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2007/10/04(木)
倉敷にがおえエレジー 題57回
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俺に言わせると何処の女でも同じなのだ。 女心を捕まえるには時間と関心を惜しみなく相手にそそぎ、なり振りかまわず、常識に縛られず、恥をわすれ、ひたすら一体性を求めれば良いのである。 若さも地位も、金も必要ではない。 この現代の孤独な社会では触れ合いと関心に飢えている女が満ち溢れている。エネルギーさえ惜しまず、他のことに眼をつむる勇気さえあれば岡山女を手にすることができるのだ。
雨は降るにふる・・・そこで俺はタクシーを呼び「アトリエで続きを描こう」と熊ちゃんもナース嬢も荷物もほおりこんだのである。 「今日は俺がおゴルバチョフ、君達とノミノケーション、君は何とノーメル賞」と言いながら・・・
さて我々の一宵の宴にも朝が来た。 ローマの詩人は性交を終えたる後は全ての生物は哀しいとも歌った。 結局ナース嬢は不立文字で悟りを説く、熊法師より、世を茶化して生きるクラゲ法師のモノになるのだが「ノドが乾けば水を欲する。だからといって我々は水を愛しているわけではない。この事は性欲に当てはまる」と云うオルテガ説でナース嬢を愛した訳ではない。 ところが、それからの彼嬢は度々やってきて掃除をし、花を活ける。食事も作ってくれる。ときにはナース服を持ってきて、廃人同様の細胞に躍動を与えてくれるのだ。 五山の僧都が堕落したのはここの所である。 良寛でさえ69才で29才の美しい尼僧・貞心尼になにもかも忘れて縋り付いておる。 驚くのは一休禅師などは79才で森「しん」という盲目の女を妊娠させておる。 万物全て陰陽あって一体となって動いていくのは真理である。 生まれた物は死に、出会いがあれば別れなければならないのも真理である。
真理は何も難しいことではない。己に素直になる事であると、悟った訳だがリスクとして誤解もある。
ある日の事、昔の美術学校時代の女絵描きが遊びに来た。 ところが我々留守の間にナースが来たとみえ、女絵描きの服や下着は八つ裂きで「倉敷の大久保清、死ね、死ね、死ね・・・」不連続線の上にナイフ添えられてあった。 女の感情が動けば破壊と云ったのはフロイトだ。女が修羅にあった時、黒髪が逆立つそうである。
俺は「ヒィーッ」と叫んで呆然自失した。 人が寂滅する刹那には大概こんな声を出して、後は静かになるのであろう。
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