美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007年11月
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2007/11/09(金) 倉敷にがおえエレジー 題81回
さて俄然似顔絵師の話が明瞭になってくるのは、戦後の事からであるというのは、その時より似顔絵を描き、なお現在似顔絵を描いている先輩がいるからである。

 その先輩の話しによると新宿、銀座、上野等の焼け跡にはすぐ露店が建ち始め、とくに銀座の服部時計店と松屋には進駐軍用の酒保、つまりPX前にはカーキ色の軍服を着た進駐軍兵士が大勢やってきたので、それを目当ての花売りや靴磨き、あるいはパンパンガール、箱形カメラを首から下げた俄か街頭写真屋等が出現した。

 そんな中にスケッチブックを持った大道似顔絵師も居たわけだが、その数は二十人とも三十人とも言われている。

 石田、橋本、野崎、ガマ田、大崎、松本、小林、岡田、福永、佐伯などなどだが決して本名で呼ばれる事なく、ガマやショウ、アラカンやガイコツ、あるいはイラスト等とニックネームで呼ばれていたのはお互いの過去を詮索することなく、一種の親しみとチームワーク堅さを現わしているとみえる。

 例えば絵に自信のあるものは丸の内の学士会館や王子の燃料倉庫跡に兵士が寝泊りしていたので、油絵の肖像画を描きにいった。F6号で毎日二時間、一週間完成で二千五百円。当時、似顔絵一枚は三十円程だったので良い値段と良い食事だったと言う。
 また面白い事に横須賀港に軍艦が入るとポン引きが連絡してくれ、大拳して似顔絵を描きに行くのだ。そして滅多に手に入らないフイリップモリスのタバコや缶詰を手にすると、当時殺人酒と言われたメチール酒で泥酔。数人の似顔絵師も死んでいったが決して「進駐軍万歳」「反軍国主義」「平和と民主主義」唱える事もなく、況や「芸術論」等一口も口に出さなかったと言う。

 ついこの間まで「我々こそは東亜の指導者である」という妄想を完膚なきまで叩き込まれ、一転、マッカーサーの説くデモクラシー、丹頂党(頭だけ赤い)の示唆するイデオロギーもそこに獣的な人間の利己心が働いている事を膚で痛いほど知悉していたのであろう。


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