美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2007年2月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28      
最新の絵日記ダイジェスト
2010/05/12 大阪で昆布屋
2010/04/15 000000000
2010/03/08 次回は油絵を・・・・・
2010/03/04 浅田真央ちゃん
2010/03/02 遅くな諒としてください

直接移動: 20105 4 3 2 1 月  200912 11 8 1 月  200810 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 月 

2007/02/09(金) 40年前の美観地区日記より。 四十三回
 バスク老がやって来た。

 記憶の良い読者なら第三回で登場するベレーにワシ鼻の親父だが、鞄からウイスキーを取り出し「チート、やらんとオエン」と俺の顔見て「山下清ジャー」とおっしゃるのだ。
 なるほど「ボ、ボクはルンペンするのがクセで、これはク、クセだから、治らない」という所はそっくりなのかも知れないが、その山下清も昭和三十一年、精神科医でゴッホ研究者の式場隆三郎氏に伴われ大原美術館に来ているである。

 例のランニングに団扇を使いながら独特の口調で「これは二等兵、これは中佐」と、名画に軍隊の位づけで品定めしていき、シニャックの点描画の前で「これが大将だ・・」と言ったので、報道関係者がグワッと笑ったらしい。関係者にすれば一番値の高いグレコを指摘してほしかったのであろう。

 その頃、バスク老によると美術館前を定期バスが走っていて、入館者は絵の愛好者程度で閑散としていたと言う。
 「ワシの少年頃はもっとジャー」その言に火を注いだのか老人特有の回想談が日も月をも舐める勢いで始まるのだ・・・

 バスク老曰く少年時、つまり昭和初期には倉敷川を汐入川と呼び、満潮時にはクラゲが泳いでいたそうである。路上では屋台の上から水蒸気を「ピイーン」と鳴らすキセル掃除の「らお屋」下駄の歯を修理する「なおし屋」漬け樽を大八車に積み「シンコー、シンコー」と連呼する「漬け物屋」餅菓子を売る「カリカリ屋」という物売りの人達。それに虚無僧や手品師、淡路人形や猿回しの門付けや大道芸人が徘徊していたそうだ。

 また向市場にあった倉敷劇場に芝居がかかった時などは、厚化粧で扮装した役者が人力車に乗り 、その前を「町廻りジャー」と叫びながらチンドン屋が先導する。

 「チンチンドンドン、チンドンドン、もうひとつおまけでチンドンドン。スッテンコロンデ、ドッコイショ・・」そういう囃子をはやしたてながら何処までも付いて行ったとバスク老は目を細めるのだ。

 ところでその倉敷劇場は田舎には稀に見る本格的な劇場で、初代中村雁治郎が来演したり、藤原義江の独唱会の公演があったり、倉敷はその頃より文化的な土壌があったものと見える。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.