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2007/10/25(木)
倉敷にがおえエレジー 題71回
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だいたいこの清原と最初に会ったのは京都河原町四条通りにある銀行前でニガオエを描いている時だった。フト横を見ると一人の男がニガオエを描いているのだが、その姿は子持ちの南京虫の様にズングリ太り、蚊帳ごとき着物にドタ靴のいでたちだ。おまけに頭髪がヨモギみたいにボウボウと突っ立っているのである。 しかし、それが別に奇異に感じさせないのは、その男の顔が求道者によく見られる人を萎縮させる様な、何か魁偉な容貌が全体を引き締めているからであろう。
事実、彼は求道者である。
「異説・日本創世記」「最上原朝史」等の著作に全てを賭けているのだ。水戸日報には求名隠士の名において「明治天一坊、天津教教祖、竹内巨麿伝」を掲載していたのもこの頃である。
そんな眼で眺めると彼の行動、容姿全てが絵になるのだ。芸らしい芸は何もしなくても、いわば存在そのものが作品だといいたくなる役者が減少の一途をたどっているように、ニガオエ描きもそういう人が少なくなった。況や、その人を見てカッコが良いとか、悪いとか言っているうちは必死に生きていない証拠で、必死と言うのはもっと不様なものではないか。
自画自賛になるがその清原天皇の俺は・・・ 「弊衣破帽、ちびた下駄に汚れ手ぬぐいをぶら下げ、絵を描こうとも、ゲーテに泣き、ハイネに酔う。まさに多情多感なアルトハイデルベルグだ!」 こういう矛盾だらけの事を言ってくれるのだから、あまり他人の事を言えた義理ではない。
しかし、世は多情多感であった。新幹線開通、東京オリンピック、ベトナム戦争拡大戦略に反対する小田実等のべ平連結成、全共闘では山本清隆 (東大)や秋田明大(日大)議長が学園否定を自己主張。そして自由、平等、友愛がもっとも優れた形で表現しょうというモルガンの言葉をスローガンにヒッピーが台頭してきて、美術研究所で大の男がマスターベーションみたいな絵画等描いている時ではなかったのだ。この清原天皇と京大・熊野寮を足場に、西の風月堂と言われた六曜社、あるいはフォーク歌手の岡林信康らが作った反戦喫茶「ほんやら洞」で口角泡を飛ばし、まさに梁山泊の趣を呈していたのである。
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