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2007/02/25(日)
40年前の美観地区日記より。 五十六回
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俺はそれらの行為を見ているうちに、段々と背骨の隋までゆり動かされる様な衝動を感じてきた。
孔子は「バクチでも良いから手足を使え」といったが確かに現代人は頭ばかりで生きる事を強いられ、それだけに執して暮らしているが、これではうつ病になるか、発狂するか、自殺するか、また例えそうでなくとも、それに近い状態で暮らすしかないのであろう。 そんな小賢しい知識人という奴ほどバカげて見え、乞食やそれに近いヒッピーの奴らに会うと羨ましく思うのは俺一人だけであろうか。
イヤ、もう孔子等はどうでも良い。いずれ人間は歴史上の聖人やキリストなんかよりゴリラに学ばにゃならん時がくる。「人間として」より『エテ公として」だ。
俺は上着を脱ぎ捨て彼等の仲間入りして踊りまくった。それはあらゆる呪縛から自己を解放する為の意識であったかも知れないが、フト、きずくと見物客も全員踊りの輪の中にあったのである。
これは意識するしないに係わらず地球的な危機に目覚めた人々にとって、既製のイデオロギーや宗教は信じるに足りず、民族主義や国家主義はとっくに破産している事を感じ初めているのであろう。 それらは余りにも人間中心主義だったが為に、自ら招いた危機に対処するだけの知恵も能力もない。
それに対してヒッビー達の意識の進化を目指して生きてきたカウンター・カルチャの流れにこそ、サバイバルの可能性を読んでいるのかも知れない。
さてこの仕掛け人・山田魁也氏の故郷は飛騨高山で高校中退後、京都で友禅染めの画工を五年続けていたが、ある日、京都河原町で大きな衝撃を受けるのだ。 それは睦ちゃんという両腕のない絵描きが口に鉛筆を加え似顔絵を描いていたのを目撃したからだが、それは山田氏自身「せむし」という障害の劣等感を秘めていたからである。
しかし、この時より彼は自分の肉体的なマイナスを、精神的なブラスに逆転出来るはずだという信念と、自分は特別に選ばれた天才なのだという自負心と、使命感が湧き上がるのだ。
丁度哲人キルケゴールが「せむし」であった様に・・・
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