|
2007/11/12(月)
倉敷にがおえエレジー 題83回
|
|
|
相変わらずトンボという似顔絵描きは服部時計店前や松屋前等を飛び回って、似顔絵を描き、独立展に出展していたが入選せず、公衆便所の中で凍死するのだが彼の口癖は「林武のアトリエにウンコして来てやった」であった。
東大法科出のゴーケツという絵師はハオリ・ハカマで矢立て描く人だったが名の通り、正義感強く、三人連れの米兵に日本娘が悪戯されているのを目撃すると、下駄を脱ぎ捨てその中に割って入るのだが何しろ栄養失調だ、米兵にスキヤ橋下に投げ捨てられたあげく水死。俗に言うヤンキーゴーホーム事件だ。
明治芸術学部出の野崎という絵師は絵を描き終わっても「ザッシライト」と言わなければ、おもむろに鉛筆削りを取り出して鉛筆を削り始め威嚇するのだ。彼は後年NHKより「失われた大陸」等ドキュメンタリー物をモノにするのだが、ちなみに彼は岡山・高梁の出であった。
又、ある奴は柳の木に登り「ミィ、ミィ」と蝉の鳴き真似をしたり、「ホーホケキョ」とウグイス」の鳴声して「外人にはわかるメェ」のタンカを切ったり、「俺の身体売ります」と言う看板を首からぶら下げたり、まだまだ街はデカダンとニヒリズムの洪水であった。
一方、無頼派と称する文学達はアドルムやヒロポンを手にし「ニヒリズム奨励」の文学を書きまくっていたのである。 あえて言えばとことん落ちてしまえば住みやすい世界だったのだ。
ところが講和条約なるや大道絵師の大半が住んでいた新橋、有楽町の国鉄ガード下にあったバタヤ部落の強制徹去。それに児童福祉法の改正施行にもとずき、警視庁は銀座の花売り、靴磨きを一斎補導乗り出すのだ。似顔絵描きの中でも未成年の者がおって、彼等は上野公園に進出して行くのである。
|
|
|
|