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2007/02/23(金)
40年前の美観地区日記より。 五十四回
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トルストイ翁は「こんなに人間、個人主義になると、しまいには隣人とお互いに胸グラをつかんでお前が俺を殺すか、俺がお前を殺すかという状態になるであろう」と十九世紀の仕来りに行き詰まりを感じ嘆いておる。 ここのところである。 キリストが娼婦に跪くのも、オシャカ様が王妃を寝取られ苦悶のあげく、旅にでるのも一穴主義に絶望したからではないのだろうか。 文豪・谷崎潤一郎なんか、平気で妻の千代を、やはり文豪・佐藤春夫にやっちまっておるのは一対一の愛の形が排他的であることに気ずいたからであろう。 現代それへの高まりとして、フリー・セックスを含めいろんなコミューンが駘蕩しつつあるのも見逃せない兆候で、いずれ「お出会い電話」など流行するではないか。 そういう意味では高瀬家も一種のコミューンで、その結合を高めるためには、性的な満足が繰り返し達成される事は詭弁でも、現代文明のデカダンスの産物でもなく、我々の深く根ざした生物に基礎を持つ、進化的なプロセスであるだろう、と推測する。
況や、「生物の次元でモノを考える」。
これは別に人間の崇高さや高貴さを卑しめるものではなく、むしろ今となっては逆に人間の状況を破壊から救い出す唯一の拠点といえるかも知れない。 そんな眼で高瀬氏を見直せば、束縛された生活から作られた顔ではなく、実に動物くさい顔なのである。 妻六人、子供十八人を守る使命感にあふれ、むかし、戸主なら誰でも持っていた威厳さえ感じられるのだ。
それに反し、最近ニガオエを描いていて感ずるのは、何処の町の景観も同じようになったごとく、人間もよく見えないことである。極論すれば何もないゾンビーのオン・パレードなのだ。顔も目鼻立ちもハッキリし、彫りが深い顔立ちなのに威厳なく重みがなく薄っぺらなのだ。
こうなった原因の一つはマックス・ウェーバー風に言えば職業的論理の欠如、衰弱であるとともに、高度経済成長を境に管理社会が家庭だけではなく、学校まで侵蝕し、いわば異種の私によって乗っ取られた虚偽の公「おおやけ」に喰い荒らされ、吸収され、精神まで空洞化され、バラバラにされたからではなかろうか。 人相も思想も「自我と環境の衝突によって造られる」としたならば、デフォのロビンソン・クルソー物語が資本主義の成立期に書かれたことは偶然ではないだろう・・・・
「下の作品はage氏提供」
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