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2007/02/27(火)
40年前の美観地区日記より。 五十八回
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32 平成の縄文人ポンA
日本のヒッピーの聖地・諏訪瀬島はヤマハが金持ち専用の高級レジャーランド建設中で、建設省の許可も下りてないのにダイナマイトで多くのサンゴ礁を爆破するのを見かねてヒッピー達が立ち上がったのだ。 音楽がメジャーであるヤマハに対して、ヤマハボイコット運動をフリー・コンサート。つまり目には目の形で各地で展開するのである。 アメリカでもナナオ・サカキ。ゲリー・スナイダー。アレン・ギンズバーク等が中心になってヤマハボイコット運動が行われる。
しかし、何時の世も権力と金力の前には、負け犬の遠吠えみたいなもので、村の区長になったナンダとナーガ以外は野に散るしかなかったのだが天は許さなかった。 巨大な自然破壊の上にヤマハが建設したレジャーランドは、オープン後僅か二年足らずで閉鎖し、空港の滑走路にはペンペン草が生え、宿舎は潮風でボロボロになり、植物園は再び竹藪に占領されたという訳だ。天下り企業に天誅が加えられたのである。
この主人公・山田魁也氏は新たなヒッピー運動の展望を切り拓くため、諏訪瀬島の延長線上にある「南西諸島」の現状を彼の目で確かめる為のキャラバンを組織する。鹿児島から奄美大島の名瀬に渡った時、町には「技手久島石油基地反対」のポスターやステッカーがいたるところ張られていた。そこで反対運動の若手リーダー新元博文氏や橋口富秀氏に勧められ,久志に住み着くことになる。それは時、七五年八月のことでその家を無我利道場と名付けるのだが、無我利とは奄美の島言葉で、屁理屈、イチャモンの事だそうだ。何と適宜を得た言葉ではないか。
その無我利道場には「来る者は拒まず、去る者は追わず」の気風のごとくヨソ者ヒッピーが大勢住みついたのだ。ところが若者の少ない「反公害宇検村村民会議」の老人達から大歓迎を受けるのは、それは枝久手闘争が若者不足で漁場権放棄の事態にまで追い込まれる可能性があり、ヒッピー達は利用されたというか直ぐ「アブリ漁」出るのである。
反対派の老人やポンの考えでは枝久手闘争の最大の争点は、石油基地の埋め立てを阻止する為に、漁場権を確保する事であり「漁民が強い地区は闘争に勝てる」と言われている様に、奄美の戦いも海を守る闘いだったのである。
またフーテンやヒッピー達もここに住み着いたのは、新宿のフーテン狩りからの脱出にもよるが、サラリーマンがヒッピーに対する興味を失い、自分達だけの関係性に閉じこもり、精神まで管理されてしまったからでもある。 それに金なしのヒッピー達の旅を可能ならしめ、その運動を蔭で支えていてくれていた長距離の運ちゃん達がマイカーの増加によってヒステリックになり、ヒッチハイカーを乗せる心のゆとりが無くなり、故に文無しでは旅も出来なくなり、腰掛け程度に無我利に住んでいたが、所詮思想のない者は長続きしなかった。 ではここに長く住み着いた者はどんな人達で、どんな思いを秘めていたのだろうか・・・
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