美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/02/06(火) 40年前の美観地区日記より。 四十回
 それに「老子」の書物だ。
 国家に癒着し、既成秩序擁護に結果しがちな「孔子」と違い、国家も社会も否定する無為のアナキズムに本来の人間主義と真のインターナショナルリズムを回復しょうとする老子の思想が、時の軍部に危険視され、官憲に弾圧されるのだ。それでも黒石は節を曲げることを拒み、国際的根なし草の痛みをニヒリズムの深淵まで掘り下げ、貫き通すのだから、残された一家はたまったものではない。度重なる夜逃げはまだしも喰うものがない。そこで道端に生えているヨメナ、ハコベ、ノビル等で腹を誤魔化すのだからカイコやコアラ、パンダと何等変わらぬ生活を送るのだ。ゆえにこういう飽食時代になっても野菜が身の回りになくては安心出来かねるのだろう。

 また晃氏はこうおっしゃるのだ「ボクは一般にその物の持ち味が好きなのよ。従って料理してすっかり持ち味を変えてしまう事は好きでない。人間にしたってそうではない。その人間の持ち味というものがたまらない妙味があるもので、性格が変わるほど装飾してしてしまっては何の面白みもない人間になってしまうのよ」と。

 何度も言うようだがその頃の俺は浮遊求める所を知らぬニガオエ旅だ。まして情報過多で旅の葉脈を失って現実という幹からバラバラ剥奪、遊離していく無力感に毎日呆然とし、何か重大なものを失っているのではないか、と憔悴していた頃でもあった。故に現実に即した言葉ほど胸中深く銘刻を残すのだ。それほどこの言は一滴蒸留液でもあった。

 それに晃氏は戦時中、東京防衛隊の一等兵だったのだが、それは名のみで後楽園球場のイモ畑に毎日肥え桶を担ぐ畑仕事ばかりで、それが実に楽しく、また色々教えられたと述壊されるのである。

 自然との照応のうちに人事を眺める。人事を自然の中において眺める。このように晃氏は野菜を作るのは食べるだけが目的でなく、野菜の成長に語りかけ、彼自身何かを掴んだり、ときには心の傷を癒しておられるのである。

 ギリシャ神話にこんな話がある。ある英雄が闘って全身傷だらけになってバタッと倒れる。が大地の土に手をついた瞬間、一切の力を取り戻して、また立ち上がるのだ。

 「よし!、野菜畑にしょう・・・」この広い空地を見て俺も手を付く大地が痛烈に必要と感じ始めたからである。シャキシャキしたゴボウ、涙が出るタマネギ、ツンと鼻に抜けるようなダイコンを作ろうと。味の世界もまた他の芸術と同じように個人の創造力によって開発されるべきではないか。と日蓮ヒゲは勝手に思い始めるのだから良い気なもんだ。

2007/02/05(月) 40年前の美観地区日記より。 三十九回
L 異色俳優・大泉晃氏からの教示

 仏教に因縁や宿縁という言葉がある。すれば「酒縁」という言葉があっても可笑しくないだろう。というのは俺がいままで住んだ大阪や東京のアパートの管理人は全て酒屋であり、津山での隠居所は酒の醸造元であり、倉敷でお世話になろうとするのは酒屋を営む老刀自の持ち家であるからだ。
 いまは引越しを霊柩車でする身だが、酒は栄えであり、濁り酒もいずれ清酒になるのではないか、と思いつつ早速、番頭に案内された所は美観地区より十分程の近さであり、何より俺を嬉しがらせたのは空地が広い事であった。

 それは何時頃か失念したが異色俳優・大泉晃氏を作家・玉川しんめい氏が紹介してくれた時のことを思いだしたからである。

 「ホオー、祭りから祭りにニガオエを描いてネ、この暑いのに・・・・真夏はボク、野菜畑にある穴の中でジッとしているの。仏教でいう雨安居ね。ゆえに近所の人はボクのことを野菜人とよぶノ。土があれば野菜ができる。野菜ができれば生きられる。それがボクの人生哲学の根本デス」とおっしゃった事だ。

 愚察するに彼の父君・大泉黒石はロシア人との混血児で、少年時代には文豪レオ・トルストイに抱っこされたりしてロシア、フランス、中国を放浪、自称「国際的居候」と居直るのだ。

 その頃の日本は戦争というウルトラ・ナショナリズム真只中であり、それに杭してニヒリズム、アナキイズム、ダダイズム等イズムの百花争鳴で黒石も大杉栄や辻潤らとともに雁行して行くのである。

 この岡山においても常に赤いボヘミアン・ネクタイをヒラツかせ、繁華街を人もなげに闊歩し、また後に日本美容界の草分け的存在になる美少女アグリと結婚。田舎町岡山をアングリとさせるのだが、その男が吉行エイスケであり、ダダイズムの第一期生であったから黒石とも親交があったものと推測される。ちなみにその息子が吉行淳之介だが閉話休題だ。
 そんな時代閉塞の中で黒石は「デラシネの痛み」を根幹として戯作風刺文学「俺の自叙伝」に昇華し、ときの大編集長・滝田愕陰が主宰する「中央公論」を舞台に彗星のように躍りでるのだ。

 「人生見物」「人間廃業」「老子」等次々発表し、いずれも爆発的人気で版を重ねるが、文壇とか画壇の陰湿さは昔も今も変わりがない。
 黒石自身、文壇などはバクダン、ブツダンで示すように禄な奴はおらないと指摘するものだから、村松梢風や久米正夫みたいなケチな頭蓋骨共が黒石を一種の人格破産者として文壇より追放してしまうのである・・・・・・・

2007/02/04(日) 40年前の美観地区日記より。 三十八回
 自戒を込めていうと田舎で生活していくには三っつの演出が必要だという事だ。

 一つは、自己顕示欲の否定。二つは不器用演技。三つは弱者演技であって上記の三人にも又、俺にもなかったという訳である。

 結果的には彼等三人は闘うに価する相手というより、己の肥大化したルサンチマンを対象に命を徒労したといっても過言ではない。
 ローソクの周りを跳びまわる蛾は結局、火に魅かれて己を焼き滅ぼしてしまうように、自己幻想に取り付かれのだ。

 俺も隠居所で死人の肖像画を相手に伸吟していると、ときには全ての人間が敵と感ずるような脅迫観念に陥ることもある。人々に向かって思わず大声で呪いの言葉を吐いたり、あるいは何か異状な事でも仕出かしたくなるのだ。

 考えてみると誰しもがこの「魔の一瞬」がまったく訪れないとは言い切れなく、犯罪人と我々とは無縁の衆生ではあり得ない。ときには「罪と罰」のラスコリニコフに、「異邦人」のムルソーになり得るのだ。

 人は何故犯罪をおかすのか?等、俺には、だいそれて答えられないが「裸のサル」から進化?した人間が背負っていかねばならぬ永遠の命題だけは確かなようである。

 草に霜、月に群雲、花に嵐、人に罪、これらは皆ものの哀れのバリエーションだ。
 ようするにヤヌスの双面の一方が善人面なら、こちらを振り向くもう一つの顔は悪人面であることを見据えなければならないのだ。ゴキブリを愛しながらフマキラーをも尊敬するトータルな人間になるしかないのだろう。
 それだけ生きるということは疲れるということである。

 アア・ァと感嘆詞をあげてる暇もないという事で読者諸氏よ回れ右したまえ。俺も周り右する・・・・


(下の絵は婆さんの横顔にも見えるように・・・・)

2007/02/03(土) 40年前の美観地区日記より。 三十八回
 高瀬舟の立石孫一郎だが、播州三日月の大庄屋の倅である。「我に七難八苦を与えたまえ」と感泣した山中鹿之助もここの生まれで両人とも偏狭で一本気な正義感を宿していたと見える。
村役人と衝突、母方の作州の富豪・立石家に身を寄せ、縁あって倉敷の大橋家に養子に来るのだが両家とも勤皇家であり、何しろ「三国志演義」で歯がみして血を滴らすような男だからジッとしておらぬ。
 大阪で新撰組の近藤勇らが酒宴を開いていると耳にすると、同士数人と語らって切り込むのだ。
 こんどは下津井屋が代官と結託して米を買い占めているのを知ると、やはり同士とともに襲い、清音橋「考古館横」下に下津井屋親子の首が川水に洗われるのである。
 結局、長州の高杉晋作率いる奇兵隊に入隊するのだが、色白で大男、弁舌もたち、その上、立石家の祖先が毛利輝元に仕え武功が会ったせいもあろう。瞬時に分隊長に抜擢、その不平分子百数十数名で倉敷代官所に焼き討ちを駆けるのだ。この事は「愚人、事を誤る」と桂小五郎を噴激させ、暴徒として暗殺される。

 哀れついでに書くと昭和13年の「加茂の三十人殺しの都井睦夫であろう。
 この事件は日本中を震撼させ、俺も小さい時、婆さんより「悪いことをすると岡山の山へ連れていくぞ」とよく驚かされたものである。彼自身、村の秀才で若冠二十歳そこそこで「雄図海王丸」という作品を書き上げているのには違う一面を見る思いであった。
 またこの事件の二年前、内大臣、蔵相、陸軍総監らを射殺。東京・永田町一帯を占拠。俗にいう2・26事件の青年将校・野中大尉が岡山出身であった為、県民にあたえたショックも大きかったであろうと想像する。

 しかし、俺は何故こんな事を書くかというと己自体も又、彼等と同じくピューリタンのロバのごとく扱われ、石持て追われる身の上だったからである。

2007/02/02(金) 40年前の美観地区日記より。 三十七回
K 高瀬舟、夜汽車、俺は霊柩車で・・

 中国のチンプンカン、インドのオッペラボウ、オランダのスッペラボン、朝鮮のムチャリクチャリのごとく、俺のサブタイトルも滅茶苦茶だ。
 しかし、別に夏炉冬扇でもない。
 
 先ず高瀬舟とは倉敷代官所焼き討ちの首謀者・立石孫一郎が津山から倉敷へ出る手段として利用する。夜汽車は津山生まれの洋画家・赤松燐作が東京美術学校へ入学する折り、といいたい所だが残念ながら津山線は昭和19年中国鉄道を買収、発足した訳で無理があるようだ。ただ彼の代表作が「夜汽車」故、まんざらこじ付けでもなかろう。で俺の場合だ。

 その頃死人の肖像画を描くのは止めていたから金がない。赤城の山に籠もった忠治ではないが、山にいればいるほどジリ貧になる。目的が浮かばないからといって石地像でもあるまいし、ジッとしている訳にはいかぬ。

 そんな時、倉敷美観地区の老刀自が「空家かあるからいらっしゃい」と言って下さったのだ。
 アル中の乞食エカキに見込みを付けて下さるのだ。と、同時にジャズ喫茶「邪美館」で働いていた青年が「廃車寸前の霊柩車なら空いている」と言ってくれたのである。

 彼は葬儀屋の息子だったわけだが、俺にすれば荷物は絵の道具と本しかないのだから正に三途の川の渡し舟だ。
 いわんや引越しを霊柩車でするのも乙なものではないか。という訳で判字ものみたいなサブタイトルにある程度納得して頂けたであろうか。

 しかし、これでは、読者に対して不親切というものであろう。故に続ける・・・・

2007/02/01(木) 40年前の美観地区日記より。 三十六回
 彼にすればヒッピーや大道絵師のようなネガの部分で生きている者も、時代を煮え詰まらせていく薪の一部にならねばならないのだろう。

 腐敗政治、堕落形態としての宗教体質というモノの呪縛から、まず我々内部自ら解脱せぬばならぬ。それ共に人間、あるいは自然への加害者と化した現代文明の告発を縄文人的立場から行い、近代合理主義の名のもとに封じ込まれてしまった人間の内奥に潜む情念の解放を大衆レベルで展開せぬばならぬ、と内奥に強く秘めているのであろうか。

 彼等ヒッピー運動としての展開を切り開けるか、否かはこの点にかかっていると云いたいのだろう。 

 わかった。日蓮ヒゲ、しかと見届けおく。

 千鳥足の世迷いごとはこれぐらいにするがこのアーチにしろ、ヒッピームービメントの虜になった一人であり、倉敷川沿いでアクセサリーをやっているロク、ヒロ、ハニー、ガラス諸君もヒッピーのニューエイジであった。

 彼等は後年、長野八ケ岳での「いのちの祭り」倉敷キリスト会館での反原発祭り、鳥取大山での風の祭り、阪神大震災でのボランティアのスタッフの一人になるのだが、その時ばかりは垂下したヒゲも跳ね上がり、寂しげな眼も生き生き輝くのだから不思議なものを見る思いだった。

 そこで「国際ヒッピー協会倉敷支部長」という大げさな名を冠したしだいである。

 天領柳に埋もれ、疎水ひあがり熱い日の事であった。


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