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2007/11/28(水)
倉敷にがおえエレジー 題88回
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さて大原美術館の楚を築いた画家・児島虎治郎だが、過日、東京美術学校での彼等の写真を見ていると何と児島虎次郎が持っている肖像画は片山センのものではないか。片山は岡山・久米の生んだ国際共産主義の組織者で今でもセン・カタヤマの名で記憶されているが、児島の青年期の不安定な情緒を見る思いだった。 尚、あの社会事業家の石井十次も十六歳の時、宮崎で友人と飲酒、悲憤慷慨して明治政府を攻撃し、岩倉具視暗殺の必要を論じ、この為友人共々逮捕抑留されている。
徳富蘇峰は彼の性格は鉄をも溶かす情。山をも動かす意志の力として言行一致型としているが、直情怪行でもあると指摘している。
十八歳で警官に奉職していた時も、友人の妹が遊郭の女になっている事を知り、奔走して多額の金を集め、これを救済したのもそうだし、岡山で医学校に在学中、女巡礼に惻隠の情絶えず何のあてもないまま子供二人を引きとったのもそうであろう。しかし、それが岡山孤児院の起源で、孫三郎とも出会う切っ掛けになるのである。その孫三郎は「わしの目は十年先が見える」といったが、その子息・総一郎は五十年先、百年先の世界を見据えていたように思う。
「この様な住みにくさを造り出した経済活動に、我々は無条件にそれを謳歌するのに躊躇せざるを得ない。よくも立派な経済成長という美名に隠れて戦争で破壊された以上の破壊を戦後にやってしまった。」という意味の言葉も一つであろう。 氏は晩年、戦時中働いていた女子挺身隊員の招きで沖縄へ行っているが「本土が文化的殖民地化していく時、我々の故郷は沖縄にこそあると思う」と沖縄タイムズに載せている。
これを担当したのが新川明であった。
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