロップアウトする「ダメ」人間の「寅」こそ真に人間的な輝きがあり、ドロップアウトさせた側の方が反人間的なのではないかと云う逆説の形をした痛烈な主張に人々は共感を覚えるのであろう。
 「富」と引き換えに「働きアリ」と化した人々はそんな中で眼に見えぬ何かが、人と人との通いあうようなモノを少しずつ浸食し、奪い去ろうとしている事に不安の中に気ずき始めるのだ。

 前回のファーブルの「昆虫記」によれば、あの「働きアリ」でさえ良く観察して見ると働いているのは全体の八割だという。そこで良く働くアリばかりを集めて見ると二割が働かなくなり、その反対に怠けアリばかり集めてみると八割が働き出すというのだ。生きとし生きる者はこの様にして、上手くバランスを取って生命体を確保していると言うのがファーブル氏の結論である。

 すればだ。また人間も昔から乞食や放浪者、あるいは身障者等を運命共同体として、保護し、あるいは神の分身として敬う事さえあったものも頷ける。それは諸国漂泊の彼等は、土着と沈殿を繰り返す人々に取っては年に一度か二度、ハレの日に姿を見せる来訪神であり、呪事と祝事を携えてさまよう異人であったと言ってもいいだろう。



写真は若き頃の江田五月氏に酔ってからむ俺。すみませんでした。とくにお母様にはご迷惑をかけました。

2007/03/23(金) 40年前の美観地区日記より。 八十一回

 ところで人間は区々たる運命に翻弄される者だが、人間は何の為に生きるのかと考えた時、己の中に生まれながらに与えられている才能の可能性を、出来るだけ幅広く伸ばそうとすると豊譲な出会いをするものなのだ。彼等はそんな人達であったろう。況や人間の価値を逆さまに、異人の方が根源的には真実を語り、実践していると確信する乞食エカキにとっては裏話に興味があるのだ。
 「生き物にはその行動に於いて、奇妙な裏話が在る」と書いたのは「昆虫記」のファーブルだが、総一郎氏はその本を座右の書としていたとあるので誤解を恐れず続ける・・・・


 それにはやはり孫三郎で、翁はまさに「下駄と靴を片足ずつ履いて、そのまま歩き通した人生」だと言ってもよく、非常に分かりにくい人だったそうである。語録にも「学校の先生が褒めるような人物はたかが知れている。」「愚問を大胆にやって真を掴むことが出来る。賢そうな行動には発見も発明もなし」等だが、故に氏は思想的に右でも左でも夢を抱いて生きる男が好きであった。
 山川均等は氏と小学校が一緒であったが、社会主義者の旗手であり、明治四十一年、堺利彦の赤旗事件に連座して千葉の監獄に入れられたとき、孫三郎はわざわざ慰問にいくほど親しくしている。
 また大原社会問題研究所を創設したとき「貧乏物語」の著者・河上肇を所長に招こうという下心もあって、自ら河上を訪ねている。河上は思いがけぬ資本家の来訪に驚き「私の様な所へ来られると、あまり貴方の為になりませんよ」と孫三郎をたしなめている程である。

 勿論これらは靴の方で、片方の下駄には当然ながら、彼の周囲には特定の女も居た訳で、とくに好んで老芸者の世間話に耳を傾けた。
 「ワシはあまり本を読まぬ代わりに、そういう女より、とても学校では教えて貰えんような学問をした」というのだ。

 有名な話では東京での学生時代、放蕩で高利貸しから今の金で言う数千万円の借金したとき、倉敷まで付いてきた付け馬に「他国の若者に大原を信用して、よくそれほどの大金を貸して下さった。」とご馳走し、返済したと言う孝四郎と言う父も並の人ではない。
 この孝四郎という人は松田元成の臣で、藤田大炊介を祖とし、四代照之は蘭皇と号した儒者で京・大坂の著名な学者・文人と交わった家柄である。
 総一郎の曾祖父にあたる五代目大原与平は旧禄・新禄との闘争、下津井事件にも連座しているとして片耳を切られたり、立石孫一郎一党に銃で威嚇されたりするがあくまで商人としての堅実主義に徹し、名実ともに大原家の礎を築く。
 その頃、著名な儒者・森田節斎が倉敷に招かれ塾を開いたのを機に、自ら住居を「謙受堂」と名ずけ、藤田孝四郎を養子としているのは「満は損を招き、謙は益を受く」に共鳴したからであろう。この「謙受説」は倉敷紡績の社是となり総一郎氏にも受け継がれていくである。


 さて大原美術館の楚を築いた画家・児島虎治郎だが、過日、東京美術学校での彼等の写真を見ていると何と児島虎次郎が持っている肖像画は片山センのものではないか。片山は岡山・久米の生んだ国際共産主義の組織者で今でもセン・カタヤマの名で記憶されているが、児島の青年期の不安定な情緒を見る思いだった。
 尚、あの社会事業家の石井十次も十六歳の時、宮崎で友人と飲酒、悲憤慷慨して明治政府を攻撃し、岩倉具視暗殺の必要を論じ、この為友人共々逮捕抑留されている。 
 徳富蘇峰は彼の性格は鉄をも溶かす情。山をも動かす意志の力として言行一致型としているが、直情怪行でもあると指摘している。 

 十八歳で警官に奉職していた時も、友人の妹が遊郭の女になっている事を知り、奔走して多額の金を集め、これを救済したのもそうだし、岡山で医学校に在学中、女巡礼に惻隠の情絶えず何のあてもないまま子供二人を引きとったのもそうであろう。しかし、それが岡山孤児院の起源で、孫三郎とも出会う切っ掛けになるのである。その孫三郎は「わしの目は十年先が見える」といったが、その子息・総一郎は五十年先、百年先の世界を見据えていたように思う。

 「この様な住みにくさを造り出した経済活動に、我々は無条件にそれを謳歌するのに躊躇せざるを得ない。よくも立派な経済成長という美名に隠れて戦争で破壊された以上の破壊を戦後にやってしまった。」という意味の言葉も一つであろう。
 氏は晩年、戦時中働いていた女子挺身隊員の招きで沖縄へ行っているが「本土が文化的殖民地化していく時、我々の故郷は沖縄にこそあると思う」と沖縄タイムズに載せている。
 これを担当したのが新川明であった。

2007/03/22(木) 40年前の美観地区日記より。 八十回
41 似顔絵の歴史6大阪・京都・神戸

 ニコライ・ガノーという露国の画家の名前には二度出会っている。
 最初は世が安保闘争の真最中の頃で東大生の樺美智子の死と引き換えに「もはや戦後ではない」と第一次池田内閣が発足した頃であった。
 当時の俺は面白くない高校をさぼっては単車をぶっ飛ばしたり、映画館の梯子をしたり不安定な状況であった。

 そんな一日、大阪の盛り場・千日前を歩いていると「よう、兄ちゃんの似顔絵、描きまひょ。」と声をかけた男がおる。濃い眉に濃いヒゲ面。一見して沖縄人の顔だ。「二百円」というので描いて貰うことにしたのだが、何と彼こそが儀間比呂氏といって、行動美術協会会員で「沖縄」という「受難島」を主題に彫り続けていた時代なのである。
 そして一九五六年、沖縄で個展を開くのだが、それを見た沖縄タイムズの新川明は感動するのだ。

「当時の私は、米軍の軍事支配によってもたらされる人間否定の現実に目をそむけて、安穏とした日常に埋没している沖縄の芸術のあり方に苛立ち、抵抗の芸術運動を提唱して血気に満ちていた。そこへ儀間氏の作品に接し、彼こそ沖縄のシケイロスやオロスコである」と沖縄タイムズに個展評を書くのである。
           
 以来、二人は刎套の友となり「詩画集・沖縄から日本が見える」等を出版し続けていく・・・・

 「その時の儀間氏は芸術というものは、人が上手く行えないものを、表現して実践してやるもんじゃ。公募展等に色気を使うより、絶えず生きた人間との相互関係を大切にすることだ。云わば相互の滲透において存在するものでなければアカン。その点ニコライ・ガノーという画家は似顔絵を描いて孤児を養育したというが、これこそ芸術なんだなぁ・・・・」

 この話は今でも強烈に覚えている。


 もう一つは我国の社会事業家の先達「石井十次伝」を読んでいると、このニコライ・ガノーの名が出てきたのだ。それは十次の娘・友子の結婚相手を探していた時、日本救世軍を創始する山室軍兵(哲多町)がニコライの資料を十次に紹介。
 そこで十次はあらゆる面で援助を受けていた大原孫三郎に相談すると即座に画家・児島虎治郎の名をあげるのである。
 しかし、その当時、美術で喰えるものはごく少数で、美術を勉強するというと武術の間違いではないかと言われた時代だったが
 「人間と云う者は、決心と心掛けしだいでどの様にもなるのだ」という孫三郎の信念を知悉していた十次は「これ神命なり、疑うことなかれ」と神と孫三郎に一切を任せるのである・・・

2007/03/21(水) 40年前の美観地区日記より。 七十九回
 大原美術館の存在は昭和七年、満州事変に際して国際連盟から派遣されたリットン調査団が日本の片田舎にこれほどの西洋絵画が集められている事に驚嘆したと言われている。この事情が第二次世界大戦末期、日本国内各地が爆撃浴びせられる中、倉敷が無事であったのは己自からの文化を灰塵に帰するに偲びなかった。つまり、一個の美術館が町を救ったのであると云っても過言ではない。

 尚、日本通で岡倉天心を知るラングドン・ウォーナーの功績も多大で、彼は「日本にある人類の宝を守れ」と云ってアメリカ人類学者オーティス・ケーリーを通して、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンに依頼したことである。

 また大原美術館前に立つ二体のロダンの彫刻像「カレーの市民」「洗礼者ヨハネ」を時の軍部が接収命令を出して来た時、ときの館長・竹内潔真が「このロダンの彫刻はかけがえのない重要美術品。軍需工場で働いておられる多くの労働者に感動を与えています。」と直訴。それを「供出の必要なし」と受け入れた審議会委員の人々に柏手を送りたい。

 実際、戦争中の入館者は多く、殺伐とした時代故に芸術に触れ、人間としての魂を一瞬でも取り戻したかったのであろう。
 のち孫三郎の後を継ぐ総一郎氏は当時を回想して、次の様に書いている。

 「その頃、毎日のように武官に連れられて特攻隊出陣の若い学徒兵の人達がやって来た。当時敵国の美術品に囲まれた中で、故国に決別する最後の一時を過ごして任地に向かう、これらの人達の印象は今も消し難く思い出される」

 総一郎氏にすれば孫三郎より受け継いだ倉敷紡績も軍に接収され、木製飛行機を造らされていたが、多くは特攻用で日本楽器製造の「剣」が有名だが、ここのは「白菊」という可憐な名で、結局、十七機が造られ、総一郎氏としては感慨ひとしおであっただろうと想起するのである・・・・

 またその年の十二月より大原美術館開館、入場料は一般五十銭、学生三十銭、進駐兵は無料だったが、氏は兵士が喰いいる様に鑑賞する姿を見て、芸術に国境がないことを確信するのである。
 以後、ビニロンを開発する一方、今までは印象派のアカデミックな絵が多かったが、ゴッホやセザンヌの様なエコール・ド・パリ以降の作品も購入する。と共に昭和二十六年にはマチス展、翌年にはピカソ展を開催。戦後の大原美術館のルネサンスとも言うべき改革が見事に華ひらくのだ。

 「倉敷を日本のローテンブルグに」というのが総一郎氏の希望だったそうだが、今、現実に具体化しつつある・・・・・


 ところで人が環境によって助長する者と仮定すれば、この一介の地方都市から多くの画家が輩出している事である。大原氏の奨学生であった満谷国四郎と児島虎次郎。岡山洋画壇の父といわれた吉田茜。裸婦の寺松と言われた寺松国太郎。太平洋洋画会の中心だった鹿子木猛郎。アメリカ画壇で成功した国吉康雄。フォーブの鬼と言われた中山巌、フォーブより大原美術館員になった三橋健。我国抽象絵画の先駆者・坂田一男。盲目の旅芸人・ゴゼを得意とする斉藤真一。
 日本画では小林竹喬に池田遙邨等の巨匠をあげていけば切りがない。

 では何故こういうことを書いて来たかとというと俺が東京へ似顔絵を描きに云った時、前回で紹介した野崎氏や小野君。竹槍氏という具合にこの倉敷出身の似顔絵師が実に多かった事に疑問を感じていたからだ。しかし、こう書いてきてみると何の不思議も無い訳である・・・・


 竹槍氏は下津井出身でシャープな顔立ちにロマンスグレーの良く似合う人だが根はボッケー頑固者である。
 「わしゃ、倉敷に居る時はゴクドウ者でな」おっしゃる氏のゴケドウはとは黒住教の布教者として、その頃台頭してきた新興宗教を論破して歩く事を指すらしい。その間、大原美術館に魅せられ、この道に入って来たらしい。小野君は叔父さんが英国でアッシャー賞に入賞した抽象画家・藤岡章氏の影響もあるが、やはり大原に魅せられてこの道に入ったと叙階する。

 神さま、仏さま、オオハラさま。皆、オオハラの恩恵を受けているのである。



絵は大原総一郎氏。

2007/03/20(火) 40年前の美観地区日記より。 七十八回
40 似顔絵の歴史5倉敷編

 大原県倉敷・・・この奇妙な県名を聞いたのはこの倉敷出身の似顔絵描きの小野君からであった。といって別に奇妙でも何でもなく、俺が大阪の美術学校に通っている頃から、先生や美術研究生からオオハラ・クラシキと何度も呪文の様に聞いていたからだ。

 確かにクラシキを世界的な名にしたのは倉敷川を挟んで白壁,本瓦葺き、格子窓といった特異な蔵屋敷をバーナード・リーチやエドマンド・ブランデンが絶賛した事にもよるが、何といっても大原一族の存在だろう。

 その大原氏は早くも明治二十一年に英国より紡績機械一式を買い入れ成功するのだが、ただ単なる実業家でなく「富のうちのみに死する者は、汚辱のうちに死する者でる」と云い、実践した世界
最大の鉄鋼王カーネギーに似て、社会事業に身を捧げるのである。倉敷奨学会、岡山孤児院、大原社会問題研究所、大原農業試験所、倉敷中央病院、民芸館建設等などだが有名で誰でも知っているのは大原美術館だろう。

 その大原美術館は昭和五年開館だが、当初は児島虎次郎記念館みたいなもので、全ての作品は大原氏の援助で児島氏が集めたものと彼自身の作品であったからだ。
 そもそも虎次郎は成羽町の宿屋の息子であったわけだが、画才が優れ大原孫三郎の援助によって東京美術学校に入校。この時の校長が黒田清輝で同期には和田三造、辻永、南薫造、熊谷守一。

 そして文豪・夏目漱石をして「あの人は天才だと思います。」と言わしめた青木繁等、日本洋画壇の精鋭が揃っていた。とくに青木芸術は歴史の激しい審判を超えて第一級の名を後世に残しているが、当時の彼は黒田や岡山出身の児島や松岡寿、満谷国四郎を馬鹿にし、「海の幸」より「わだつみのいろこの宮」が最末席になるや「大家は退化なり、貯財せずば大家になれず。困ったものなり・・・」の文を敲き付けて出奔、満身創痍のうち他界する。

 一方、孫三郎の庇護下にあった虎次郎は石井十次の岡山孤児院を描いた「情けの庭」が一等賞を獲得、皇后のお買いあげとなるのである。
俺の感性では藤島武二の描いた石井の教育理念の「ライオン教室」の方が面白いが仕方あるまい。
 結局、虎次郎は孫三郎の薦めでパリのコランに次いでベルギーのガン美術学校に学ぶのである。その在学中に泰西名画の原画を見るに及んで感動、孫三郎に西欧絵画のコレクションを進言、アマン・ジャンの「髪」を手始めにモネの「睡蓮」、マチスの「画家の娘」。そしてマルケ、デヴァリェール、ドニ、ベナール、コッテ等の作品二十七点を購入。そして「第一回仏蘭西名画展覧会」が、この倉敷の新川小学校で大正十年に催されるのだが、その反響は異常なほど大きかったと言う。小磯良平や前田寛治など多くの画家の渇仰を癒し、遠くは北海道や九州からはるばるやって来た愛好家まであって汽車が着くたびに倉敷町民も驚いたが、一番驚いたのは孫三郎だったらしい。

 以後、孫三郎は再三、虎次郎を名画の寡集の旅に出発させ、後、大原美術館の顔にるエル・グレコの名作「受胎告知」等手に入れるのだ。

2007/03/19(月) 40年前の美観地区日記より。 七十七回
 相変わらずトンボという似顔絵描きは服部時計店前や松屋前等を飛び回って、似顔絵を描き、独立展に出展していたが入選せず、公衆便所の中で凍死するのだが彼の口癖は「林武のアトリエにウンコして来てやった」であった。

 東大法科出のゴーケツという絵師はハオリ・ハカマで矢立て描く人だったが名の通り、正義感強く、三人連れの米兵に日本娘が悪戯されているのを目撃すると、下駄を脱ぎ捨てその中に割って入るのだが何しろ栄養失調だ、米兵にスキヤ橋下に投げ捨てられたあげく水死。俗に言うヤンキーゴーホーム事件だ。

 明治芸術学部出の野崎という絵師は絵を描き終わっても「ザッシライト」と言わなければ、おもむろに鉛筆削りを取り出して鉛筆を削り始め威嚇するのだ。彼は後年NHKより「失われた大陸」等ドキュメンタリー物をモノにするのだが、ちなみに彼は岡山・高梁の出であった。

 又、ある奴は柳の木に登り「ミィ、ミィ」と蝉の鳴き真似をしたり、「ホーホケキョ」とウグイス」の鳴声して「外人にはわかるメェ」のタンカを切ったり、「俺の身体売ります」と言う看板を首からぶら下げたり、まだまだ街はデカダンとニヒリズムの洪水であった。

 一方、無頼派と称する文学達はアドルムやヒロポンを手にし「ニヒリズム奨励」の文学を書きまくっていたのである。
 あえて言えばとことん落ちてしまえば住みやすい世界だったのだろう。

 ところが講和条約なるや大道絵師の大半が住んでいた新橋、有楽町の国鉄ガード下にあったバタヤ部落の強制徹去。それに児童福祉法の改正施行にもとずき、警視庁は銀座の花売り、靴磨きを一斎補導乗り出すのだ。似顔絵描きの中でも未成年の者がおって、彼等は上野公園に進出して行くのである。

 上野公園は寛永寺跡だが、明治より博覧会のメッカで、そこに尚、動物園、博物館、美術館等多くあり、とくに桜の季節になれば花見客で満杯になる所だ。

 それに昭和二十六年になると東京国立博物館でアンリ・マチス展。ついでピカソ展,ブラック展等開催多くの人を集めるのだが、余談ついでにこのヒカソ展を見た大原総一郎氏は「頭蓋骨のある静物」を二年がかりで手にしているのだ。

勿論ここにも数人の似顔絵描きがいた。戦争孤児をテーマにした作品を描き続けている西村滋氏に依るとストコフスキーというアダ名の似顔絵師を紹介しているが、やはり日本人が米兵に悪戯されると、大きな声でアメリカ国歌を歌い、それが大合唱になって兵士はコソコソと姿をくらましたという。
 彼等はズボラであったが一方で露ほどの規制も因襲も嫌う潔癖さを持っていて、虐げられる者同士の仲間意識が強く、その一つが警視総監が数名の部下を連れて夜の上野公園を視察中、オカマやその仲間に殴られる事件もその一つであろう。

 また新宿だ。新宿は昭和初頭より、おそらく東京中で一番人の込み合う町だったろう。故に流しの芸人は銀座より多かったし、花売り娘も、易者も、乞食も、況や大道絵師も大勢闊歩していたと思う。
 戦後、この一帯を娯楽センターにする構想は敗戦三日後にすでに決定、歌舞伎町となるのであるが、数人の男エカキに混じって井上のおばあちゃんエカキに左手のない池田という若いおんなエカキが出現していた。しかもここが一番柄の悪い絵描きの集まる所で、あえて言えば精神病院入院一歩手前の様な奴ばかりで、ここを縄ばりにしていた尾津組も和田組もこのような大道絵師からはショバ銭は取らなかった。

 関西でも京都では口で絵を描く睦ちゃん。大坂の難波では共産党員で二人がかりで一枚の似顔絵を描く人。行動美術で沖縄出身の儀間比呂志氏。神戸で橋本関雪と京都絵画学校で同期だった杉本氏等々を話しに聞くが、ではこの倉敷ではどうだったのだろうか。

 「秋津温泉」で有名になった郷土作家・藤原審鋳は今の千秋座に近い喫茶店の二階に住み「秋楽町横丁」を描いている。これによると、この岡山に進駐してきたのはコート代将でここもご多聞にもれず食料難で進駐軍に浅ましい行為をする事を禁じている。涙ぐましい事には食料難を解決する為に新渓園で「もみ殻パン」「スイトン」「どん栗餅」奇抜な所では「鼠のスキ焼き」等を試食しているのである。

 しかし嬉しいことには終戦の年には早くも大原美術館開館、何とすぐにピカソ・マチス展を開催しているのには驚く。
 それに現在は日展会友であり、後世の育成に邁進されている「福ちゃん」の愛称で親しまれているK氏が即席似顔絵を描いて倉敷を明るくしたことが救いであろう・・・

2007/03/18(日) 40年前の美観地区日記より。 七十六回
39 似顔絵の歴史C

 昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争は、日本に取って重大な意味を持つ事件だった。他人の不幸で漁夫の利を得た結果になったが、この戦争から受けた利益は膨大でこれが日本の再建に注ぎ込まれ、少なくとも物質的な面では太平洋戦争という愚行に突入する前に近い状態に戻ることが出来たのだ。

 それは金ヘンであり、糸ヘンであったのだが、やはり大道似顔絵師の先輩の話だが、パンパンガール経済と共に大いに似顔絵師も寄与したというのだ。

 これは少々極論になるかも知れないが、確かに全国進駐軍の来た所では彼等から相当金をせしめただろう。とくに横須賀や佐世保の軍港では、似顔絵長屋やパンパン・ガールがズラッと並び、街灯も点灯し毎日祭りみたいな騒ぎだったと言う。

 ところが翌々年、国民自ら選んだものでない日米安保条約が発効。三日後には血のメーデー事件。「破防法」いわゆる治安維持法、特高の悪夢が又、再現されるのだ。

 余談になるが我国の民衆史のパイオニアである八切止夫史観によれば、古墳時代における我国の人口の九割は奴隷だったという。奴隷は妻帯が許されず(賎ズリという言葉の語源はここにあるとか)奴隷頭に出世した者だけが子孫を残す事を許された。即ち奴隷頭とは、仲間の奴隷達を裏切って鞭打たれる側から鞭打つ側に回った連中(現代で言えば役人か)の事である。要するに日本人民衆のほとんどは、裏切り者の子孫であり、その内なる奴隷根性は二千年のプロセスをえて形成されたという訳だ。

 八切止夫はこれを自らの戦争体験をもとにして「天皇バンザイ」で中国へ出征した日本兵達が捕虜となるや「毛沢東バンザイ」を、シベリアに抑留されると「スターリンバンザイ」を唱え、帰還したとたんに「マッカーサーバンザイ」を唱えるという、その徹底した節操のなさ、プライドのなさこそ、古代奴隷制が如何に強力だったかを証明していると言うのだ。
これが事実ならマッカーサーに「日本人の精神年齢は十二だ」と言われても仕方なかろう。
 しかし、俺は「自らの意思でドロップアウトして、自主独立へ脱出した自由人もいたのだ」という夢と希望の歴史観を持ちたいし、描きたいのだ。

2007/03/17(土) 40年前の美観地区日記より。 七十五回
 さて俄然似顔絵師の話が明瞭になってくるのは、戦後の事からであるというのは、その時より似顔絵を描き、なお現在似顔絵を描いている先輩がいるからである。

 その先輩の話しによると新宿、銀座、上野等の焼け跡にはすぐ露店が建ち始め、とくに銀座の服部時計店と松屋前には進駐軍用の酒保、つまりPX前にはカーキ色の軍服を着た進駐軍兵士が大勢やってきたので、それを目当ての花売りや靴磨き、あるいはパンパンガール、箱形カメラを首から下げた俄か街頭写真屋等が出現した。

 そんな中にスケッチブックを持った大道似顔絵師も居たわけだが、その数は四十人とも六十人とも言われている。
 石田、橋本、野崎、ガマ田、大崎、松本、小林、岡田、福永、佐伯などなどだが決して本名で呼ばれる事なく、ガマやショウ、アラカンやガイコツ、あるいはイラスト等とニックネームで呼ばれていたのはお互いの過去を詮索することなく、一種の親しみとチームワークの堅さを現わしているものとみえる。

 例えば絵に自信のあるものは丸の内の学士会館や王子の燃料倉庫跡に兵士が寝泊りしていたので、油絵の肖像画を描きにいったそうである。F6号で毎日二時間、一週間完成で二千五百円。当時、似顔絵一枚は三十円程だったので良い値段と良い食事だったと言う。

 また面白い事に横須賀港に軍艦が入るとポン引きが連絡してくれ、大拳して似顔絵を描きに行くのだ。そして滅多に手に入らないフイリップモリスのタバコや缶詰を手にすると、当時、殺人酒と言われたメチール酒で泥酔。数人の似顔絵師も死んでいったが決して「進駐軍万歳」「反軍国主義」「平和と民主主義」唱える事もなく、況や「芸術論」等一口も口に出さなかったと言う。

 ついこの間まで「我々こそは東亜の指導者である」という妄想を完膚なきまで叩き込まれ、一転、マッカーサーの説くデモクラシー、丹頂党(頭だけ赤い)の示唆するイデオロギーもそこに獣的な人間の利己心が働いている事を膚で痛いほど知悉していたのであろう。

 故にだ。彼等は自分自身を戯画的かつ露悪的にする方が行き易い事を知っていた。
 例えばショージという似顔絵描きは客が如何に進駐軍兵士であろうとも、絵を描きだすと般若心教を唱えたり、アラカンというエカキは「ノー・マネー」と言っておきながら「眼はファイブ・セントだが描くか?」「鼻はシックス・セントだがどうする?」と言って結局三十円近くを手にするのだ。後、自害する石田氏はパンパンガールと歩いている兵士の帽子を、跡からひったくり赤ンベエして逃げ去るのを得意としていた。又、ある聾唖者のエカキは絵を描き終わって「ハウ・マッチ」と聞かれ、指を三本出すと何と三ドルもくれたという訳で又、皆でメチール酒で乾杯だ。

 今度は銀座のハナとかマドンナと言われたパンパンガールも一緒で、結局、彼女からも肉体の接待を受けるのである。

 勿論一般人の中にも銀座のど真ん中で日の丸のタスキを掛けて何だか訳のわからぬ演説をしている人だとか、マンドリンで弾き語りしている「天空」とかいう詩人とか、信号等無視して「止まれ!」「まだ行っちゃいけない!」等叫んでいる人とか、あらゆる軌範から解放され、個人の自由意志を現わす人が出て来たのも一種の救いであろう。


 先輩似顔絵描きはいうのだ。
「当時はある種の共同体の意識、お互い同士という気分があった。振り返ってみると、あの頃の真にみすぼらしい日本人の方が、今の身ぎれいなお洒落な日本人より、むしろ立派だったのではないかと思える。人々は呆然自失のショックを振り払って立ち上がり、軍国主義的な侵略など無益だと悟るや、別の道を求めて廃墟の中を歩む姿は美しかった」と。

 ところで今や世界的な版画家として有名な池田満寿夫氏も、自由美術の佐伯という似顔絵師の紹介で立っていたのである。
 「この似顔絵というヤツは特別な技術を必要とするらしく、私には初めから彼等に対抗出切るだけの要領のよさを持っていなかった。従って何時も兵隊を横取りされ、あげくのはて、この新参者は銀座の似顔絵のレベルを落とすとして彼等の協議の結果、銀座に立つ事を禁じられたのであった」と氏の著書で嘆いておられるのだ。氏は兵士が通りかかると「ボクは絵ヲ勉強中デ学資ガ必要ナンデス。ドウカアナタノ似顔絵ヲ一枚描カセテクダサイ」とたどたどしい英語で説明しょうとしているが「ヘイ、ユー、ノオライク、ノォペイ!」で良いのだ。

 それに横浜からくる第五空軍や第八連隊の米兵はよく描かせてくれるが、腕黄色地の馬のマークを付けた米兵はマッカーサー直属のいわゆる近衛兵で池田氏は見分けがつかなかったのであろう。

 池田氏はそれで良かったと思う。

2007/03/16(金) 40年前の美観地区日記より。 七十四回
37 似顔絵の歴史B

 「文明」というものは創製、発展、爛熟、衰退という生命と寿命にも似た経過をたどるものであり、その爛熟期が大正時代だったと思う。
 心理学者・南博氏は「現在の我々の周りを取り巻く現象はほとんど大正期にその原型が存在していたのである」と指摘されるのだ。

 例えばデモクラシー、マルクス主義、そして私小説、風俗小説、プロレタリア芸術、前衛派等の芸術面。マスコミ、マスカルチャー等々の現代との酷似。生活、風俗の面での生活の合理化、家庭文化、消費文化などは大小の差こそあれ、そのパターンは現代の原型に見られる。

 たしかにこの時代は目覚めと行動の時代であり、芸術活動は盛んになって文学者や画家が輩出し数々の名作を発表した。

 反面、失業率が多大で画で喰えない画家は銀座や浅草、あるいは上野公園に似顔絵描きとして立ったものと推測する。
 この頃の浅草は谷口潤一郎の「鮫人」や川端康也の「浅草紅団」などに描かれているように、軽演劇やレビューのメッカで人々は毎日溢れていたし、銀座でも今では(銀ブラ)など死語とかしているが、この頃は眩しいような街で、人々は(銀ブラ)というものはステータス化していたのである。これは昭和に入ってからだが作家・武田鱗太郎は「銀座八丁」で銀座のカフェーを次ぎのように活写しているのにも伺える。

 「時々、扉が開くので、皆はそちらを見るのだが、実に多いのは花売りの子供や声色屋、明暗教会の箱をぶら下げた虚無僧、バイオリン弾き、そして似顔絵描き」と出てくるのである。その頃流行った流行歌「東京行進曲」では銀座、浅草、新宿などを歌っているように其々の盛り場には先ほどの連中も集まって来たのであろう。

 似顔絵描きの先輩の話によると有名な漫画家の近藤日出造や清水昆も無名時代には大道似顔絵師として活躍していたそうだし、上野公園では日展審査員で「舞子像」を得意とする鬼頭鍋三郎氏も似顔絵を描いていたのもそ一例である。

2007/03/15(木) 40年前の美観地区日記より。 七十三回
ところで小生の友人に奥山という男がいる。
 彼は現在ドイツのドレスデン美術大学に留学していて帰国するとよく話しを聞くのだが、彼の説によると似顔絵が大量に描かれるようになったのは、鉛筆の発明からであろうと言う。たとえば十六世紀フランソワ一世の宮廷画家であったジャン・クルーエは鉛筆による似顔絵が数百枚、シャティのコレクションに残っているように・・・・

 なおこの似顔絵集は当時複製販売され、人気を得たというがそれは丁度今日、写真やグラフ雑誌が大衆に映画俳優やスポーツのスタープレヤーの容貌を伝えるのと同じであるまいか。

 また十八世紀のルイ・カロジスという画家はオルレアン公のお抱え絵師だったが、カルモンテルという偽名で色んな人の顔を描いたことである。
 そのモデルの其々の物腰、身なりが自然な表情で描かれているのは鉛筆画が油絵よりたやすく、しかも安価であったからであろう。故にクルーエの似顔絵がかって引き起こしたのと同じ様な熱狂が再びみられるのだ。彼の似顔絵も散逸したものを除き、七五0点がクルーエと同じくシャティイに現在も残っている。

 それにしても王侯、貴族、ブルジァア階級だけの肖像画が横行していた時代に庶民を好んで描いたと言う事は二人共、反骨精神を秘めていた事であろう。新たな大きな創造を成そうとする者は絶対反骨精神が必要なのだ。

 ヴアン・エイクは「オータンの聖母」に於いて寄進者を聖母の下に身体をくねらせ、辛い姿勢で跪かせている。ポッティチェルリは「東方の博士の礼拝」に於いてメディチ家の人々を可笑しくなるほど、尊大と傲慢さを描き加えている。レンブラントの「夜警」に到っては光線の原理を追及するあまり、支払いを拒否され、クールベは写実主義を追及するあまり、監獄に囚われているのである。

 話を本流にもどす。先の奥山の話を続けるとドイツに於いてもチューリヒ駅前通りの路上でバグパイプやギター演奏者のストリート・アーチストに混じって似顔絵描きも大勢いるらしい。しかし、何といっても有名なのはフランスのモンマルトルで、次いでスペインのマドリード広場、ニューヨークのグレニッジビレッジ(現在イースト・ビレッジ)であろう。

 ではこれらは何時頃からと言われれば、やはり日本と同じく大正期(一九二0年)以降と推測される。何故ならそれ以前は第一次世界大戦があり、後には第二次世界大戦があって、とてもストーリート・アーチストを横行させる余裕などなかったと思われるからだ。

 日本でも前回で紹介した漫画家の服部亮栄氏が「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」と宣言したのは大正中期であった。この頃は巷に失業者が溢れ、それに世界恐慌が追い討ちを駆け、大学を出た者さえ就職口がなく、況や漫画家や画家を志す者には何をかであり、巷にボツボツ大道似顔絵師が散見出切るようになるのだ。


 それは時代の影に咲いたアダ花であったかも知れない。

2007/03/14(水) 40年前の美観地区日記より。 七十二回
 似顔絵の歴史A

 「似顔絵と肖像画とどう違うのか?」お客からこういう質問をよく聞く。

 「広辞苑」では「似顔絵」も「肖像画」も人の顔や姿に似せて描いたものとあるが、我々の仲間では「似顔絵」は漫画的(カリカチュア風)で「肖像画」写実的に丁寧に描いたものと定義しているが、印象派、立体派、フォーヴイズム、抽象の絵画を経験してきた今日では通用しなくなった。
 例えば世界的な辞書「ブリタニカ」によれば「肖像画は他人による特定の個人のある一つの面の再現である」と。

 この表現からいえば人物の忠実な画像はもはや問題にならず、ただある幾つかの面の再現にすぎず、それすらも、他人の眼を通してであり、とすれば主観的なものでありうる事がただちに想起されるのだ。

 ピカソの「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」等は面と光の探求の組み合わせ、視覚のあらゆるまやかしを排し、作品を画家の感じる表象によって組み立てる事で、キュビイズムは印象主義とゴーギャンの二重の思索から抜け出ず、出来上がった作品は主題と人間そのものも消し去ることで自律性を獲得している。
 これをもっとラジカルに捕らえてみると、壁に付いた染みとか、小道の砂利にでさえ、これが貴方の肖像であると言える事もありえるのだ。

 昔、新宿に変わった似顔絵師が居て、彼は客を捕まえては「貴方は顔を描くより、足の方が貴方を表現している」と言って路上に腹ばいになって足を描くものだから、時々客に殴られていた。

 ところで「肖」とは「似すがた」を意味し、プリニウスの博物誌によれば、恋人の姿を留めるため壁に投与された影絵が始原と言われている。故に「肖像」としてもっとも大切な事は、像主の外貌が客観的に写し取るが根源的なものであろう。思うに如何に狂信的な抽象主義の信徒でも、今後の人間社会に肖像画の用なしと言い切るものはあるまい。人間の姿が写真によってのみ伝わる事に、人がある寂しさを感じるで在ろうことは容易に想像され、肖像に限らず全ての絵画が抽象、非具象の一色に塗りつぶされるのに不満を感じる事は同じであろう。

 さて西洋に目を転じ、問題を肖像画に限らずジャンルとしての意味でたんなる人物画にまで広げれば、文明が芽生えるとたちまち太古より、それがどんな荒削りなものであれ、石に彫られ、形作られ、刻まれ、あるいは物の上に描かれた人物画が現れる。

 例えば最初の文明として知られるシュメール文明では紀元前四千年にシュメールの女人像が作られているが、我が日本の埴輪と同じく葬礼用であり、肖像画とは言えないだろう。後に古代社会に階級と権力が生じてきたとき、それらの象徴として形象が作られ、あるいは描かれてきたが、これらも個人の存在を表現するというよりは、それぞれの位階・身分を示す類型的形象であった。
 やはり個人的特徴が描かれる様になるのは、日本の雪舟の出現と同じく十五世紀のルネッサンスからであろう。

 この頃はブルジョア階級の勃興と、これに伴う個人の自我の確立にともなって性格を正確に示す細密なリアリスティックな肖像画が現れてきたのだ。

 十六世紀にはティツィアーノ、デューラー等、個人の内面を洞察し、象徴的にこれを表現しょうとする精神性の深い肖像画が描かれるようになったが、この発展途上に十七世紀のレンブラント、ベルニーニなど、光と影の助力を得て精神性と時間性を示す個人表現は頂点に達するのである。

 また個人の精神性に価値を置く十八・九世紀にはいずれの国においても肖像画の全盛期であったが、十九世紀末の写真の登場が長い肖像の歴史を大きく変化させた事は絵に興味ある方ならご存知のはずで、しかし、ここではあくまで似顔絵の歴史で肖像写真は黙殺することにする。

2007/03/13(火) 40年前の美観地区日記より。 七十一回
では「エカキ」という言葉は何時から使われたのか。「日本書記」の雄略記七年の件には、百済から多くの技術者が渡来した時、陶部高貴(すえつくりこうき)鞍作堅貴(くらつくりけんき)等の中に画部因鞍羅我(えかきいんくらが)といって画部を「エカキ」と読ませているのが最始であろう。
.
 ただし彼等は律令制化の権力組織に隷属的な部民集団で、あの高松塚古墳壁画に見られる様に全ての顔は「引き目.釣り鼻」で個性は表現されていない。
 つまり顔は個性的に描くのではなく、いわば権力そのものを描くことが様式美と確立されていたのであろう。
ところが八百五年に唐から帰る空海が、当地の画家・李真に描かせた真言宗の祖師五人の肖像画は迫真的、写実的であったが為、日本の大和絵に受け入れられ「似絵」と呼ばれる肖像画が誕生する。
 鎌倉時代に入ると「似絵名人」と言われた藤原隆信、その子の藤原信実に到っては「似絵描き大名人」と尊称された人々が出るが、源頼朝像や平重盛像を描く延臣画家の手では面白くない。

 ところが面白い資料が見つかった。

 それは鎌倉時代の最末期、浄土真宗の仏光寺派では絵系図というものを作った。「現存の時よりその面像を写して、末の世までその形見を残さん」という事で、念仏を求めて入信した人達の絵姿を描き、絵による入信譜を作った。なにしろ自分の顔や姿、名前が書き残されるのだから、我も我もと入信し、そのため仏光寺は門前市をなすのだ。

 反面本願寺の方は閑古鳥が鳴いたというのも「似絵」の大勝利で、しかもこの絵系図の場合には入信者が庶民で、これは注目に値し「個」への関心が強まってくるのだ。

 十五世紀には後世から画聖と仰がれた雪舟のような人物が出てくるのだが、とくに石見の大名・益田兼堯の肖像は個性の追求として秀逸の一つである。と同時に画面に「雪舟筆」と署名した事だが、それは彼が独立した画人の行為と自己の作品である事を宣言したことだ。ちなみに彼は岡山総社の生まれであるが、その後、やはり岡山藩の儒者であった浦上玉堂、田原藩士渡辺崋山等、次々台頭してくるのだが、十五世紀という時期に日本絵画史に「近代」を予兆するような、これだけの重みを持つ画人の出現した事は大いに驚きに価する。
 他に「似顔絵」の言葉を始めて使った浮世絵師・東州斎写楽に言及したかったが、あえて走り抜ける。


 さて江戸から明治へ時代が変わると、日本人がそれまで知らなかった事物が無数に到来した。絵の世界も例外でなく明治政府が招聘したイタリア人画家キョソーネが描き出した肖像画には無視しえない程の大きな影響力があったといえる。
 それは彼のアカデミックな描法と緻密なコンテ画で明治天皇や元勲達を描いたモノだが、モデルの実在を超えてリアルな印象を見る者に与えるモノであったのだ。

 初代・五姓田芳柳などは西洋画の普及奨励を希念して、門人ともどもと描いた油絵を明治七年の夏、当時、浅草奥山一帯の興行師の取り締まりをしていた新門辰五郎の了解のもとに油絵興行の小屋かけを拵え開業した事だ。木戸番、口上言、囃子方等の陣容も整い、まず場内で、口上言が陳列画の詳しい説明に始まり「よくお目に止めてご覧下さい」巧みに述べれば、見物人は成る程と感激して「画がものを言いそうだ」「今にも動き出しそうだ」着物は本人の切地だろう」等と口々に驚嘆の目を見張ったという。

 もっともここでの油絵は、泥絵具にニスを引いただけの代用油絵であった。しかしこれを見た人々は描かれたものをリアルだと感じたのは、線的遠近法や陰影法を含めて、様々な描写法によって表現された世界を写実的だと感じる認識の方法を、彼等がすでに自然に身に付けていた事を意味する。と同時に彼らは今までの例の「引き目、釣り鼻」という様式化された権力肖像に飽き飽きしていたのであろう。

 あえて言えば大久保利通や伊藤博文等、明治の元勲や権力者をいくらテクニック上手に描いていても共感を得なかったであろう。それは、そういう肖像は国家体制の一環としての表現であり、そもそも「国家」とか「権力」という存在ほど実体のない、また曖昧なモノでない事を肌で嗅ぎ取っていたのだ。ヒットラーやスターリン、毛沢東の肖像画の様にである。
 反面、北沢楽天や岡本一平の風刺似顔絵は本質的には民衆の立場に立った絵画であり、反骨の矢を持っていたから民衆は喝采を送るのだ。

 それらの風潮に浅井忠、石井拍亭、坂本繁二郎、池部釣、川端龍子、東郷青児等有名画家も参加。
 変わった所では尾崎鍔堂の長子・彦麻呂。島崎藤村の息子・鴎助の胎頭により時の権力より弾圧。あの忌まわしい戦争に利用されていく。

 極論すれば何時の世も人は反骨精神を忘れたら駄目だと言うことだ。
 それは人々も濁るし、権力も腐敗す・

2007/03/12(月) 40年前の美観地区日記より。 七十回
似顔絵の歴史1古今東西の似顔絵

 「似顔絵漂流記」で玉川しんめい氏は次のように書いている。
 「肖像画の歴史まで遡れば、遠く奈良朝の聖徳太子像以来と言うことになりかねないのであるが、現在の似顔絵という商売が成立して、絵師が街頭に立ち始めたのは、どうも大正期以降という事らしい。それは昭和二年に服部亮英という漫画家が「似顔絵雲水」なる本を書いていて、本人は関東大震災後に風の吹くままに人の似顔絵を描いて全国行脚を試みているのであるがその中で次のように述べている。

 「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」
 「大正八年だったと思う。静岡民友新報に川瀬蘇北氏がおられた頃、大坂漫展の帰りに立ち寄って、この地では初めて漫画展覧会を開催した。その席上で常時静岡市の名士の似顔絵を描いた事があった」
 「時の内務部長、駅長、助役、検事、等の顔が数分間に描かれると直ぐ会場の一隅に張り出された。大勢の男女学生はやんやと押し寄せて、似てる似てないと、御本人のモデルを側にして批評していた」
 「似顔絵を民衆の前で描いたのは、恐らくこの時が初めてで、東京ではまだみられなかった。云わば静岡は漫画似顔絵の民衆化としての酵母の地であり、かくして近代似顔絵の発祥は大正中期にあると考えられる」

 少々、引用がながくなったが、確かに似顔絵が盛んになったのは大正中期頃からで、例えば詩人の金子光晴が渡欧の際、金の無いときは船の中で似顔絵を描いたというが、彼にすれば東京美術学校時代から浮世絵師の小林清親に師事しているぐらいだから似顔絵ぐらい簡単な事であったろう。
 またその頃、哲人ジャーナリスト松尾邦乃助がパリ滞在中、サンチェスという大道似顔絵師にカルカチュア風の似顔絵を描いて貰っている所をみるとヨーロッパでもボツボツ大道似顔絵師が出て来たものと推測する。
 前衛画家・岡本太郎の父・一平も明治のポンチ絵から脱して、軽妙洒脱な風刺似顔絵で新生面を開いたのも大正時代で、その辺りより近藤日出造や清水昆等の似顔絵の大家が出てくるのだ。
 そこで俺は俺なりに戦前・戦後から平成まで続く似顔絵師列伝を考察しょうという訳だ。

3月絵日記の続き


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.