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2007/02/03(土)
40年前の美観地区日記より。 三十八回
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高瀬舟の立石孫一郎だが、播州三日月の大庄屋の倅である。「我に七難八苦を与えたまえ」と感泣した山中鹿之助もここの生まれで両人とも偏狭で一本気な正義感を宿していたと見える。 村役人と衝突、母方の作州の富豪・立石家に身を寄せ、縁あって倉敷の大橋家に養子に来るのだが両家とも勤皇家であり、何しろ「三国志演義」で歯がみして血を滴らすような男だからジッとしておらぬ。 大阪で新撰組の近藤勇らが酒宴を開いていると耳にすると、同士数人と語らって切り込むのだ。 こんどは下津井屋が代官と結託して米を買い占めているのを知ると、やはり同士とともに襲い、清音橋「考古館横」下に下津井屋親子の首が川水に洗われるのである。 結局、長州の高杉晋作率いる奇兵隊に入隊するのだが、色白で大男、弁舌もたち、その上、立石家の祖先が毛利輝元に仕え武功が会ったせいもあろう。瞬時に分隊長に抜擢、その不平分子百数十数名で倉敷代官所に焼き討ちを駆けるのだ。この事は「愚人、事を誤る」と桂小五郎を噴激させ、暴徒として暗殺される。 哀れついでに書くと昭和13年の「加茂の三十人殺しの都井睦夫であろう。 この事件は日本中を震撼させ、俺も小さい時、婆さんより「悪いことをすると岡山の山へ連れていくぞ」とよく驚かされたものである。彼自身、村の秀才で若冠二十歳そこそこで「雄図海王丸」という作品を書き上げているのには違う一面を見る思いであった。 またこの事件の二年前、内大臣、蔵相、陸軍総監らを射殺。東京・永田町一帯を占拠。俗にいう2・26事件の青年将校・野中大尉が岡山出身であった為、県民にあたえたショックも大きかったであろうと想像する。
しかし、俺は何故こんな事を書くかというと己自体も又、彼等と同じくピューリタンのロバのごとく扱われ、石持て追われる身の上だったからである。
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