美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/02/28(水) 40年前の美観地区日記より。 五十九回
 山田ナオミさんの場合は、岡山・西大寺の出身で、東京において結婚に失敗。娘の万葉を抱かえて途方にくれていた所、ポンが現れ「俺と結婚して奄美でコミューンを作ろう」と誘われる。彼女はその頃、丁度、アイヌの生き方や、エコロジカル方面、それと南の島への憧れという気持ち多大でポンとの波長があったのだ。

 坂本式子さんの場合は東京・道玄坂の生まれで、大きくなるにつれ電力会社の重役を勤める父親に批判的になるのは、それは父親が貴重な電力を供給して社会に貢献しているというより、核燃料をたれ流してはばからない悪徳企業に勤めていると思えてきたからだ。そこで和光大学を退学、奄美の住民運動を通して無我利道場の事を知り訪ねるのだが、そこでは人や物を壊していかない有機農業栽培をやっている共同体の魅力に取り付かれるだ。
 彼女は語る
 「大きな会社は天下り官僚などがいて、査定もいい加減で厳しいのは中小企業で、これから大企業の問題が噴出するんじゃないかしら・・・」と。

 この式子さんとカップルの北村真之さんは大坂生まれで、若い頃東京でロックコンサート等やっていたが、どうも大地に足が付いていない様な違和感を感じ旅に出る。彼が無我利にやって来たのは道場が誕生して二年目の七十六年。その当時、枝手久闘争のまっただ中で、漁場権を盾に開発計画を阻止するという戦略に無我利の男達も加わっており、北村さんも加わったのだ。しかし、彼は言う「闘争とか政治的な意味より、奄美の自然に魅せられたのよ。最初の頃は漁の間でも海に見とれていたし、アブリ漁自体も面白かったよ」

 彼にとって無我利とは自然の中で生きる糧を得る厳しさ、緊張感、喜び、そして漁師としての 職業意識への目覚め、そんなかけがえのないものと出会う場であったのである。

2007/02/27(火) 40年前の美観地区日記より。 五十八回
32 平成の縄文人ポンA

 日本のヒッピーの聖地・諏訪瀬島はヤマハが金持ち専用の高級レジャーランド建設中で、建設省の許可も下りてないのにダイナマイトで多くのサンゴ礁を爆破するのを見かねてヒッピー達が立ち上がったのだ。
 音楽がメジャーであるヤマハに対して、ヤマハボイコット運動をフリー・コンサート。つまり目には目の形で各地で展開するのである。
 アメリカでもナナオ・サカキ。ゲリー・スナイダー。アレン・ギンズバーク等が中心になってヤマハボイコット運動が行われる。

 しかし、何時の世も権力と金力の前には、負け犬の遠吠えみたいなもので、村の区長になったナンダとナーガ以外は野に散るしかなかったのだが天は許さなかった。

 巨大な自然破壊の上にヤマハが建設したレジャーランドは、オープン後僅か二年足らずで閉鎖し、空港の滑走路にはペンペン草が生え、宿舎は潮風でボロボロになり、植物園は再び竹藪に占領されたという訳だ。天下り企業に天誅が加えられたのである。

 この主人公・山田魁也氏は新たなヒッピー運動の展望を切り拓くため、諏訪瀬島の延長線上にある「南西諸島」の現状を彼の目で確かめる為のキャラバンを組織する。鹿児島から奄美大島の名瀬に渡った時、町には「技手久島石油基地反対」のポスターやステッカーがいたるところ張られていた。そこで反対運動の若手リーダー新元博文氏や橋口富秀氏に勧められ,久志に住み着くことになる。それは時、七五年八月のことでその家を無我利道場と名付けるのだが、無我利とは奄美の島言葉で、屁理屈、イチャモンの事だそうだ。何と適宜を得た言葉ではないか。

その無我利道場には「来る者は拒まず、去る者は追わず」の気風のごとくヨソ者ヒッピーが大勢住みついたのだ。ところが若者の少ない「反公害宇検村村民会議」の老人達から大歓迎を受けるのは、それは枝久手闘争が若者不足で漁場権放棄の事態にまで追い込まれる可能性があり、ヒッピー達は利用されたというか直ぐ「アブリ漁」出るのである。

 反対派の老人やポンの考えでは枝久手闘争の最大の争点は、石油基地の埋め立てを阻止する為に、漁場権を確保する事であり「漁民が強い地区は闘争に勝てる」と言われている様に、奄美の戦いも海を守る闘いだったのである。

またフーテンやヒッピー達もここに住み着いたのは、新宿のフーテン狩りからの脱出にもよるが、サラリーマンがヒッピーに対する興味を失い、自分達だけの関係性に閉じこもり、精神まで管理されてしまったからでもある。
 それに金なしのヒッピー達の旅を可能ならしめ、その運動を蔭で支えていてくれていた長距離の運ちゃん達がマイカーの増加によってヒステリックになり、ヒッチハイカーを乗せる心のゆとりが無くなり、故に文無しでは旅も出来なくなり、腰掛け程度に無我利に住んでいたが、所詮思想のない者は長続きしなかった。

 ではここに長く住み着いた者はどんな人達で、どんな思いを秘めていたのだろうか・・・

2007/02/26(月) 40年前の美観地区日記より。 五十七回
 そこで彼は友禅染めを即刻止め、昼は天王寺美術館に通って石膏デッサンをやり、夜は京都で似顔絵を描き始めるのである。

 もう一つの衝撃は似顔絵にも馴れ、日本一周旅行も終え、新宿歌舞伎町に立った時である。

 彼自身フリークスを認識し、アウトロウと自覚していたから酔っ払いやチンピラヤクザ等の人間にはビクともしなかったが、ただ一群の若者達だけが彼を苛立たというのだ。それは髪を伸ばし、ヒゲを生やし、ズタ袋を肩にした彼等は高度経済成長と繁栄を否定し、その拝金主義と物質文明に反抗し、自然との共存共生と、意識の進化を目指して生きていこうとする流れであり、混沌の一九六0年代に端を発する、我国のニューエイジの覚醒と行動の発端であったのだ。

 「ヒゲの殿下」とアダナされていたナンダ。「新宿のランボー」と言われたナーガ。東京芸大出のクボゾノ等に洗礼を受け、東京・国分寺に「エメラルド色のそよ風族」長野・富士見に「雷赤烏族」鹿児島・諏訪瀬島に「がじゅまるの夢族」のコミューンを建設していくのだ。


 止まれ! この事はまた重複するきらいがあるので、革命論を多く著作されている大田竜氏の言葉を借りる。

 「(奄美革命論)の中に詳しく書かれている様に、山田魁也氏は一九六0年代半ば頃から、日本における反文明的ヒッピーコミューン運動、部族運動、対抗文化運動の前衛の位置に居り、次にトカラ列島の諏訪瀬島にヒッピー道場を作り、またインドを放浪してインドに惚れ込み、さらにこの島の観光化を企図したヤマハ資本運動ボイコット運動をえて、一九七五年に奄美の宇検村久志部落に無我利道場を作り、反対派宇検村民と共に東燃 技手久島石油基地化反対運動を推進してきた。
 彼自身の言葉を借りれば、彼の軌跡はアメリカ起源の白人対抗文化、脱文明のヒッピーとして出発し、インド思想を経由して「奄美ナロードニキ」に脱皮したという訳だ。

 ところが度かさなる右翼「松魂塾」の襲撃等によって解体、彼は故郷の飛騨高山にボロを飾るのだが、屈することなく縄文人の発想からの「ヒダマ道場」のコミューンを作るのである。

 思うに本来の共同体である村落共同体とか家族共同体というのは現在崩壊した。だけど人間は本来共同体的な存在であるという意味で共同体を作ろうと云う動きその物は、非常に人間的で本能的だと思う。しかし、今はその事も考えるのは止そう。


 踊るアホに見るアホゥ。同じアホなら踊らにゃソンソン・・・だからだ。


ポンのホームページ
http://www.amanakuni.net/pon/

2007/02/25(日) 40年前の美観地区日記より。 五十六回
 俺はそれらの行為を見ているうちに、段々と背骨の隋までゆり動かされる様な衝動を感じてきた。

 孔子は「バクチでも良いから手足を使え」といったが確かに現代人は頭ばかりで生きる事を強いられ、それだけに執して暮らしているが、これではうつ病になるか、発狂するか、自殺するか、また例えそうでなくとも、それに近い状態で暮らすしかないのであろう。
 そんな小賢しい知識人という奴ほどバカげて見え、乞食やそれに近いヒッピーの奴らに会うと羨ましく思うのは俺一人だけであろうか。

 イヤ、もう孔子等はどうでも良い。いずれ人間は歴史上の聖人やキリストなんかよりゴリラに学ばにゃならん時がくる。「人間として」より『エテ公として」だ。

 俺は上着を脱ぎ捨て彼等の仲間入りして踊りまくった。それはあらゆる呪縛から自己を解放する為の意識であったかも知れないが、フト、きずくと見物客も全員踊りの輪の中にあったのである。


 これは意識するしないに係わらず地球的な危機に目覚めた人々にとって、既製のイデオロギーや宗教は信じるに足りず、民族主義や国家主義はとっくに破産している事を感じ初めているのであろう。
 それらは余りにも人間中心主義だったが為に、自ら招いた危機に対処するだけの知恵も能力もない。

 それに対してヒッビー達の意識の進化を目指して生きてきたカウンター・カルチャの流れにこそ、サバイバルの可能性を読んでいるのかも知れない。


 さてこの仕掛け人・山田魁也氏の故郷は飛騨高山で高校中退後、京都で友禅染めの画工を五年続けていたが、ある日、京都河原町で大きな衝撃を受けるのだ。

 それは睦ちゃんという両腕のない絵描きが口に鉛筆を加え似顔絵を描いていたのを目撃したからだが、それは山田氏自身「せむし」という障害の劣等感を秘めていたからである。

 しかし、この時より彼は自分の肉体的なマイナスを、精神的なブラスに逆転出来るはずだという信念と、自分は特別に選ばれた天才なのだという自負心と、使命感が湧き上がるのだ。

 丁度哲人キルケゴールが「せむし」であった様に・・・


2007/02/24(土) 40年前の美観地区日記より。 五十五回
32 平成の縄文人ポン@

 たしか昭和六十三年二月の初め頃、岡山の須藤君から電話がかかってきた。
 実はこの男,ヤマギシ会の賛助会員で、その創設者・山岸巳代蔵の終焉地がこの岡山の興除村と教えてくれたのも彼であり、又、美観地区の川に飛びこんだ男、何時もフラフラしているから「時計」という東京のフーテンを俺が助けてやった所、この男とも友達で彼とは安保闘争の時、火炎ビンを投げあった仲だというのだ。
 それに社民連代表の江田五月氏会わせてくれたのも彼の家だったという風に実に面白い奴なのである。

 ・・・・で今回は明日、倉敷のキリスト教会館でローリング・ドラゴン・キャラバンがやって来るという。

 彼等は青森・下北半島での反核燃闘争を終え、高松で行われる「原発サラバ記念日」になだれ込む途中で、俺はその首謀者のポンこと山田塊也氏にどうしても会いたかったのだ。
 何故なら彼はニガオエ師の先輩であり、彼の全行動に興味を持っていたからである。

 翌日、早々ニガオエ商売を終えキリスト教会館に行って見ると、中にはロングヘアー、ヒゲ、ビーズ等々で着飾った若い男女で一杯だ。
 美観地区でアクセサリーをやっているロク、ヒロ、ハニー、ガラス諸君の顔も見える。
 受付では第十一回で紹介した「国際ヒッピー協会倉敷支部長」のアーチ君も実に楽しいそうにしているのには驚いた。


 舞台では南正人とリバーの演奏に、山田魁也の「お祭りポン太」が目をさまし、すり足でスネークダンスをして見せ、その両脇で彼の娘の宇摩ちゃんと唯摩ちゃんがロングヘアーに。ピアスにネックレス、腕輪、足輪もしっかり付けてフリーソングとフリーダンスの乱舞をお披露目してくれるのである。


 フリーとは自由、それは「勝って」ともいい、だからそいつは他人に教わるものではなく自分で編み出していくものだそうである。 
 ポンもそうだが二人の娘も陶酔境に浸っているようで、見ている者をどうしてもジェラシーに誘うのだ。

 ちなみに宇摩ちゃんとはシバァ神の妃パールバティの別名ウマより、唯摩ちゃんは「世界が病むから、わしも病む」と宣言した唯摩居士にちなんで名付けられたらしい・・・・・


写真は若き頃の江田五月氏と酔っている私です。

2007/02/23(金) 40年前の美観地区日記より。 五十四回
 トルストイ翁は「こんなに人間、個人主義になると、しまいには隣人とお互いに胸グラをつかんでお前が俺を殺すか、俺がお前を殺すかという状態になるであろう」と十九世紀の仕来りに行き詰まりを感じ嘆いておる。
 ここのところである。
 キリストが娼婦に跪くのも、オシャカ様が王妃を寝取られ苦悶のあげく、旅にでるのも一穴主義に絶望したからではないのだろうか。

 文豪・谷崎潤一郎なんか、平気で妻の千代を、やはり文豪・佐藤春夫にやっちまっておるのは一対一の愛の形が排他的であることに気ずいたからであろう。

 現代それへの高まりとして、フリー・セックスを含めいろんなコミューンが駘蕩しつつあるのも見逃せない兆候で、いずれ「お出会い電話」など流行するではないか。
 そういう意味では高瀬家も一種のコミューンで、その結合を高めるためには、性的な満足が繰り返し達成される事は詭弁でも、現代文明のデカダンスの産物でもなく、我々の深く根ざした生物に基礎を持つ、進化的なプロセスであるだろう、と推測する。

 況や、「生物の次元でモノを考える」。

 これは別に人間の崇高さや高貴さを卑しめるものではなく、むしろ今となっては逆に人間の状況を破壊から救い出す唯一の拠点といえるかも知れない。
 そんな眼で高瀬氏を見直せば、束縛された生活から作られた顔ではなく、実に動物くさい顔なのである。
 妻六人、子供十八人を守る使命感にあふれ、むかし、戸主なら誰でも持っていた威厳さえ感じられるのだ。

 それに反し、最近ニガオエを描いていて感ずるのは、何処の町の景観も同じようになったごとく、人間もよく見えないことである。極論すれば何もないゾンビーのオン・パレードなのだ。顔も目鼻立ちもハッキリし、彫りが深い顔立ちなのに威厳なく重みがなく薄っぺらなのだ。

 こうなった原因の一つはマックス・ウェーバー風に言えば職業的論理の欠如、衰弱であるとともに、高度経済成長を境に管理社会が家庭だけではなく、学校まで侵蝕し、いわば異種の私によって乗っ取られた虚偽の公「おおやけ」に喰い荒らされ、吸収され、精神まで空洞化され、バラバラにされたからではなかろうか。

  人相も思想も「自我と環境の衝突によって造られる」としたならば、デフォのロビンソン・クルソー物語が資本主義の成立期に書かれたことは偶然ではないだろう・・・・

     「下の作品はage氏提供」

2007/02/22(木) 40年前の美観地区日記より。 五十三回
 氏はおっしゃるのだ。

「一夫多妻生活の秘訣は世間体など気にせず、博愛主義を貫き、そして当番の女には物心両面、勿論セックスも大いに満足さしてやる事だそうである。
 それには常に健康に留意し、朝はアロエジュース、昼はレア・ステーキを何枚も喰い、なんとっても快眠八時間厳守とか・・・・それで
  
  ゆうべ三つして  今朝また二つ
            合わせて五つ
  紙は無くなる   眼はかすむ
    シノノメノ   ストライキ

・・・という具合にウンと突き出すサービス精神が必要らしい。涙ぐましい努力じゃないか。

 ただし、女が高瀬流のタブーを侵した場合、全体責任を取らせるというのだから、男女同権など叫んでいる女代議士に聞かせたい話であり、春秋の論法でいけば、彼女らこそ女の味方と称して実は女の敵ではないのか。
 何故ならば所詮、女は献身的、盲目的、没我こそ女の持つ徳であり、その点を高瀬氏は良く知悉し、具現されているのには、ただただ、俺の息子もこうべを下げるのみである。


ところで一夫一妻が制度化されたのは紀元一世紀のローマの婚姻法とされている。
 ひるがえって日本では稲作農耕か入ってきて定着、制度化さたのは確実であろう。
 以来綿々と続いてきたのは一夫一妻形式が虚妄に満ち不自由極まりないモノであっても、その時々の権力者が庶民を治めるのに都合がよかったからであろう。
 故に権力者だけが妾を持つことを権妻「ごんさい」として認めていたのであり、そこから外れた賤民は「せんずり」をかくしか仕方なかったのである。

 しかし、今はもう姦通罪など風化し、性の氾濫でもう一人の男と女が一つ屋根で性行為を繰り返すことなど古くさくて呪わしいものになりつつあるようだ。
 ましてや異性を得ると同時に一種の排他主義が生じ、また己のものを私有財産とする、非常に強い利己的な本能を重ねていくからである。

 トルストイ翁は「こんなに人間個人主義になると、しまいには隣人とあるいは親子と、お互いに胸グラをつかんでお前が俺を殺すか、俺がお前を殺すかという状態になるであろう」と十九世紀の仕来りに行き詰まりを感じ嘆いておられる・・・・・

2007/02/21(水) 40年前の美観地区日記より。 五十二回
それは今から十二・三年前、蝉が俺のタンカにおとらず威勢よく鳴いていた暑い日の事である。
ご婦人六人、お子さん十数人を描かせ、気前よくお金を払う御仁がおり、始めはは町内会の会長、あるいは中小企業の社長。イヤ、濃い眉毛に筋肉質の引き締まった身体よりヤーさん関係ではと疑心暗鬼していると、何と全てが自分の家族だ、とおっしゃるのだから驚いた眼が点になーる。
 その点でよくよく御仁を観察して見ると、彼は一夫多妻のチェンマイ族か、ソロモン王、はたまたある動物のハーレムを想起した。



 「千夜一夜物語」によるとバクダッドの宮廷には十二のハーレムがあり、そこに三百六十人の側室が住んで、王は一夜づつ回ったらしい。

 それに較べれば雲泥の差かも知れないが、この御仁も一週間のうち六夜を回るわけで体力的、経済的にも大変だろうと察する。
 まして彼は皇帝でも王様でもなく、いっかいの土建業者であって、いわんや日本では刑法で重婚罪に問われるはずである。
 その点、御仁は本妻を配偶者にし、ほかの五人は同居人の形をとって、子供だけは高瀬姓の私生児として認知していると言う。
 つまり雑居家族の形態を取っておられるのだ。





「注意」
一夫多妻
★.一人の男が大勢の女を妻として、自分の邸内に住まわせる。

『金瓶梅』  大金持ちの薬屋・西門慶は、正妻から第六夫人までを邸内に住まわせ、さらに女中や人妻にも手をつけていた。妻妾たちは相互に同盟関係を結んだり、対立したりする。西門慶が第六夫人李瓶児との間にもうけた息子は、第五夫人潘金蓮の飼い猫にひっかかれ、それがもとで死ぬ。李瓶児は怒りと悲しみで、まもなく病没する。西門慶も、潘金蓮に媚薬を多量に飲まされたため、おびただしい精液を排出し、三十三歳で死ぬ。

『源氏物語』「少女」〜「初音」  光源氏は三十五歳の八月に、故六条御息所の旧邸および隣接する敷地、あわせて四町を占める広大な六条院を完成させ、紫の上・明石の君・花散里とともに住んだ(*六条御息所の娘・梅壺中宮も、六条院内に住んだ)。翌年正月元日の夜は、光源氏は明石の君のもとで過ごした。彼はまた、旧邸二条東院に、空蝉・末摘花を住まわせた。

2007/02/20(火) 40年前の美観地区日記より。 五十一回
P 妻6人、子供18人の一夫多妻論者より

 「渡り鳥が渡ることをやめて一所に定住し、その地で死ぬようになってしまった」と云う新聞記事を読んで愕然ときた。
 それは人間がエサを与えるのか、空気中の大気が暖房で暖かくなったのか、北に帰らず巣を作って産卵し、繁殖するようになったと云う。

 ちょうど今の俺も美観地区に定住し、観光客のおこぼれでなんとか生きているように、渡らない渡り鳥のように堕落したと思った。
 定住の幸福とは生き物の患う最後の病気なのだ。
 保護された生物は川の流れと同じく低い方に流れ、安楽椅子に寄り掛かりたくなるものである。
 美観地区に行く途中、常々思うのはその事で「旅にでも出るか?」ハンドルが自然倉敷駅の方に向かうのは仕方なかろう。

 しかし、汽車に乗るわけにはいかぬ。ここに腰を落ち着けたのは己の意思にもよるが、色んな人々の好意があったのだ。
 もし簡単に乗ってしまえば自他ともに裏切るだけでなく、平宗盛は讃岐の浜で笑うだろうし、二位尼御前は壇の浦で苦笑するだろう。

 俺はひたすらペダルを踏んで警察前をコソ泥のように横切り、中央病院前をアル中のごとく走り抜けると鶴形山のトンネルに突き当たる。
 このトンネルでは王将・大山益晴が将棋を指し、戦争中は特攻機「白菊」を作っていたそうで、それを想起するだけで日常より非日常になり変わり、川端康成はトンネルを抜けると雪国だったが、俺にとっては稼ぎの場なのである。
 そして何よりの救いは日本全国ばかりでなく、世界の人々に出会えることである。
 たとえば財田川事件の元死刑囚・谷口正義氏が仏像の絵を持ってきたのにはビックリした。
一枚の絵を鉛筆で一年かかって描いており、デッサンは狂っているが冤罪のルサンチマンが籠められているようなのだ。

 そんな一人が一夫多妻主義の高瀬実氏であったわけである・・・・・


2007/02/19(月) 40年前の美観地区日記より。 五十回
 さて我々の一宵の宴にも朝が来た。
ローマの詩人は性交を終えたる後は全ての生物は哀しいとも歌った。
 結局ナース嬢は不立文字で悟りを説く、熊法師より、世を茶化して生きるクラゲ法師のモノになるのだが「ノドが乾けば水を欲する。だからといって我々は水を愛しているわけではない。この事は性欲に当てはまる」と云うオルテガ説でナース嬢を愛した訳ではない。
 ところが、それからの彼嬢は度々やってきて掃除をし、花を活ける。食事も作ってくれる。ときにはナース服を持ってきて、廃人同様の細胞に躍動を与えてくれるのだ。

 五山の僧都が堕落したのはここの所である。
 良寛でさえ69才で29才の美しい尼僧・貞心尼になにもかも忘れて縋り付いておる。
 驚くのは一休禅師などは79才で森「しん」という盲目の女を妊娠させておる。
 万物全て陰陽あって一体となって動いていくのは真理である。
 生まれた物は死に、出会いがあれば別れなければならないのも真理である。

 真理は何も難しいことではない。己に素直になる事であると、悟った訳だがリスクとして誤解もある。

 ある日の事、昔の美術学校時代の女絵描きが遊びに来た。
 ところが我々留守の間にナースが来たとみえ、女絵描きの服や下着は八つ裂きで「倉敷の大久保清、死ね、死ね、死ね・・・」不連続線の上にナイフ添えられてあった。
 女の感情が動けば破壊と云ったのはフロイトだ。女が修羅にあった時、黒髪が逆立つそうである。

 俺は「ヒィーッ」と叫んで呆然自失した。
人が寂滅する刹那には大概こんな声を出して、後は静かになるのであろう。

2007/02/18(日) 40年前の美観地区日記より。 四十九回
 たしかに最近の俺は女に縁がない。旅していたときは女に秋波送られ、誘惑された事も多々ある。
彼女らは性欲強く持て余していたのかも知れず、欲情の激しい女は男なしでは居られないのだろう。
 そこで自分を満足させてくれる情事の対象を探すが、イザとなれば女には以外に難しい面がある。会社や知り合いでは一寸具合が悪い。
 街で拾ったイナせな男は最初はおとなしく紳士的でも、一皮むくとヤクザになる事もある。面白くって後くされのないのは放浪エカキと言うことになるのであろう、と思った。

 しかし、この岡山に腰を落ち着けたトタン、女の肌からほど遠くなるのだが、何でも俳優の殿山泰司の「日本女地図」では岡山女の貞操観念の堅いこと石のごとしと書かれている。その理由としてここは人口密度に較べて女学校が多く、そこへキリスト教などでキャンキャンで手のほどこし様がないのだそうである。
 胴長で色黒、陰毛は短く縮れており、体位は松葉くずししか喜ばぬ・・・・もう、ここまでくれば誹謗以外何物でもない。

 川西町の飲み屋の女傑などは「何、言ってるジャー、女は昔、太陽だったァ。その殿山と言う男が来たらホーデンを噛みきってやる・・・!」変な平塚雷鳥ばりのタンカを吐くのだ。

 俺に言わせると何処の女でも同じなのだ。

 女心を捕まえるには時間と関心を惜しみなく相手にそそぎ、なり振りかまわず、常識に縛られず、恥をわすれ、ひたすら一体性を求めれば良いのである。
 若さも地位も、金も必要ではない。
 この現代の孤独な社会では触れ合いに飢えている女が満ち溢れている。エネルギーさえ惜しまず、他のことに眼をつむる勇気さえあれば岡山女を手にすることができるのだ。

 雨は降るにふる・・・そこで俺はタクシーを呼び「アトリエで続きを描こう」と熊ちゃんもナース嬢も荷物もほおりこんだ。

 「今日は俺がおゴルバチョフ、君達とノミノケーション、君は何とノーメル賞」と言いながら・・・

2007/02/17(土) 40年前の美観地区日記より。 四十八回
 酒屋から帰ってくると熊ちゃんの前に赤い傘が一輪咲いておる。一ヶ月に一度は熊ちゃんに似顔絵を描かせる看護学生だ。
 相変わらず鼻穴から描き初めており、それは熊ちゃんにすれば絵の人物もまず呼吸させてやる論理だそうである。

 さきほどのスケッチブックを何気なく見るとダルマ絵の上に「所作を用いるに無心にして所作自ずから沸き立つ・・・云々」と書いてある。盤桂禅師の禅機だ。
 俺は酒のせいもあるが急に頭に血がのぼり、看護学生に向かって強い口調で言い放った・・・

 「君はどうして彼ばかり描かして、俺に描かせてくれないのか?」
 「酔っ払いは、一時の発狂です!」とピタゴラスで反撃できたもんだ。
 「何!発狂?俺の絵は頭から生まれる。身体なんぞは借家同然だ。だいたい酒というものは精神の飢餓が求めるものである。君が酒を飲まないのは精神か飢餓状態にないか、あるいは心の飢えに気ずかないのだ。WHO「世界保健機関」によると世界で毎日千人が自殺し、未遂を入れると一万人。日本でも毎日八十人が自殺、その三倍が未遂という現状でる。そこを救っているのが酒なのだ!」
 一気加勢に言葉を投げつけてやった。
 すると「アナタのは詭弁よ、しょせん、男のヒステリーで抑圧された性欲と反動だわ・・」と背負いなげだ。

 可愛いいナースの言葉ゆえ、俺は殴りつけられた様な気持ちがした。

2007/02/16(金) 40年前の美観地区日記より。 四十八回
「花時、風雨多し」と言う。

 まさにこの言葉通り、朝には晴れていたが、昼前より風吹き、雨打ちの天候になって来た。
 ここはK氏の好意で、その軒下を借りているのでさほど雨はかからないが、それにしても何処の馬の骨ともわからぬ乞食エカキに対して、親切を尽くして下さるのには、やはりその人自身の人徳であろう。
 いわんや今日は俺一人ではなく、広島の三原より熊ちゃんまで来ているのだ。

 俺は早速、そこの叔母さんを無料でニガオエを描いてあげた。これはちょっとした事であるが、その意義、効果は大きいのではないか。何故なら実人生は観念より行動だからだ。

 ところで熊ちゃんはここに来るのに汽車賃が二千円以上かかるので、少々の雨でも帰れない。セッセとダルマ禅師の肖像を模写しているのである。「無心、一切無心,以描為天」のごとくである。

 この熊ちゃんは禅門への行程については口をつぐんで語ろうとしないが、推測によると山田無文師との出会いからであるらしい。
 それまで彼は天理教や一燈園に出入りしていたが、山口県人特有の観念的で理想主義的情熱を癒してくれず、ひたすら只管打座に救いを求める事になるのだ。
 頭蓋骨の内部に巣食った苦悩の重さを確かめるかのように、彼らしく現実離れした奇妙な方法で・・・・己の意思で精神病院まで入院して面壁何年かを過ごすのである。

 世を軽薄に沈み浮いているクラゲ法師にすれば、鉄壁金山と悟りすまし安心立命に立つより、森羅万象に対し多情多根たれと言えないのだ。完全を現実に求めるのは最も危険な人生の愚拳だと言えないのだ。文化の行くてを教えるものは文明の怪霧のうちに潜んでいるデモンであると,言えないのだ。

 前の倉敷川ではミズモに雨が落ち、無数の輪が発生し消滅していく。人の生まれ死ぬ世の中を高速度で見たら所詮こんなものであろう。もうこうなればゾロゾロ前を通る観光客でさえ無意味に見え、それを眺めている俺も無意味であろう。しかし、このような宙の幻花はよろしくない。

 俺は急いで酒屋に駆けこんだ。

2007/02/15(木) 40年前の美観地区日記より。 四十七回
 宮ちゃんの語るところによれば、それは今の社会組織が分業化するにつれ、人は精神、身体に異常きたしつつあり、それを「乞食エカキ」は救い、人に潜む情念の一種の代行行為をする事によって人を解放する。ゆえに「打ち込み行為や大道エカキ」は今の社会が必要とせずとも、異常をきたした人々が我々の存在を要求していると言うのである。
 世の中とはそういう無名の人も必要であり、それを似非ブンカ人どもは見て見ぬふりをする。

 だいたい文化や芸術は根本的に失った人間性を呼びさまし、取り返してくれるモノでなければならない。
 人間が進歩し、国が繁栄し、文化が向上すればするほど人間性を失っている。その人間を何処で人間性に呼び返し、立ち返らせてくれるのか?
 その堕落する奴、あるいは色んな人間性を失っていく奴に便乗していくモノであったら、それは文化、芸術の形をした最も悪い文化、芸術ではないのか、と悲憤慷慨だ。

 なるほど前回で紹介した乞食の「京橋の吉」にしろ、息子が和尚に薫育された時「アンタの手元では、子供が人間になりません」と引き取るのもここの所であろう。
 吉にすれば、和尚に預けた日から、やたらに知恵を付けられ、利口になるよう教育を授ける。負けてはならない、勝たなければ為らないと見栄や優越感を叩き込む。人を押しのけろ。騙せ。人を信じるなと諭させる。肩書きをつけろ。財産を持て。偉くなれと吹き込まれる。

 こんな事は宮ちゃんや吉にすれば余計な節介なのだ。

そんなモノはミンクのコートやブランドもの、あるいは外車などで自己満足のバロメータにする奴に任しておけばよい。何等超人格的な価値はないのだ。
 いずれにしろ、体制べったり人物にはどんな御用学者や芸術家であろうと、真の世の価値判断、観察は出来ないのだ。利害なき観察にもとずき、気の利いた言葉を吐くのはアウトサイダーかボヘミアンの類だと宮ちゃんは言いたいのだろう。郷諺は徳の賊なりとも言いたいようでもある。

 それに宮ちゃんは「美観地区」。
 この言葉はどうも腹にダブつき気味でただの「白壁通り」で良いのではないかと言う。
 それは「美観地区」とはなんとなく不美人や身体障害者が歩くのに抵抗を感ずるという用語であり、「徳、狐ならず。必ず隣有り」と言った大原孫三郎氏の意に反するからである。

 禅にこんな話がある。ある和尚が坊主に「庭を掃除しろ」と云い付けた。ところが幾ら掃除しても心良い返事がなく困っていると、和尚は掃き集めた落ち葉を掴み、数辺投げ捨て「これが掃除というものじゃ」と。

 まさにこの落ち葉が差別されたものであり、不人であり、芸術とはこの不から生まれるのだ。不の排除された社会は不毛であり、健康で品行方正で正義ただしいのは無情で非情だからである。


2007/02/14(水) 40年前の美観地区日記より。 四十六回
 彼は東京・日野出身で新選組副長・土方歳三と同じ石田村である。
 現在尚、土方家の子孫は「石田散薬」という打ち身の薬を製造販売しており、とくに土用の丑の頃になると、河原に自生する朝顔に似た草を村中総動員で刈り取るのだそうだ。

 宮ちゃんはその草にトゲがあって、それが嫌さというより村人のトゲに耐えられなくなって東京の美術学校に脱出、金のないパターンで似顔絵を描き始めるのである。
 厭人癖に取り付かれた男が似顔絵を描くのも奇妙な話だが、彼は常に似顔絵描き連中と付き合おうとはしなかった。

 俺が彼を始めて知ったのは京都・祇園祭りの時で夜、皆で本能寺の縁側で寝るのだが、彼一人離れて寝ているのだ。

 「皆と一緒にどうして寝ないか?」俺が問うと「やまあらしシレンマ・・・」まさにミミズが腹痛をおこしたような哀れな声で呟くのである・・・・・

 「山嵐ジレンマ」とは哲人・ショウペンハウエルの寓話であって、山嵐にトゲがあるゆえ、寒い時、お互い身体を暖めようとすれば傷が付く。ではといって離れすぎると寒い、そこで傷つけず、離れすぎずという距離を人間の生き方に普遍したことだが、こういう人を喰ったような事ばかり話するので皆に疎まれるのかも知れない。

 しかし、彼にすれば己の内部や精神を、さらに言えば人間的嫌悪まで偽って、人と付き合ったりする行為が欠落しているのである。結果、人と争わず喰うとすれば打ち込みするしかないのだろう。

 それからの彼は誰にも束縛されず、束縛せず、ただ天意と腹加減にまかせ、白い雲のようにフワフワと漂う生活を続けているという事である。
 ときには悪酔いしたサラリーマンに唾を吐きかけられ「お前らは俺達が働いているから、生きられるのだ!」と絡んでくると「俺たちがいるから世の中が面白いのだ」と開き直る図太さを身につけて来る。

 それでは少々極論になるかも知れないが、宮ちゃんの意見を聞いてやろうじゃないか。


写真は宮ちゃんと同じ村の土方蔵三・・・

2007/02/13(火) 40年前の美観地区日記より。 四十五回
N ニガオエ浮浪雲・宮ちゃん

 「スケッチブックをこ脇に抱え、住家構えぬ渡り鳥。ノレンをくぐって笑顔を見せて、エーお客さん、一枚いかが?暗い酒場の片隅が、涙で汚れたオイラの花道。義理もある。人情もある。心に哀しみ尽きねども今夜も笑顔で描きます。ああ、似顔絵人生さすらいは、酌めどもつきぬ酒ににて、終わりを知らぬ旅まくら。ああ、今夜はヤケに冷え込むなァー」

 ニガオエ浮浪児こと宮ちゃんは、この歌のように北から南までニガオエの打ち込みをして露命を生きながらえているのである。
 打ち込みとは飲み屋などにスケッチブックを持ち「ニガオエ描きませんか?」とひもじい声で酔客やホステスを描く、まあ言えば夜の首狩りエカキだ。

 俺も昔、エカキくずれのキド・グンジという男に誘われ、新宿・歌舞伎町の飲み屋を首狩りした事あるが、キドは「ここでサ、池田満寿夫もニガオエを描いていたんだぜ」と言いつつ側の水道で頭を濡らすのだ。
 なんでもその方がママや酔客に哀れを催させ、結構描かせてくれるというのである。たしかにその日は運が良かったのか、打ち込みとはこんなものなのか、出鱈目な絵でもチップまでくれるのだ。
 しかし、嫌悪と泥酔とともに、二度と酔客や裏で赤んベェしている狐ママに、媚を売る幇間的演技はやろうと思わない。俺には描こう、描いてもらおう・・という云わば自由契約ができる大道の方が性分にあっているようだ。
 宮ちゃんこの打ち込みの方がいいのか、冥土までこの旅を続けるつもりなのであろう・・・・・


2007/02/10(土) 40年前の美観地区日記より。 四十四回
 また乞食にしろ実にユニークなのが居たと言うのだ。

 たとえば「コロンの中村さん」でコロンとは木切れの事、それを拾い集めて売り歩いたのだが、その風体は頭の頂きだけ髪を残し、チックを塗り付けたところは河童そっくりで、その河童、ときにはボロのフロックコートに山高帽姿で人生論や政治論をブッたと言う。
 「作蔵」もまたモジャモジャ髪で腰に大瓢箪、扇子を片手という異様な風袋だが、違うところは一連の数珠を光らせ、それに物を貰うと太陽に向かって「ユウーツ」叫ぶことだ。それは太陽の光で生かされている事への感謝感激の一つの儀式であり、貰った物も仲間に呉れてやる事において、人と共に生きる喜びを悟っていたようで、人々より「乞食の哲人」と冠せられるのである。
 「京橋の吉」と言うのは若いときから悪党で鳴らしていたが、悟るところあって悪とはサッパリ手を切って乞食に更正?する。 彼には子供がいて和尚が寺に子供を引き取り薫育にあたろうとするが、吉は「あんたの手元では、子供が人間になりません」と引き戻してしまうのだ。なんと留飲が下がる話ではないか。他にも「シンさん」や ミノ金」等バスク老は話続けるが、俺の息子がはち切れそうで即心成仏させてやらねばならぬ。あわてて便所に駆け込んだ・・・・

 その間にも観光客は相も変わらず賑やかな笑い声をあげ、来ては去っていく。バスク老の話す昭和初期から比べると確かに生活の匂いは失われ、観光だけの場所に変わってしまったかも知れない。
 しかし、冷やしアメや焼きイモ屋は健在であり、「作蔵」みたいな豪快な乞食には出喰わさないが、何時もニコニコ笑っている「マドンナ婆さん」や塵箱のコーヒ缶に吸殻が入っているのも知らずに飲んで、苦い顔している「ノメリ爺さん」等はいる。

 如何に時代が変わろうと国家の論理からはみ出し、沈黙の中にジッと一点を見つめ涙している瞳には幾らでも出会えるのである。ただ、こう言う人々を見て笑うのは勝手であろう。しかし、勝手で済まされぬのは、人間集団から離脱して世間の無常の向こうに自己を放つことが生の本源に帰する生き方とするならば、権力や金の力が人間の値打ちを決める根拠となっている社会も又、反人間的な生き方と言えるのではないか。
 いわんや人と人との間に通い合うようなモノを少しずつ侵蝕し、奪い去ろうとしている時代においてをだ。


 漫遊観光は退屈のために、流浪の生活は不条理のために・・・・


2007/02/09(金) 40年前の美観地区日記より。 四十三回
 バスク老がやって来た。

 記憶の良い読者なら第三回で登場するベレーにワシ鼻の親父だが、鞄からウイスキーを取り出し「チート、やらんとオエン」と俺の顔見て「山下清ジャー」とおっしゃるのだ。
 なるほど「ボ、ボクはルンペンするのがクセで、これはク、クセだから、治らない」という所はそっくりなのかも知れないが、その山下清も昭和三十一年、精神科医でゴッホ研究者の式場隆三郎氏に伴われ大原美術館に来ているである。

 例のランニングに団扇を使いながら独特の口調で「これは二等兵、これは中佐」と、名画に軍隊の位づけで品定めしていき、シニャックの点描画の前で「これが大将だ・・」と言ったので、報道関係者がグワッと笑ったらしい。関係者にすれば一番値の高いグレコを指摘してほしかったのであろう。

 その頃、バスク老によると美術館前を定期バスが走っていて、入館者は絵の愛好者程度で閑散としていたと言う。
 「ワシの少年頃はもっとジャー」その言に火を注いだのか老人特有の回想談が日も月をも舐める勢いで始まるのだ・・・

 バスク老曰く少年時、つまり昭和初期には倉敷川を汐入川と呼び、満潮時にはクラゲが泳いでいたそうである。路上では屋台の上から水蒸気を「ピイーン」と鳴らすキセル掃除の「らお屋」下駄の歯を修理する「なおし屋」漬け樽を大八車に積み「シンコー、シンコー」と連呼する「漬け物屋」餅菓子を売る「カリカリ屋」という物売りの人達。それに虚無僧や手品師、淡路人形や猿回しの門付けや大道芸人が徘徊していたそうだ。

 また向市場にあった倉敷劇場に芝居がかかった時などは、厚化粧で扮装した役者が人力車に乗り 、その前を「町廻りジャー」と叫びながらチンドン屋が先導する。

 「チンチンドンドン、チンドンドン、もうひとつおまけでチンドンドン。スッテンコロンデ、ドッコイショ・・」そういう囃子をはやしたてながら何処までも付いて行ったとバスク老は目を細めるのだ。

 ところでその倉敷劇場は田舎には稀に見る本格的な劇場で、初代中村雁治郎が来演したり、藤原義江の独唱会の公演があったり、倉敷はその頃より文化的な土壌があったものと見える。

2007/02/08(木) 40年前の美観地区日記より。 四十二回
M 美観地区に集う人々

 春風駘蕩まことに気持ちの良い日で、この美観地区にも旗を先頭にいにしえのお譲さんを含め観光客がどんどんやって来る。記念写真を撮り、有名な絵を見、ドォーツと流れて行く。つかの間の幸福の繁栄をドサッと持ってきて絵にして見せた点景である。

 いつものごとく今橋上でバスガイドの説明が始まった・・・・
 「この建物は大原家の別邸で、緑色に輝く屋根より緑御殿と呼ばれています。大正十五年に昭和天皇の行啓があり、この橋も改築、児島高徳?に龍と菊の御紋章を大原孫三郎氏が彫らせたという事です。なお緑御殿は昭和天皇や前ニクソン大統領が御宿泊。なんでもあの瓦は一枚八千円「現在三万円」・・・・

 ここまでくると観光客はどよめきバスガイドが得意気になるところであって、別に高徳ではなく虎次郎がデザインし、甥の彫刻家・紀和氏が彫ったとしても関係ないのである。観光客にすれば平常のあらゆる哀しみや心配を忘れ、太平の逸楽の気持ちになれば良いのである。況や俺にとっては良き金ズルで、優曇華の花なのだ。

 では何時頃から倉敷に観光客が大勢参集して来たのかと言えば昭和四十七年・新幹線が岡山まで開業した事もあるが、都会にコンクリートの画一化が進むにつれ、古い民家、白壁、古城などの良さを見直した事。と同時に大原美術館の名画盗難事件だ。コローの「ナポリ風景」ルオーの「道化師」モローの「雅歌」他三点だが、皮肉なことにこれを機に多くの名画が倉敷にあることが全国に知れ渡り、それらが重なりあってブームの到来を招いたのであろう。

 ところで人が集まればそこに何等かの利益を得んとする輩が集まってくるは理の当然で、この乞食エカキを始め、アクセサリー、冷やしアメ、観光写真、人力車、後にはアイスクリーム、占い師、女引っ掛けカメラマン、ギター歌い、宗教カンパ等あらゆる有象無象が湧いてくるのだ。ちなみにその当時の新聞には「美観地区の駐車場どこも満杯、狂う計画」「美観地区に新名物の人力車」の見出しが散見できるが「人気者のニガオエ描きさん」とチャンと俺の事も出ている・・・・

2007/02/07(水) 40年前の美観地区日記より。 四十一回
 思うに生きる定義とは喰うことであり、味わうことであろう。

 碩学サミュエル・ジョンソン先生は「腹のことを考えない奴は頭のことも考えない」と喝破し、フランス人は「その人の食物で人物を判断せよ」と人物教養の基準の一つにしている。
 「君子、厨房を遠ざく」とはとんでもない話で昔から料理は男の仕事だったのだ。
 たとえばホメーロスの叙事詩の英雄達は肉も切れば、パンも焼いた。
 ユリシリーズのオデュセウスはローストビーフの名人だった。「三国誌」の軍師・諸葛孔明は漬物や畑の種まきまで指図しながら、五大原の作戦の采配を振るっていたし、レオナルド・ダビンチでさえポッチェッリと一緒に居酒屋を経営しょうとしている。ロートレックに到っては食通を凌駕し、常にポケットにオロシ金とナツメグの実を入れて持ち歩き、ついには「美食三味」という本を上辞している。

 こんな事を羅列すると千夜あってもきりがないので割愛するが、ゴッホの描いた「馬鈴薯を食べる人々」やミレー描く「種蒔く人」に一歩でも退歩?するためにも、ここにしばらく鍬をもって土に語りかけてみよう。何、土か答えてくれるさ。いまの人間から答えは出ないと痛いほど知っている急拵えのチモ兵衛田吾作はまた勝手に決めてしまうのだ。

 テレパシーで俺の引越しを知ったというチビクロが来た。清原天皇もやって来た。ヤンに淑恵ちゃんもやって来た。カラスもやって来た。カラスの見守るなか、早々皆で開墾作業のランデブだ。心地よい疲れ合間に皆のなけなしの金を集めてのコップ酒。この喜びは富者の万燈よりも、貧者の一燈の大いなる喜びでもあった。

 富よ去れ!文明よ去れ!華麗なる肥え溜めよ!

 次回 倉敷美観地区に集う人々

2月絵日記の続き


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