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2007/10/09(火)
倉敷にがおえエレジー 題61回
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それに反し、最近ニガオエを描いていて感ずるのは人格がよく見えないことである。 極論すれば何もないゾンビーのオン・パレードだ。 顔も目鼻立ちもハッキリし、彫りが深い顔立ちなのに何となく重みがなく薄っぺらなのだ。
こうなった原因の一つはマックス・ウェーバー風に言えば職業的論理の衰弱であるとともに、高度経済成長を境に管理社会が家庭だけではなく、学校まで侵蝕し、いわば異種の私によって乗っ取られた虚偽の公「おおやけ」に喰い荒らされ、吸収され、精神まで空洞化されたからではなかろうか。
人相も思想も「自我と環境の衝突によって造られる」としたら、デフォのロビンソン・クルソーの物語が資本主義の成立期に書かれたことは偶然ではない。
いまさら「自然に帰れ!」とはお笑いぐさだが、トータルな意味での自己解放、人間性回復の道を模索する時期に来ているのではなかろうか。
もし高瀬氏の生き方に賛同される方がおられるなら尼崎・定光寺前のスナック「ハーレム」を訪ねたまえ。
無論ニガオは大原美術館前だ!
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