美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/11/29(木) 倉敷にがおえエレジー 題89回
昭和三十五年は騒然と明けた。

一月十九日、日米安保条約が自民党だけで単独可決。民主主義の危機が叫ばれ、全国各地で数百万人規模の政治ストが行われたのだ。
現・科学技術長官・江田五月氏は当時東大生で氏も自民党総裁室に雪崩れ込んでいる。そうした状況を国民に隠弊する為にも池田内閣は国民所得倍増計画を策定し、効率だけを追及する大規模な工事を乱立させるのだ。結果、都市への人口集中がおこり、農山村の過疎化が進行、人々は虚構の「豊かさ」に向かって走らされるのである。

 だいたい効率の追求とは無駄なものを省き、切り捨てる思想の事である。人間でいえば世間から爪弾きされた者。社会的に順応出来ない者。社会からドロップアウトさせられた者等々だが、この時代より「人間の利便」を追及するという大儀名文を基に圧倒的多数の人間が、人間として一番大事なモノを置き去りにし、熱したフライパンの上で踊りまくるのだ。

 たしかにこの頃より国民的映画「フーテンの寅」が放映され始めたと思うが、山田洋次監督は真に人間的だからこそ置き去りにされ、小さな真実を守り抜こうとするから大きな状況から疎外されてしまう。そのように社会からドロップアウトする「ダメ」人間の「寅」こそ真に人間的な輝きがあり、ドロップアウトさせた側の方が反人間的なのではないかと云う逆説の形をした痛烈な主張に人々は共感を覚えるのであろう。

 「富」と引き換えに「働きアリ」と化した人々はそんな中で眼に見えぬ何かが、人と人との通いあうようなモノを少しずつ浸食し、奪い去ろうとしている事に不安の中に気ずき始める。

 前回のファーブルの「昆虫記」によれば、あの「働きアリ」でさえ良く観察して見ると働いているのは全体の八割だという。そこで良く働くアリばかりを集めて見ると二割が働かなくなり、その反対に怠けアリばかり集めてみると八割が働き出すという。

生きとし生きる者はこの様にして、上手くバランスを取って生命体を確保していると言うのがファーブル氏の結論である。


 すればだ。また人間も昔から乞食や放浪者、あるいは身障者等を運命共同体として、保護し、あるいは神の分身として敬う事さえあったものと頷ける。それは諸国漂泊の彼等は、土着と沈殿を繰り返す人々に取っては年に一度か二度、ハレの日に姿を見せる来訪神であり、呪事と祝事を携えてさまよう異人であったと言ってもいいだろう。

2007/11/28(水) 倉敷にがおえエレジー 題88回
さて大原美術館の楚を築いた画家・児島虎治郎だが、過日、東京美術学校での彼等の写真を見ていると何と児島虎次郎が持っている肖像画は片山センのものではないか。片山は岡山・久米の生んだ国際共産主義の組織者で今でもセン・カタヤマの名で記憶されているが、児島の青年期の不安定な情緒を見る思いだった。

 尚、あの社会事業家の石井十次も十六歳の時、宮崎で友人と飲酒、悲憤慷慨して明治政府を攻撃し、岩倉具視暗殺の必要を論じ、この為友人共々逮捕抑留されている。 

 徳富蘇峰は彼の性格は鉄をも溶かす情。山をも動かす意志の力として言行一致型としているが、直情怪行でもあると指摘している。 

 十八歳で警官に奉職していた時も、友人の妹が遊郭の女になっている事を知り、奔走して多額の金を集め、これを救済したのもそうだし、岡山で医学校に在学中、女巡礼に惻隠の情絶えず何のあてもないまま子供二人を引きとったのもそうであろう。しかし、それが岡山孤児院の起源で、孫三郎とも出会う切っ掛けになるのである。その孫三郎は「わしの目は十年先が見える」といったが、その子息・総一郎は五十年先、百年先の世界を見据えていたように思う。

 「この様な住みにくさを造り出した経済活動に、我々は無条件にそれを謳歌するのに躊躇せざるを得ない。よくも立派な経済成長という美名に隠れて戦争で破壊された以上の破壊を戦後にやってしまった。」という意味の言葉も一つであろう。
 氏は晩年、戦時中働いていた女子挺身隊員の招きで沖縄へ行っているが「本土が文化的殖民地化していく時、我々の故郷は沖縄にこそあると思う」と沖縄タイムズに載せている。

 これを担当したのが新川明であった。

2007/11/20(火) 倉敷にがおえエレジー 題87回
ところで人間は区々たる運命に翻弄される者だが、人間は何の為に生きるのかと考えた時、己の中に生まれながらに与えられている才能の可能性を、出来るだけ幅広く伸ばそうとすると豊譲な出会いをするものである。

彼等はそんな人達であったろう。況や人間の価値を逆さまに、異人の方が根源的には真実を語り、実践していると確信する乞食エカキにとっては裏話に興味があるのだ。

 「生き物にはその行動に於いて、奇妙な裏話が在る」と書いたのは「昆虫記」のファーブルだが、総一郎氏はその本を座右の書としていたとあるので誤解を恐れず続ける・・・・


 それにはやはり孫三郎で、翁はまさに「下駄と靴を片足ずつ履いて、そのまま歩き通した人生」だと言ってもよく、非常に分かりにくい人だったそうである。語録にも「学校の先生が褒めるような人物はたかが知れている。」「愚問を大胆にやって真を掴むことが出来る。賢そうな行動には発見も発明もなし」等だが、故に氏は思想的に右でも左でも夢を抱いて生きる男が好きであった。
 山川均等は氏と小学校が一緒であったが、社会主義者の旗手であり、明治四十一年、堺利彦の赤旗事件に連座して千葉の監獄に入れられたとき、孫三郎はわざわざ慰問にいくほど親しくしている。

 また大原社会問題研究所を創設したとき「貧乏物語」の著者・河上肇を所長に招こうという下心もあって、自ら河上を訪ねている。河上は思いがけぬ資本家の来訪に驚き「私の様な所へ来られると、あまり貴方の為になりませんよ」と孫三郎をたしなめている程である。

 勿論これらは靴の方で、片方の下駄には当然ながら、彼の周囲には特定の女も居た訳で、とくに好んで老芸者の世間話に耳を傾けた。

 「ワシはあまり本を読まぬ代わりに、そういう女より、とても学校では教えて貰えんような学問をした」というのだ。

 有名な話では東京での学生時代、放蕩で高利貸しから今の金で言う数千万円の借金したとき、倉敷まで付いてきた付け馬に「他国の若者に大原を信用して、よくそれほどの大金を貸して下さった。」とご馳走し、返済したと言う孝四郎と言う父も並の人ではない。

 この孝四郎という人は松田元成の臣で、藤田大炊介を祖とし、四代照之は蘭皇と号した儒者で京・大坂の著名な学者・文人と交わった家柄である。

 総一郎の曾祖父にあたる五代目大原与平は旧禄・新禄との闘争、下津井事件にも連座しているとして片耳を切られたり、立石孫一郎一党に銃で威嚇されたりするがあくまで商人としての堅実主義に徹し、名実ともに大原家の礎を築く。

 その頃、著名な儒者・森田節斎が倉敷に招かれ塾を開いたのを機に、自ら住居を「謙受堂」と名ずけ、藤田孝四郎を養子としているのは「満は損を招き、謙は益を受く」に共鳴したからであろう。この「謙受説」は倉敷紡績の社是となり総一郎氏にも受け継がれていくのである。

2007/11/19(月) 倉敷にがおえエレジー 題86回
ニコライ・ガノーという露国の画家の名前には二度出会っている。
最初は世が安保闘争の真最中の頃で東大生の樺美智子の死と引き換えに「もはや戦後ではない」と第一次池田内閣が発足した頃であった。当時の俺は面白くない高校をさぼっては単車をぶっ飛ばしたり、映画館の梯子をしたり不安定な状況であった。

 そんな一日、大阪の盛り場・千日前を歩いていると「よう、兄ちゃんの似顔絵、描きまひょ。」と声をかけた男がおる。濃い眉に濃いヒゲ面。一見して沖縄人の顔だ。「二百円」というので描いて貰うことにしたのだが、何と彼こそが儀間比呂氏といって、行動美術会員で「沖縄」という「受難島」を主題に彫り続けていた時代なのである。そして一九五六年、沖縄で個展を開くのだが、それを見た沖縄タイムズの新川明は感動するのである。

「当時の私は、米軍の軍事支配によってもたらされる人間否定の現実に目をそむけて、安穏とした日常に埋没している沖縄の芸術のあり方に苛立ち、抵抗の芸術運動を提唱して血気に満ちていた。そこへ儀間氏の作品に接し、彼こそ沖縄のシケイロスやオロスコである」と沖縄タイムズに個展評を書く。
           
以来、二人は刎套の友となり「詩画集・沖縄から日本が見える」等を出版し続けていくのである。

「その時の儀間氏は芸術というものは、人が上手く行えないものを、表現して実践してやるもんじゃ。公募展等に色気を使うより、絶えず生きた人間との相互関係を大切にすることだ。云わば相互の滲透において存在するものでなければアカン。その点ニコライ・ガノーという画家は似顔絵を描いて孤児を養育したというが、これこそ芸術なんだなぁ」

 この話は今でも強烈に覚えている。


 もう一つは我国の社会事業家の先達「石井十次伝」を読んでいると、このニコライ・ガノーの名が出てきたのだ。それは十次の娘・友子の結婚相手を探していた時、日本救世軍を創始する山室軍兵(哲多町)がニコライの資料を十次に紹介。

そこで十次はあらゆる面で援助を受けていた大原孫三郎に相談すると即座に画家・児島虎治郎の名をあげるのだ。しかし、その当時、美術で喰えるものはごく少数で、美術を勉強するというと武術の間違いではないかと言われた時代だったが

 「人間と云う者は、決心と心掛けしだいでどの様にもなるのだ」という孫三郎の信念を知悉していた十次は「これ神命なり、疑うなかれ」と神と孫三郎に一切を任せるのである。

2007/11/15(木) 倉敷にがおえエレジー 題85回
この事は昭和七年、満州事変に際して国際連盟から派遣されたリットン調査団が日本の片田舎にこれほどの西洋絵画が集められている事に驚嘆したと言われている。この事情が第二次世界大戦末期、日本国内各地が爆撃浴びせられる中、倉敷が無事であったのは己自からの文化を灰塵に帰するに偲びなかった。つまり、一個の美術館が町を救ったのであると云っても過言でもないだろう。

 日本通で岡倉天心を知るラングドン・ウォーナーの功績も多大で、彼は「日本にある人類の宝を守れ」と云ってアメリカ人類学者オーティス・ケーリーを通して、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンに依頼したことである。

 また大原美術館前に立つ二体のロダンの彫刻像「カレーの市民」「洗礼者ヨハネ」を時の軍部が 接収命令を出して来た時、ときの館長・竹内潔真が「このロダンの彫刻はかけがえのない重要美術品。軍需工場で働いておられる多くの労働者に感動を与えています。」と直訴。それを「供出の必要なし」と受け入れた審議会委員の人々に柏手を送りたい。

 実際、戦争中の入館者は多く、殺伐とした時代故に芸術に触れ、人間としての魂を一瞬でもとりもどしたかったのに違いない。のち孫三郎の後を継ぐ総一郎氏は当時を回想して、次の様に書いている。

 「その頃、毎日のように武官に連れられて特攻隊出陣の若い学徒兵の人達がやって来た。当時敵国の美術品に囲まれた中で、故国に決別する最後の一時を過ごして任地に向かう、これらの人達の印象は今も消し難く思い出される」

 総一郎氏にすれば孫三郎より受け継いだ倉敷紡績も軍に接収され、木製飛行機を造らされていたが、多くは特攻用で日本楽器製造の「剣」が有名だが、ここのは「白菊」という可憐な名で、結局、十七機が造られ、総一郎氏としては感慨ひとしおであったろうと想起するのだ。

 またその年の十二月より大原美術館開館、入場料は一般五十銭、学生三十銭、進駐兵は無料だったが、氏は兵士が喰いいる様に鑑賞する姿を見て、芸術に国境がないことを確信するのである。以後、ビニロンを開発する一方、今までは印象派のアカデミックな絵が多かったが、ゴッホやセザンヌの様なエコール・ド・パリ以降の作品も購入するのである。と共に昭和二十六年にはマチス展、翌年にはピカソ展を開催。戦後の大原美術館のルネサンスとも言うべき改革が見事に華ひらくのだ。「倉敷を日本のローテンブルゲに」というのが総一郎氏の希望だったそうだが、今、現実に具体化しつつある。


 ところで人が環境によって影響される者と仮定すれば、この一介の地方都市から多くの画家が輩出している事である。
大原氏の奨学生であった満谷国四郎と児島虎次郎。岡山洋画壇の父といわれた吉田茜。裸婦の寺松と言われた寺松国太郎。太平洋洋画会の中心だった鹿子木猛郎。アメリカ画壇で成功した国吉康雄。フォーブの鬼と言われた中山巌、フォーブより大原美術館員になった三橋健。我国抽象絵画の先駆者・坂田一男。盲目の旅芸人・ゴゼを得意とする斉藤真一。
 日本画では小林竹喬に池田遙邨等の巨匠をあげていけば切りがない。

 では何故こういうことを書いて来たかとというと俺が東京へ似顔絵を描きに云った時、前回で紹介した野崎氏や小野君。竹槍氏という具合にこの倉敷出身の似顔絵師が実に多かった事に疑問を感じていたからだ。しかし、こう書いてきてみると何の不思議も無い分けである・・・・


 竹槍氏は下津井出身でシャープな顔立ちにロマンスグレーの良く似合う人だが根はボッケー頑固者である。「わしゃ、倉敷に居る時はゴクドウ者でな」おっしゃる氏のゴケドウはとは黒住教の布教者として、その頃台頭してきた新興宗教を論破して歩く事を指すらしい。その間、大原美術館に魅せられ、この道に入って来たらしい。小野君は
叔父さんが英国でアッシャー賞に入賞した抽象画家・藤岡章氏の影響もあるが、やはり大原に魅せられてこの道に入ったと叙階する。

 神さま、仏さま、オオハラさま。皆、オオハラの恩恵を受けているのである。

2007/11/13(火) 倉敷にがおえエレジー 題84回
大原県倉敷・・・この奇妙な県名を聞いたのはこの倉敷出身の似顔絵描きの小野君からであった。といって別に奇妙でも何でもなく、俺が大阪の美術学校に通っている頃から、先生や美術研究生からオオハラ・クラシキと何度も呪文の様に聞いていたからだ。

 確かにクラシキを世界的な名にしたのは倉敷川を挟んで白壁,本瓦葺き、格子窓といった特異な蔵屋敷をバーナード・リーチやエドマンド・ブランデンが絶賛した事にもよるが、何といっても大原一族の存在だろう。

 その大原氏は早くも明治二十一年に英国より紡績機械一式を買い入れ成功するのだが、ただ単なる実業家でなく「富のうちのみに死する者は、汚辱のうちに死する者でる」と云い、実践した世界最大の鉄鋼王カーネギーに似て、社会事業に身を捧げるのである。倉敷奨学会、岡山孤児院、大原社会問題研究所、大原農業試験所、倉敷中央病院、民芸館建設等などだが有名で誰でも知っているのは大原美術館だろう。

 その大原美術館は昭和五年開館だが、当初は児島虎次郎記念館みたいなもので、全ての作品は大原氏の援助で児島氏が集めたものと彼自身の作品であったからだ。

 そもそも虎次郎は成羽町の宿屋の息子であったわけだが、画才が優れ大原孫三郎の援助によって東京美術学校に入校。この時の校長が黒田清輝で同期には和田三造、辻永、南薫造、熊谷守一。そして文豪・夏目漱石をして「あの人は天才だと思います。」と言わしめた青木繁等、日本洋画壇の精鋭が揃っていた。とくに青木芸術は歴史の激しい審判を超えて第一級の名を後世に残しているが、当時の彼は黒田や岡山出身の児島や松岡寿、満谷国四郎を馬鹿にし、「海の幸」より「わだつみのいろこの宮」が最末席になるや「大家は退化なり、貯財せずば大家になれず。困ったものなり・・・」の文を敲き付けて出奔、満身創痍のうち他界する。

 一方、孫三郎の庇護下にあった虎次郎は石井十次の岡山孤児院を描いた「情けの庭」が一等賞を獲得、皇后のお買いあげとなるのである。個人的には藤島武二の描いた石井の教育理念の「ライオン教室」の方が面白いが仕方あるまい。結局、虎次郎は孫三郎の薦めでパリのコランに次いでベルギーのガン美術学校に学ぶのである。その在学中に泰西名画の原画を見るに及んで感動、孫三郎に西欧絵画のコレクションを進言、アマン・ジャンの「髪」を手始めにモネの「睡蓮」、マチスの「画家の娘」。そしてマルケ、デヴァリェール、ドニ、ベナール、コッテ等の作品二十七点を購入。そして「第一回仏蘭西名画展覧会」が、この倉敷の新川小学校で大正十年に催されるのだが、その反響は異常なほど大きかったと言う。小磯良平や前田寛治など多くの画家の渇仰を癒し、遠くは北海道や九州からはるばるやって来た愛好家まであって汽車が着くたびに倉敷町民も驚いたが、一番驚いたのは孫三郎だったらしい。

 以後、孫三郎は再三、虎次郎を名画の寡集の旅に出発させ、後、大原美術館の顔にるエル・グレコの名作「受胎告知」等手に入れるのだ。

2007/11/12(月) 倉敷にがおえエレジー 題83回
相変わらずトンボという似顔絵描きは服部時計店前や松屋前等を飛び回って、似顔絵を描き、独立展に出展していたが入選せず、公衆便所の中で凍死するのだが彼の口癖は「林武のアトリエにウンコして来てやった」であった。

 東大法科出のゴーケツという絵師はハオリ・ハカマで矢立て描く人だったが名の通り、正義感強く、三人連れの米兵に日本娘が悪戯されているのを目撃すると、下駄を脱ぎ捨てその中に割って入るのだが何しろ栄養失調だ、米兵にスキヤ橋下に投げ捨てられたあげく水死。俗に言うヤンキーゴーホーム事件だ。

 明治芸術学部出の野崎という絵師は絵を描き終わっても「ザッシライト」と言わなければ、おもむろに鉛筆削りを取り出して鉛筆を削り始め威嚇するのだ。彼は後年NHKより「失われた大陸」等ドキュメンタリー物をモノにするのだが、ちなみに彼は岡山・高梁の出であった。

 又、ある奴は柳の木に登り「ミィ、ミィ」と蝉の鳴き真似をしたり、「ホーホケキョ」とウグイス」の鳴声して「外人にはわかるメェ」のタンカを切ったり、「俺の身体売ります」と言う看板を首からぶら下げたり、まだまだ街はデカダンとニヒリズムの洪水であった。

 一方、無頼派と称する文学達はアドルムやヒロポンを手にし「ニヒリズム奨励」の文学を書きまくっていたのである。
 あえて言えばとことん落ちてしまえば住みやすい世界だったのだ。

 ところが講和条約なるや大道絵師の大半が住んでいた新橋、有楽町の国鉄ガード下にあったバタヤ部落の強制徹去。それに児童福祉法の改正施行にもとずき、警視庁は銀座の花売り、靴磨きを一斎補導乗り出すのだ。似顔絵描きの中でも未成年の者がおって、彼等は上野公園に進出して行くのである。

2007/11/10(土) 倉敷にがおえエレジー 題82回
昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争は、日本に取って重大な意味を持つ事件だった。他人の不幸で漁夫の利を得た結果になったが、この戦争から受けた利益は膨大でこれが日本の再建に注ぎ込まれ、少なくとも物質的な面では太平洋戦争という愚行に突入する前に近い状態に戻ることが出来たのだ。
 それは金ヘンであり、糸ヘンであったのだが、やはり大道似顔絵師の先輩の話だが、パンパンガール経済と共に大いに似顔絵師も寄与したというのだ。

 これは少々極論になるかも知れないが、確かに全国進駐軍の来た所では彼等から相当金せしめただろう。とくに横須賀や佐世保の軍港では、似顔絵長屋がズラッと並び、街灯も点灯し毎日祭りみたいな騒ぎだったと言う。

 ところが翌々年、国民自ら選んだものでない日米安保条約が発効。三日後には血のメーデー事件。「破防法」いわゆる治安維持法、特高の悪夢が又、再現されるのだ。
 余談になるが我国の民衆史のパイオニアである八切止夫史観によれば、古墳時代における我国の人口の九割は奴隷だったという。奴隷は妻帯が許されず(賎ズリという言葉の語源はここにあるとか)奴隷頭に出世した者だけが子孫を残す事を許された。即ち奴隷頭とは、仲間の奴隷達を裏切って鞭打たれる側から鞭打つ側に回った連中の事である。要するに日本人民衆のほとんどは、裏切り者の子孫であり、その内なる奴隷根性は二千年のプロセスをえて形成されたという訳だ。

 八切止夫はこれを自らの戦争体験をもとにして「天皇バンザイ」で中国へ出征した日本兵達が捕虜となるや「毛沢東バンザイ」を、シベリアに抑留されると「スターリンバンザイ」を唱え、帰還したとたんに「マッカーサーバンザイ」を唱えるという、その徹底した節操のなさ、プライドのなさこそ、古代奴隷制が如何に強力だったかを証明していると言うのだ。
これが事実ならマッカーサーに「日本人の精神年齢は十二だ」と言われても仕方なかろう。

 しかし、俺は「自らの意思でドロップアウトして、自主独立へ脱出した自由人もいたのだ」という夢と希望の歴史観を持ちたいし、描きたいのだ。

2007/11/09(金) 倉敷にがおえエレジー 題81回
さて俄然似顔絵師の話が明瞭になってくるのは、戦後の事からであるというのは、その時より似顔絵を描き、なお現在似顔絵を描いている先輩がいるからである。

 その先輩の話しによると新宿、銀座、上野等の焼け跡にはすぐ露店が建ち始め、とくに銀座の服部時計店と松屋には進駐軍用の酒保、つまりPX前にはカーキ色の軍服を着た進駐軍兵士が大勢やってきたので、それを目当ての花売りや靴磨き、あるいはパンパンガール、箱形カメラを首から下げた俄か街頭写真屋等が出現した。

 そんな中にスケッチブックを持った大道似顔絵師も居たわけだが、その数は二十人とも三十人とも言われている。

 石田、橋本、野崎、ガマ田、大崎、松本、小林、岡田、福永、佐伯などなどだが決して本名で呼ばれる事なく、ガマやショウ、アラカンやガイコツ、あるいはイラスト等とニックネームで呼ばれていたのはお互いの過去を詮索することなく、一種の親しみとチームワーク堅さを現わしているとみえる。

 例えば絵に自信のあるものは丸の内の学士会館や王子の燃料倉庫跡に兵士が寝泊りしていたので、油絵の肖像画を描きにいった。F6号で毎日二時間、一週間完成で二千五百円。当時、似顔絵一枚は三十円程だったので良い値段と良い食事だったと言う。
 また面白い事に横須賀港に軍艦が入るとポン引きが連絡してくれ、大拳して似顔絵を描きに行くのだ。そして滅多に手に入らないフイリップモリスのタバコや缶詰を手にすると、当時殺人酒と言われたメチール酒で泥酔。数人の似顔絵師も死んでいったが決して「進駐軍万歳」「反軍国主義」「平和と民主主義」唱える事もなく、況や「芸術論」等一口も口に出さなかったと言う。

 ついこの間まで「我々こそは東亜の指導者である」という妄想を完膚なきまで叩き込まれ、一転、マッカーサーの説くデモクラシー、丹頂党(頭だけ赤い)の示唆するイデオロギーもそこに獣的な人間の利己心が働いている事を膚で痛いほど知悉していたのであろう。

2007/11/08(木) 倉敷にがおえエレジー 題80回
このように「文明」というものは創製、発展、爛熟、衰退という生命と寿命にも似た経過をたどるものであり、その爛熟期が大正時代だったと思うのだ。
 心理学者・南博氏は「現在の我々の周りを取り巻く現象はほとんど大正期にその原型が存在していたのである」と指摘される。

 例えばデモクラシー、マルクス主義、そして私小説、風俗小説、プロレタリア芸術、前衛派等の芸術面。マスコミ、マスカルチャーの現代との酷似。生活、風俗の面での生活の合理化、家庭文化、消費文化などは大小の差こそあれ、そのパターンは現代の原型である。

 たしかにこの時代は目覚めと行動の時代であり、芸術活動は盛んになって文学者や画家が輩出し数々の名作を発表。
 反面、失業率が多大で画で喰えない画家は銀座や浅草、あるいは上野公園に似顔絵描きとして立ったものと推測する。

 この頃の浅草は谷口潤一郎の「鮫人」や川端康也の「浅草紅団」などに描かれているように、軽演劇やレビューのメッカで人々は毎日溢れていたし、銀座でも今では(銀ブラ)など死語とかしているが、この頃は眩しいような街で、人々は(銀ブラ)というものはステータス化していたのである。これは昭和に入ってからだが作家・武田鱗太郎は「銀座八丁」で銀座のカフェーを次ぎのように活写しているのにも伺える。

 「時々、扉が開くので、皆はそちらを見るのだが、実に多いのは花売りの子供や声色屋、明暗教会の箱ぶら下げた虚無僧、バイオリン弾き、そして似顔絵描き」と出てくるのである。その頃流行った流行歌「東京行進曲」では銀座、浅草、新宿などを歌っているように其々の盛り場には先ほどの連中も集まって来たのであろう。

 似顔絵描きの先輩の話によると有名な漫画家の近藤日出造や清水昆も無名時代には大道似顔絵師として活躍していたそうだし、上野公園では日展審査員で「舞子像」を得意とする鬼頭鍋三郎氏も似顔絵を描いていたのである。

2007/11/07(水) 倉敷にがおえエレジー 題79回
ところでこの銀座には栃木・益子出の小林氏。福岡・旅館の息子の斉藤。広島・呉の金融業の畝氏等が居たと思う。

とくにこの中で小林と宇佐美・栗山の確執は有名で、宇佐美とは今戦争末期、海軍の少年特別攻撃隊の一員だったというが小林曰く「奴のは出鱈目だ。何故なら所属部隊名と部隊番号でさえ言えないのから・・・・」と云った言葉が宇佐美の耳に入ったからである。

栗山とは映画女優・内藤洋子の妹・やす子「歌手」の取り合いが端を発しているらしい。女は女に男は男に競争心があると知っていたが、乞食エカキの競争心に妙に感動したことを覚えている。


 その点、釣りと酒を愛した武さん(大阪)や信ちゃん(長崎)は素直なものだった。二人ともニガオエ以外作品らしい作品は何も残さず、怨念も残さず、酒で幽冥境に遊び逝ってしまっうのだ。自称・慶応ボーイと言っていた安部氏も、この倉敷出の竹槍氏も生死不明で、結局、最後まで頑張っていた栗山も消滅し、銀座から大道似顔絵師は壊滅しのだ。

2007/11/06(火) 倉敷にがおえエレジー 題78回
ところで小生の友人に奥山という男がいて、彼は現在ドイツのドレスデン美術大学に留学していて帰国するとよく話しを聞くのだが、彼の説によると似顔絵が大量に描かれるようになったのは、鉛筆の発明からであろうと言う。たとえば十六世紀フランソワ一世の宮廷画家であったジャン・クルーエは鉛筆による似顔絵が数百枚、シャティのコレクションに残っているように・・・・

 なおこの似顔絵集は当時複製販売され、人気を得たというがそれは丁度今日、写真やグラフ雑誌が大衆に映画俳優やスポーツのスタープレヤーの容貌を伝えるのと同じであるまいか。

 また十八世紀のルイ・カロジスという画家はオルレアン公のお抱え絵師だったが、カルモンテルという偽名で色んな人の顔を描いたことである。
 そのモデルの其々の物腰、身なりが自然な表情で描かれているのは鉛筆画が油絵よりたやすく、しかも安価であったからであろう。故にクルーエの似顔絵がかって引き起こしたのと同じ様な熱狂が再びみられるのだ。彼の似顔絵も散逸したものを除き、七五0点がクルーエと同じくシャティイに現在も残っている。

 それにしても王侯、貴族、ブルジァア階級だけの肖像画が横行していた時代に庶民を好んで描いたと言う事は二人共、反骨精神を秘めていた事であろう。新たな大きな創造を成そうとする者は絶対反骨精神が必要なのだ。
 ヴアン・エイクは「オータンの聖母」に於いて寄進者を聖母の下に身体をくねらせ、辛い姿勢で跪かせている。ポッティチェルリは「東方の博士の礼拝」に於いてメディチ家の人々を可笑しくなるほど、尊大と傲慢さを描き加えている。レンブラントの「夜警」に到っては光線の原理を追及するあまり、支払いを拒否され、クールベは写実主義を追及するあまり、監獄に囚われているのである。

 話を本流にもどす。先の奥山の話を続けるとドイツに於いてもチューリヒ駅前通りの路上でバグパイプやギター演奏者のストリート・アーチストに混じって似顔絵描きも大勢いるらしい。しかし、何といっても有名なのはフランスのモンマルトルで、次いでスペインのマドリード広場、ニューヨークのグレニッジビレッジ(現在イースト・ビレッジ)であろう。
 ではこれらは何時頃からと言われれば、やはり日本と同じく大正期(一九二0年)以降と推測される。何故ならそれ以前は第一次世界大戦があり、後には第二次世界大戦があって、とてもストーリート・アーチストを横行させる余裕などなかったと思われるからだ。

 日本でも前回で紹介した漫画家の服部亮栄氏が「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」と宣言したのは大正中期であった。この頃は巷に失業者が溢れ、それに世界恐慌が追い討ちを駆け、大学を出た者さえ就職口がなく、況や漫画家や画家を志す者には何をかであり、巷にボツボツ大道似顔絵師が散見出切るようになるのだ。

 それは時代の影に咲いたアダ花であったかも知れない。

2007/11/05(月) 倉敷にがおえエレジー 題77回
「似顔絵と肖像画とどう違うのか?」お客からこういう質問をよく聞く。
 「広辞苑」では「似顔絵」も「肖像画」も人の顔や姿に似せて描いたものとあるが、我々の仲間では「似顔絵」は漫画的(カリカチュア風)で「肖像画」写実的に丁寧に描いたものと定義しているが、印象派、立体派、フォーヴイズム、抽象の絵画を経験してきた今日では通用しなくなった。

 例えば世界的な辞書「ブリタニカ」によれば「肖像画は他人による特定の個人のある一つの面の再現である」と。
 この表現からいえば人物の忠実な画像はもはや問題にならず、ただある幾つかの面の再現にすぎず、それすらも、他人の眼を通してであり、とすれば主観的なものでありうる事がただちに想起されるのだ。

 ピカソの「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」等は面と光の探求の組み合わせ、視覚のあらゆるまやかしを排し、作品を画家の感じる表象によって組み立てる事で、キュビイズムは印象主義とゴーギャンの二重の思索から抜け出ず、出来上がった作品は主題と人間そのものも消し去ることで自律性を獲得している。
 これをもっとラジカルに捕らえてみると、壁に付いた染みとか、小道の砂利にでさえ、これが貴方の肖像であると言える事もありえるのだ。

 昔、新宿に変わった似顔絵師が居て、彼は客を捕まえては「貴方は顔を描くより、足の方が貴方を表現している」と言って路上に腹ばいになって足を描くものだから、時々客に殴られていた。

 ところで「肖」とは「似すがた」を意味し、プリニウスの博物誌によれば、恋人の姿を留めるため壁に投与された影絵が始原と言われている。故に「肖像」としてもっとも大切な事は、像主の外貌が客観的に写し取るが根源的なものであろう。思うに如何に狂信的な抽象主義の信徒でも、今後の人間社会に肖像画の用なしと言い切るものはあるまい。人間の姿が写真によってのみ伝わる事に、人がある寂しさを感じるで在ろうことは容易に想像され、肖像に限らず全ての絵画が抽象、非具象の一色に塗りつぶされるのに不満を感じる事は同じであろう。

 さて西洋に目を転じ、問題を肖像画に限らずジャンルとしての意味でたんなる人物画にまで広げれば、文明が芽生えるとたちまち太古より、それがどんな荒削りなものであれ、石に彫られ、形作られ、刻まれ、あるいは物の上に描かれた人物画が現れる。

 例えば最初の文明として知られるシュメール文明では紀元前四千年にシュメールの女人像が作られているが、我が日本の埴輪と同じく葬礼用であり、肖像画とは言えないだろう。後に古代社会に階級と権力が生じてきたとき、それらの象徴として形象が作られ、あるいは描かれてきたが、これらも個人の存在を表現するというよりは、それぞれの位階・身分を示す類型的形象であった。
 やはり個人的特徴が描かれる様になるのは、日本の雪舟の出現と同じく十五世紀のルネッサンスからであろう。
 この頃はブルジョア階級の勃興と、これに伴う個人の自我の確立にともなって性格を正確に示す細密なリアリスティックな肖像画が現れてきたのだ。

 十六世紀にはティツィアーノ、デューラー等、個人の内面を洞察し、象徴的にこれを表現しょうとする精神性の深い肖像画が描かれるようになったが、この発展途上に十七世紀のレンブラント、ベルニーニなど、光と影の助力を得て精神性と時間性を示す個人表現は頂点に達するのだ。

 また個人の精神性に価値を置く十八・九世紀にはいずれの国においても肖像画の全盛期であったが、十九世紀末の写真の登場が長い肖像の歴史を大きく変化させた事は絵に興味ある方ならご存知の事で、しかし、ここではここではあくまで似顔絵の歴史で肖像写真は黙殺する。



私の作品「自業像」

2007/11/04(日) 倉敷にがおえエレジー 題76回
では「エカキ」という言葉は何時から使われたのか。
「日本書記」の雄略記七年の件には、百済から多くの技術者が渡来した時、陶部高貴(すえつくりこうき)鞍作堅貴(くらつくりけんき)等の中に画部因鞍羅我(えかきいんくらが)といって画部を「エカキ」と読ませているのが最始であろう。
 ただし彼等は律令制化の権力組織に隷属的な部民集団で、あの高松塚古墳壁画に見られる様に全ての顔は「引き目釣り鼻」で個性は表現されていない。つまり顔は個性的に描くのではなく、いわば権力そのものを描くことが様式美と確立されていたのであろう。

ところが八百五年に唐から帰る空海が、当地の画家・李真に描かせた真言宗の祖師五人の肖像画は迫真的、写実的であったが為、日本の大和絵に受け入れられ「似絵」と呼ばれる肖像画が誕生する。
 鎌倉時代に入ると「似絵名人」と言われた藤原隆信、その子の藤原信実に到っては「似絵描き大名人」と尊称された人々が出るが、源頼朝像や平重盛像を描く延臣画家の手では面白くない。

 ところが面白い資料が見つかった。
 それは鎌倉時代の最末期、浄土真宗の仏光寺派では絵系図というものを作った。「現存の時よりその面像を写して、末の世までその形見を残さん」という事で、念仏を求めて入信した人達の絵姿を描き、絵による入信譜を作った。なにしろ自分の顔や姿、名前が書き残されるのだから、我も我もと入信し、そのため仏光寺は門前市をなすのだ。
 反面本願寺の方は閑古鳥が鳴いたというのも「似絵」の大勝利で、しかもこの絵系図の場合には入信者が庶民で、これは注目に値し「個」への関心が強まってくるのだ。

 十五世紀には後世から画聖と仰がれた雪舟のような人物が出てくるのだが、とくに石見の大名・益田兼堯の肖像は個性の追求として秀逸の一つである。と同時に画面に「雪舟筆」と署名した事だが、それは彼が独立した画人の行為と自己の作品である事を宣言したことだ。ちなみに彼は岡山総社の生まれであるが、その後、やはり岡山藩の儒者であった浦上玉堂、田原藩士渡辺崋山等、次々台頭してくるのだが、十五世紀という時期に日本絵画史に「近代」を予兆するような、これだけの重みを持つ画人の出現した事は大いに驚きに価する。他に「似顔絵」の言葉を始めて使った浮世絵師・東州斎写楽に言及したかったが、あえて走り抜ける。


 さて江戸から明治へ時代が変わると、日本人がそれまで知らなかった事物が無数に到来した。絵の世界も例外でなく明治政府が招聘したイタリア人画家キョソーネが描き出した肖像画には無視しえない程の大きな影響力があったといえる。
 それは彼のアカデミックな描法と緻密なコンテ画で明治天皇や元勲達を描いたモノだが、モデルの実在を超えてリアルな印象を見る者に与えるモノであったのだ。
 初代・五姓田芳柳などは西洋画の普及奨励を希念して、門人ともどもと描いた油絵を明治七年の夏、当時、浅草奥山一帯の興行師の取り締まりをしていた新門辰五郎の了解のもとに油絵興行の小屋かけを拵え開業した事だ。木戸番、口上言、囃子方等の陣容も整い、まず場内で、口上言が陳列画の詳しい説明に始まり「よくお目に止めてご覧下さい」巧みに述べれば、見物人は成る程と感激して「画がものを言いそうだ」「今にも動き出しそうだ」着物は本人の切地だろう」等と口々に驚嘆の目を見張ったという。

 もっともここでの油絵は、泥絵具にニスを引いただけの代用油絵であった。しかしこれを見た人々は描かれたものをリアルだと感じたのは、線的遠近法や陰影法を含めて、様々な描写法によって表現された世界を写実的だと感じる認識の方法を、彼等がすでに自然に身に付けていた事を意味する。と同時に彼らは今までの例の「引き目、釣り鼻」という様式化された権力肖像に飽き飽きしていたのであろう。

 あえて言えば大久保利通や伊藤博文等、明治の元勲や権力者をいくらテクニック上手に描いていても共感を得なかったであろう。それは、そういう肖像は国家体制の一環としての表現であり、そもそも「国家」とか「権力」という存在ほど実体のない、また曖昧なモノでない事を肌で嗅ぎ取っていたのだ。ヒットラーやスターリン、毛沢東の肖像画の様にである。

 反面、北沢楽天や岡本一平の風刺似顔絵は本質的には民衆の立場に立った絵画であり、反骨の矢を持っていたから民衆は喝采を送るのだ。

 それらの風潮に浅井忠、石井拍亭、坂本繁二郎、池部釣、川端龍子、東郷青児等有名画家も参加。
 変わった所では尾崎鍔堂の長子・彦麻呂。島崎藤村の息子・鴎助の胎頭により時の権力より弾圧。あの忌まわしい戦争に利用されていく。

 極論すれば何時の世も人は反骨精神を忘れたら駄目だと言うことだ。
 それは人々も濁るし、権力も腐敗す・

2007/11/03(土) 倉敷にがおえエレジー 題75回
似顔絵の歴史1古今東西の似顔絵

 「似顔絵漂流記」で玉川しんめい氏は次のように書いている。
 「肖像画の歴史まで遡れば、遠く奈良朝の聖徳太子像以来と言うことになりかねないのであるが、現在の似顔絵という商売が成立して、絵師が街頭に立ち始めたのは、どうも大正期以降という事らしい。それは昭和二年に服部亮英という漫画家が「似顔絵雲水」なる本を書いていて、本人は関東大震災後に風の吹くままに人の似顔絵を描いて全国行脚を試みているのであるがその中で次のように述べている。

 「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」
 「大正八年だったと思う。静岡民友新報に川瀬蘇北氏がおられた頃、大坂漫展の帰りに立ち寄って、この地では初めて漫画展覧会を開催した。その席上で常時静岡市の名士の似顔絵を描いた事があった」
 「時の内務部長、駅長、助役、検事、等の顔が数分間に描かれると直ぐ会場の一隅に張り出された。大勢の男女学生はやんやと押し寄せて、似てる似てないと、御本人のモデルを側にして批評していた」

 「似顔絵を民衆の前で描いたのは、恐らくこの時が初めてで、東京ではまだみられなかった。云わば静岡は漫画似顔絵の民衆化としての酵母の地であり、かくして近代似顔絵の発祥は大正中期にあると考えられる」

 少々、引用がながくなったが、確かに似顔絵が盛んになったのは大正中期頃からで、例えば詩人の金子光晴が渡欧の際、金の無いときは船の中で似顔絵を描いたというが、彼にすれば東京美術学校時代から浮世絵師の小林清親に師事しているぐらいだから似顔絵ぐらい簡単な事であったろう。

 またその頃、哲人ジャーナリスト松尾邦乃助がパリ滞在中、サンチェスという大道似顔絵師にカルカチュア風の似顔絵を描いて貰っている所をみるとヨーロッパでもボツボツ大道似顔絵師が出て来たものと推測する。

 前衛画家・岡本太郎の父・一平も明治のポンチ絵から脱して、軽妙洒脱な風刺似顔絵で新生面を開いたのも大正時代で、その辺りより近藤日出造や清水昆等の似顔絵の大家が出てくるのだ。
 そこで俺は俺なりに戦前・戦後から平成まで続く似顔絵師列伝を考察しょうという訳だ。

2007/11/02(金) 倉敷にがおえエレジー 題74回
たしかに彼は強力な精神と反骨の精神を維持し、戦争中も一切の協力態度を示さず尺八を吹いて門付けをして歩き、終戦前シラミに喰われて死ぬという自我教という精神を具現した人だったのだ。

 ここに玉川しんめい氏が興味を抱き「日本ルネッサンスの群像」わ「エコール・ド・パリ野朗」等々辻は勿論、その周辺の大正期に活動した人々を描き続けるのが解かるような気がするのだ。何故なら、大正期は戦争と戦争の谷間で色んな思想が百花繚乱の如く跋渉していた時期だったからである。
 反面、現在は私的な情念や感覚をまったく受け付けぬ無味乾燥な文化であり、一切の人間がもはや主役でない事を物語っている時代だからである。況や玉川氏の師は中国に造望深く、ルポ・ライターという造語を最初に作ったのは竹中労氏であり、なんと師の「狂疾」を救ったのは大道似顔絵師と言うのだ。

 そのメフィトフェレスは一九四七年秋、師を山谷の家に招き、己の女房に春をひさがせる生活を開陳し、それでも本人は酒飲んで乱れず、世故に長け、仁義をわきまえ、男の情操において欠ける事なきますらおを見るにおよんで師の思想が一変するのだ。
 ちなみに師の父親は江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史らの作品にシュール・レアリズム風のユニークな挿絵を
描いた人であり、と同時に無産者同盟のボスであったのだ。そういう事を聞き及んでいた玉川氏は現在の大道似顔絵師に相通ずるものを見、食指を動かしたといえば少々付会しすぎるきらいがあるだろうか。


 玉川氏がこの倉敷にやって来たのは昭和六十年四月初めで、美観地区の柳が小雨打たれ緑が鮮やかな日であった。それから約半月間、俺の書いていた「似顔絵ロマン太平記」を元に、削ったり、書き加えたりの作業が始まるのである。それは俺にとっては陣痛の時期といっても良かった。
 反面、一刻も早くこの自分自身の内にあるモノを明るみに取り出して見届けかったのだ。
 あえていえば、人は誰でも一生のうち、これだけはしておかねばならぬという主題を持って生きているのだ。途中どんな脇道の仕事をしていても、長い間筆をとらなくとも、頭の中では何時も主題の事を考えているものなのだ。
 それは執念と言ってもよいし、人を憂うる気持ちに近いといっても良い。
 故にその年の十二月にパン・リサーチ社より出版された時は、ある程度の精神安定を得たが、それに懲りず又、こうして駄文を書いている所を見ると、人間それほど簡単に情念の放棄は許されないのだろう。

 俺はまだ脳病の魔王に睨みつけられているのだ。


 次回 似顔絵の歴史

2007/11/01(木) 倉敷にがおえエレジー 題73回
所が「縁あれば千里」という如く、一寸した事で知り合っていた作家・玉川しんめい氏に原稿のコピーを送っていた所、返事が来たのだ。

「面白く読みました。貴君の書いたのは面白半分や趣味的な発想からではない。一人の人間がある時期に何かひたむきに信じ、闇の中の灯かりの様なものを求めて旅して歩いたという過程の物語に感動したのです。四月初めにそちらにまいりますので、もう少し発酵させ陽の目を見せる事に致しましょう。」とおっしゃるのだ。

 人間と言うのは何処でどうなるか分かったものではないが氏と最初に出会ったのは十数年前の富山市で、早稲田大学演劇部のOBがやっている茶店「ボロ」であった。

 その頃の俺はドサ廻りの真最中で相方はオランダのヤン君と初枝ちゃんであり、「人間ウオッチング」だと言っては食堂や喫茶店に入る時は俺一人が先に入り、バカな真似を演じて皆から顰蹙を買う頃、ヤンと初枝ちゃんが入り人の顔を伺うみたいな事をして喜んでいたのだ。そんな客の中に作家・玉川しんめい氏が居たわけである。しかし、驚いたのは俺の方で氏が「評伝・辻潤」の著者であると共に、俺も又、ダダイズムにのめり込んでいた時期であったのだ。


 余談だがダダイズムとはトリスタン・ツアラーがスイスで始めた芸術運動だが、第一次大戦後、文学、美術、演劇に強烈なる影響を与え、各国に燃え広がり、日本では大正九年「ダダとは未来の放棄である」と「万朝報」に紹介された。

 ダダの先覚者・辻潤、小説家の竹林夢想庵、前衛詩人の高梁新吉。又、この岡山出身のダダ新聞を発行していた吉行エイスケ等々が有名であるが彼等はソシアリト、デカダン、ニヒリスト、アナーキスト、エゴイスト、コスモポリタン等と一般に呼ばれたように、あらゆるものを包容し、否定していたものと思う。

 とくに加えたいのは辻潤をもって全訳されたマックス・スチルナーの「唯一者とその所有」である。その所有とは自我教であり「汝は汝の汝に生きよ」とか「万物は俺にとって無だ」であり、辻にとって唯一者とは仏教でいう即心即仏であって白痴浄土と解し、あらゆる虚偽的な外片が皆剥奪され、一見何も身につけていないルンペン状態にならなければ駄目であって、刹那を最も充実した生命的欲求において虚無において、そこから生まれる創造を発露出きるのである 、と言い切っておられるーーー





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