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2007/02/15(木)
40年前の美観地区日記より。 四十七回
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宮ちゃんの語るところによれば、それは今の社会組織が分業化するにつれ、人は精神、身体に異常きたしつつあり、それを「乞食エカキ」は救い、人に潜む情念の一種の代行行為をする事によって人を解放する。ゆえに「打ち込み行為や大道エカキ」は今の社会が必要とせずとも、異常をきたした人々が我々の存在を要求していると言うのである。 世の中とはそういう無名の人も必要であり、それを似非ブンカ人どもは見て見ぬふりをする。
だいたい文化や芸術は根本的に失った人間性を呼びさまし、取り返してくれるモノでなければならない。 人間が進歩し、国が繁栄し、文化が向上すればするほど人間性を失っている。その人間を何処で人間性に呼び返し、立ち返らせてくれるのか? その堕落する奴、あるいは色んな人間性を失っていく奴に便乗していくモノであったら、それは文化、芸術の形をした最も悪い文化、芸術ではないのか、と悲憤慷慨だ。
なるほど前回で紹介した乞食の「京橋の吉」にしろ、息子が和尚に薫育された時「アンタの手元では、子供が人間になりません」と引き取るのもここの所であろう。 吉にすれば、和尚に預けた日から、やたらに知恵を付けられ、利口になるよう教育を授ける。負けてはならない、勝たなければ為らないと見栄や優越感を叩き込む。人を押しのけろ。騙せ。人を信じるなと諭させる。肩書きをつけろ。財産を持て。偉くなれと吹き込まれる。
こんな事は宮ちゃんや吉にすれば余計な節介なのだ。 そんなモノはミンクのコートやブランドもの、あるいは外車などで自己満足のバロメータにする奴に任しておけばよい。何等超人格的な価値はないのだ。 いずれにしろ、体制べったり人物にはどんな御用学者や芸術家であろうと、真の世の価値判断、観察は出来ないのだ。利害なき観察にもとずき、気の利いた言葉を吐くのはアウトサイダーかボヘミアンの類だと宮ちゃんは言いたいのだろう。郷諺は徳の賊なりとも言いたいようでもある。
それに宮ちゃんは「美観地区」。 この言葉はどうも腹にダブつき気味でただの「白壁通り」で良いのではないかと言う。 それは「美観地区」とはなんとなく不美人や身体障害者が歩くのに抵抗を感ずるという用語であり、「徳、狐ならず。必ず隣有り」と言った大原孫三郎氏の意に反するからである。
禅にこんな話がある。ある和尚が坊主に「庭を掃除しろ」と云い付けた。ところが幾ら掃除しても心良い返事がなく困っていると、和尚は掃き集めた落ち葉を掴み、数辺投げ捨て「これが掃除というものじゃ」と。
まさにこの落ち葉が差別されたものであり、不人であり、芸術とはこの不から生まれるのだ。不の排除された社会は不毛であり、健康で品行方正で正義ただしいのは無情で非情だからである。
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