美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/10/30(火) 倉敷にがおえエレジー 題72回
「似顔絵漂流記出版さる」

 俺は考えた。ユートピアン? ポンや丸尾氏のように、強い意志を持つユートピアンであればそれなりに立派だ。しかし、俺はそうじゃない。酒でも飲まなければ他人と話す事が出来ぬ、弱い情けないユートピアンだ。羞恥の狂言、凄惨な擬態を繰り返すユートピアンだ。まったく筋道も思想もない不潔の一句に尽きる矛盾だらけの男だ。又、どんな甘い夢を持ってしても、酒や女でも、それを押し静める事が出来ないものであった。

 その矛盾をどのように解決するか。それには先ず己の内に一杯詰まっているものを明るみに取り出し、ハッキリと自分の眼で見届ける事ではないか。

 全国を十数年ニガオエを描き跋渉した時の心情や見聞、色んな人達との出会い等、その一つ一つが俺との事項のつながり、互いの関係を明らかにする事によって、今までまったく混沌とした状態に置かれたまま出口もなく、迷路に嵌まり込んで己が打開できるのではないか。

己のなして来た行動をしっかり反芻し、それを正しく整理し、己の欲求が誤りなく発露する欲求が生まれてくるのは当然の事なのだ。キザにいえばその時は胸の内にあるものを全て吐き出してしまわなければ生きていけないと感じる瞬間であったのかも知れない。

 また俺の半生のあらゆる矛盾を燃焼せしめて一つの物語りを展開し、そこに俺の過去を埋没させ、そしてその物語の終わる頃を俺の後半生の出発点にしょうという、言わば絶望を切り捨て、絶望の墓を作り俺はそこから生まれ変わるつもりであったのだ。

  しかし、イザ書くだんになると一体何から手をつけてよいのか、まして文筆拙い門外漢がいくら気張っても原稿用紙はアクビをするばかりで、常に鼻先に「無謀」という字がチラつき、腰は砕け通しであった。

何回も挫折した末、ついには理想と能力は一致するものではない。俺は所詮ニガオエを描いて路上にひっくり返っておるしかないだと諦める矢先から、又「書け! 書け!」と一種の強迫観念に近いものに責めさいなまれるのである。それは実に激しいもので、どんな力を持ってしてもそれを押さえつける事は出来なく、又、どんな甘い夢を持ってしても、酒や女でも、それを押し静める事が出来ないものであった。

2007/10/29(月) 倉敷にがおえエレジー 題72回
ところで先ほどから天皇、天皇と言っているのに読者は奇異感じられていると思うので、脱線気味だが説明する。

 彼が常に言っているのは「君らは東北人をバカにするが、東北こそ日本の先進地帯であったのだ」

 ちょっと難しいが続ける・・・
 「大和の首長であった安日彦(やすひこ)長髄彦
(ながすねひこ)兄弟が九州に突然現れた神武の東征によって、北に追われるのだが、結局彼等は東北にアラハバキ王朝を形成する。そこは天然の良港十三港に恵まれ、朝鮮半島や大陸との交易を盛んに行い、異文化に彩られた大きな都市だった訳だ。又、食料も稲は植物派農法を知悉しており、サケ、マス等も豊富で富を貯蓄する必要もなく、自然との共存の中、信仰もアニニズムでのち神道でいう八百万神(やおろずのかみ)につながるのだ。
 また社会は完全な原始共産制で「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を福沢諭吉より何千年前に実行していたのである。エセ学者ども「大和朝廷の歴史教育」汚染されているから高天原が九州とか、大和とか、つまらぬ議論をしているが、東北にはそれより上等の最上原があったのだ・・・・云々」と何度もいうものだから、我々似顔絵かきは「又、彼の天皇論が始まった。とソッポを向き、あるものは「戦後出た南朝第二十二代の直系と称した熊沢信彦天皇の再来だ! 」という奴もいる。

 たしかに彼の書いているのは「古史古伝」(古事記や日本書記等の様な御用学者を経緯したものではなく非公認の超古代関係の資料をいう)を元にした本である。だが古史古伝と云うのはとうしても誇大妄想体系に傾きがちで、例えば分裂病者が現実の両親を認めず、神の子であるとか、皇帝の落胤であるとか称する血統妄想と同じように己自身の神話こそ真実でなければならなかった。傍からどれほどおかしな不合理なものに見えようとも、妄想体系が維持されるのは、内的自己の独自性を支える為に必要だからである。故にこの世界はどのように足掻いても、文化の起源について、どのような理論を立てようとも実証も反証も出来ないのがこの世界の弱点ではないだろうか。

 しかし、何はともあれ出口にしろ、南方にしろ肥大した自我を燃焼し続け偉業を成し遂げたのである。清原にしろだそれを続行中なのだ。俺はこういう人間には文句なしに頭を下げるのだ。

2007/10/25(木) 倉敷にがおえエレジー 題71回
だいたいこの清原と最初に会ったのは京都河原町四条通りにある銀行前でニガオエを描いている時だった。フト横を見ると一人の男がニガオエを描いているのだが、その姿は子持ちの南京虫の様にズングリ太り、蚊帳ごとき着物にドタ靴のいでたちだ。おまけに頭髪がヨモギみたいにボウボウと突っ立っているのである。
 しかし、それが別に奇異に感じさせないのは、その男の顔が求道者によく見られる人を萎縮させる様な、何か魁偉な容貌が全体を引き締めているからであろう。

 事実、彼は求道者である。

「異説・日本創世記」「最上原朝史」等の著作に全てを賭けているのだ。水戸日報には求名隠士の名において「明治天一坊、天津教教祖、竹内巨麿伝」を掲載していたのもこの頃である。

そんな眼で眺めると彼の行動、容姿全てが絵になるのだ。芸らしい芸は何もしなくても、いわば存在そのものが作品だといいたくなる役者が減少の一途をたどっているように、ニガオエ描きもそういう人が少なくなった。況や、その人を見てカッコが良いとか、悪いとか言っているうちは必死に生きていない証拠で、必死と言うのはもっと不様なものではないか。

 自画自賛になるがその清原天皇の俺は・・・
「弊衣破帽、ちびた下駄に汚れ手ぬぐいをぶら下げ、絵を描こうとも、ゲーテに泣き、ハイネに酔う。まさに多情多感なアルトハイデルベルグだ!」
 こういう矛盾だらけの事を言ってくれるのだから、あまり他人の事を言えた義理ではない。

 しかし、世は多情多感であった。新幹線開通、東京オリンピック、ベトナム戦争拡大戦略に反対する小田実等のべ平連結成、全共闘では山本清隆
(東大)や秋田明大(日大)議長が学園否定を自己主張。そして自由、平等、友愛がもっとも優れた形で表現しょうというモルガンの言葉をスローガンにヒッピーが台頭してきて、美術研究所で大の男がマスターベーションみたいな絵画等描いている時ではなかったのだ。この清原天皇と京大・熊野寮を足場に、西の風月堂と言われた六曜社、あるいはフォーク歌手の岡林信康らが作った反戦喫茶「ほんやら洞」で口角泡を飛ばし、まさに梁山泊の趣を呈していたのである。

2007/10/24(水) 倉敷にがおえエレジー 題70回
ニガオエ天一坊 清原天皇の生涯

 「謹啓、遂に出現! 言語学、歴史、宗教の各分野に一大衝撃を与える開闢以来の未曾有の奇書。併しして貴君は唯物無我論的合理主義オミコシ担ぎの手前、コソコソと我が天日のごとき大真理から逃げようとするのか初めに五十部、次は三十部、そして一部も配布不可能とは情けない男也。確かにそこは大政翼賛会発祥の地であり、難しいだろうが、宗教色の濃い土地柄でもあるはずだ。要するに金銭労力の問題ではなく、世間体を繕い、事なかれ主義的に世の中を紡いで行こうとする君の方針に疑惑を感ずるのだ。その上、文化国家的奴隷根性が強く、マルクスとか、実存主義とか、抽象的文化とか、愚にもつかない西洋外道のカスみたいなものを有りたがって拝蹲する事になり、そしてコペルニクス的新学説を誹謗し、彼を処刑する様な失態に陥るのだ。ともあれ今の私は東京の借家を追い出され、ここ京大・熊野寮も立ち退かねばならぬ宿無しの境遇故そちらで厄介になりたし。文章で言えない事はその折に・・」

 清原天皇の一坊的な手紙で、時、昭和五十六年晩秋の事で荷物と一緒に転がりこんできた訳である。

 その頃の俺はここ倉敷に引っ越して間なく、自慢じゃないが俺一人喰うのがやっとの事で、家賃も日払い?というていたらくだった。そこへ食客遠方より来た故、まるで首吊り男の足を引っ張りに来た様なものだ。しかし反面精神的に浮かぼうか沈もうか、もがいていた矢先で、年来の友人に会える方が嬉しかった。

俺に言わせると天地間で尊敬出来る人物は、何でも大本教の出口王仁三郎と博物学の巨人と言うより怪物の南方熊楠。その次がこの清原天皇で、そういえば三人ともよく顔付きが似ているように思えるのだ。故に相談しがいがあると思った訳である。

2007/10/23(火) 倉敷にがおえエレジー 題69回
「ワシもしばらく東京に住んでいる間に、精神も肉体も疲れさせ、荒らされて心のツヤを失ってしまった。これは危険だと思った。ここへ来たのはワシの自然を回復する事。

シンプルライフ。つまり素直で簡単な暮らしから心の平和を得られるのではないか。何より土に近い生活は精神的にも肉体的にも人間を健康にするし、それに孤独。人間は孤独において真の自我と存在の最も深い意義を見出すのではないか。まあ、こんな生活、君達から見れば現実生活からの脱落、逃避と言う消極的な意味しか持っていないように見えるだろうが、ワシにすれば一人集団から離れて山河草木の自然に自己を放つことが生の本源に帰一する生き方たと思っている」とまたまた談論風発・・だ。

・・・・とすれば前号で紹介したポンこと山田隗也氏のユートピアは団体としての自然との共存共栄であり、丸尾氏のユートピアは個人としての自然との共存共栄であろうか。

ところで古今東西、人は誰しも行ってみたい憧れの地、帰りたい郷愁の風景を持っているはずである。

 たとえばウエルギリウスの「牧歌」以来、繰り返し歌われてきたアルカディアや、近代ヨーロッパの理想都市像として描かれたトマス・モアの「ユートピア」。あるいは我が東洋の桃源卿など、いずれ一作家の文学作品がきっかけとなって生まれ、やがて文化に深い影響を及ぼすことになった理想卿像であろう。
 大正六年、作家・武者小路実篤がここ宮崎の日向に「新しき村」を創設したのも大いなる試みであった。

 「自己を生かす」「自由」という言葉の解釈の違いより多々試行錯誤があったとはいえ、現在この実篤のユートピア社会主義は埼玉・毛呂村で経済共同体として「完全自活」に到達した事は、史上のあらゆる「ユートピア」の試みの中で異数の成果というべきであろう。

 多くの空費と欠陥を乗り越え、文学的ユートピアが遂に一つの成果を獲得したのに大いなる感動を覚える者である。
 何故ならばだ。今、我々は超管理抑圧社会の中で、人間の生きる根本的な条件ともいえる、そうした充足感すら変態的飽食文化が奪いさろうとしてる時代においてだからだ。

 況や、この僅かな間に高度経済社会、環境整備の美名のもとに「地城」はほぼ崩壊し、家族は孤立無援になってしまい、その結果、生きているシステムの構造と機能の狂いが顕著に見え始めている時期であるからである。

 しかし、その前を個々をアトム化され、バラバラに解体されたロンリークラウド達が立ちはだかった時「地城」崩壊の傷跡が想像以上に深いことに気ずき始め、ユートピアを目指して新しい共同体が誕生しているのを耳に聞く。

 それが如何に泡沫のごとくにあったとしても、人々は己の傷つきを、不条理であったとしても安らぐことの出来る故郷とも呼べるような、心のスペースを探すため「帰りたい風景」を少なくとも自らの周囲に読み取り、描き続ける努力は一層必要であろう。


「ユートピア、それは明日の真理である」と言ったビクトル・ユゴーの言葉で結語とする。

2007/10/22(月) 倉敷にがおえエレジー 題68回
一時間も走ると小高い丘に農家を改造したアトリエ風の建物が見えて来た。バスを降り、丸太で土止めした段々を上がると、動くのか、動かないのか解からぬポンコツ車に古木が積んであり、あちこちに作りかけの椅子や机が散乱しておる。突然、犬の鳴き声で振り返ると見覚えのあるヒゲ面男が・・・
 「ヨウ、ガタロウ!こっちの犬がノムで、あっちの犬はネルと言って、ワシの分身じゃ・・」
 大笑いで出迎えてくれるのだ。

誰が沸かしてくれたのか、木の香しい風呂に入れて貰って、部屋に入ると酒肴が揃えてある。
 「さあ、さあ、遠慮はいらんぞ。まあ、一杯。ガタロウ、丁度いい。この焼酎は河童の誘い水といって、お主にピッタリじゃ・・・」
 なるほど、イモ焼酎の名前が「河童の誘い水」で河童好物のキューリ漬けもある。
 「ところで丸さん、先程からここでお子さん見かけたが何方のお子さんですか・・?」
 「ああ、トシ坊か。俺が東京でお世話になった下宿屋の息子で登校拒否児でひきこもりだよ、それで俺が預かっておる。都会ではこういう子が増えているの、解かるよ・・・親も親で富寿朗という過分な名前をつけおって・・・・全て期待大なんだよ。ここで俺が教え、暇なおりは近くの酒谷キャンプ場で使い走りしておる。皆に好かれて生き生きしておるよ・・・ハハハハハ」
 そうか、人も環境しだいと思いながら・・イモ焼酎をグッと呷るとーー曇雲飛び去り、青山在りだーー

「あの子も真面目な子だが、あの自殺したモダンアートの石田氏もあまりにも真面目すぎた。真面目な人間があんな所におると気狂いになる。気狂いにならなくとも他の奴が気狂いにする。狂人や自殺者が多くなるだけ、我々の文化が進んだ証拠と言ってしまえばそれまでだが・・・」

2007/10/21(日) 倉敷にがおえエレジー 題67回
ある時、彼は俺にこんな事を話していたからだ。
 一人の人間が組織に埋没する事なく、自己の実力だけで敢然と生きていけるのはニガオエの世界に住む事の一つの利点だ。
 しかし、社会に対して何の責任も持っていないと言うことは、社会から解放されるのと同時に自分からも解放されたと錯覚する。

 こいつが曲者で我々を少しずつ腐敗させていく。

見てみろ!あの上野公園の階段でやっている似顔絵描きの連中を・・・・削った鉛筆を二十数本胸に差し、安物のスケッチ・ブックをもって飛び回っておる。そしてそれがすめば酒だ。中にはマンションを買ったとか、車を買ったとか、何等、芸術活動しておらないじゃないか。
 目先の欲得に捉われて、己の時間を持とうとしない。
 今は何々景気とかバブルとか言われているが、どのような時代、どのような社会でも二種類の人間しかおらない。それは奴隷か自由人かという事である。一日のうち三分の一以上、己の為に時を刻む瞑想的行為を持たぬと、奴隷以外何者でもない。
 ワシは彼等より一歩退いて眺める時、一種臭気さえ感じるよ。

 「あいつ等が絵描きなら、蝶もトンボも鳥のうちよ」最後に吐き捨てるようにいった言葉が俺の
頭にこびりつき、丁度鹿児島オハラ祭りの終わった後だったので彼を訪ねてみようと思った。そこで日南駅より妙にすいたバスに飛び乗ったのである。

2007/10/18(木) 倉敷にがおえエレジー 題66回
丸尾氏よりユートピア論を考える

 ニガオエを描いていると色んな人に出会う。今日もだ。若い男で顔、服装は整っているのに眼がうつろで、終始貧乏揺すりをしながら「エカキさん、この辺りで落ち着いた喫茶店、知りません?」と問うのだが、よく見ると手には五・六個の喫茶店のマッチを持っているのである。

 思うに若い頃は落ち着かない時期と云う時があるものだ。己がやすらうべき安住の場所が得られず、瞳に涙し、心は切ない憧憬をもって、腰を下ろす場所を求めるが、そう簡単には下ろさせてくれないのである。

俺も好きな絵を諦めさせられ、無理やり進学高校に入れられた時がその様な状態であった。
 故に学校をサボっては映画館に行ったり、一日中ジャズ・キッサで過ごしたり、車を暴走させたり、ついには阪大の心療内科に無理やり押し込められるのだ。

 もう一つは十四・五年も続いたニガオエ旅。ありてい言えば金を稼ぐだけの旅が日常性になってしまい苦痛になって来た時のことである。

 そんな折、ニガオエの先輩・丸尾という男が「人間は動物から機械に退化した・・」と言って、東京のニガオエ生活に疑問を感じたのか、彼の崇拝すべきソローに感化されたのか(ソローは十九世紀半ばマサチューセッツ州のコンコルドのはずれ、ウオルデンの森に自分一人で小さな小屋を建て、権力や情報支配に引きずられないシンプルな生活をした人)宮崎・日南の山奥にひきこもってしまうのである。

 その生活はあらゆる現実生活から一歩退き、それとの接触、参加を拒否し、一切の煩わしい人間関係の外側に身を置こうとするのである。
 それは自己の内的生活をなにより優先し、アウトサイダーとして、一度サッパリと単純なものにして、自己生活を再設計していく意味もあったのだろうと思う。
 彼にすれば彼と家族、己と社会、己と自然との関係を好きな家具作りを通して具現したかったのに違いない。

2007/10/16(火) 倉敷にがおえエレジー 題65回
止まれ! この事はまた重複するきらいがあるので、革命論を多く著作されている大田竜氏の言葉を借りる。

 「(奄美革命論)の中に詳しく書かれている様に、山田魁也氏は一九六0年代半ば頃から、日本における反文明的ヒッピーコミューン運動、部族運動、対抗文化運動の前衛の位置に居り、次にトカラ列島の諏訪瀬島にヒッピー道場を作り、またインドを放浪してインドに惚れ込み、さらにこの島の観光化を企図したヤマハ資本運動ボイコット運動をえて、一九七五年に奄美の宇検村久志部落に無我利道場を作り、反対派宇検村民と共に東燃技手久島石油基地化反対運動を推進してきた。

 彼自身の言葉を借りれば、彼の軌跡はアメリカ起源の白人対抗文化、脱文明のヒッピーとして出発し、インド思想を経由して「奄美ナロードニキ」に脱皮したという訳だ」

 ところが度かさなる右翼「松魂塾」の襲撃等によって解体、彼は故郷の飛騨高山にボロを飾るのだが、屈することなく縄文人の発想からの「ヒダマ道場」のコミューンを作るのだ。

 思うに本来の共同体である村落共同体とか家族共同体というのは現在崩壊した。だけど人間は本来共同体的な存在であるという意味で共同体を作ろうと云う動きその物は、非常に人間的で本能的だと思う。しかし、今はその事も考えるのは止そう。


 踊るアホに見るアホゥ。同じアホなら踊らにゃソンソン・・・だからだ。

2007/10/15(月) 倉敷にがおえエレジー 題64回
さてこの仕掛け人・山田魁也氏の故郷は飛騨高山で高校中退後、京都で友禅染めの画工を五年続けていたが、ある日、京都河原町で大きな衝撃を受けるのだ。

 それは睦ちゃんという両腕のない絵描きが口に鉛筆を加え似顔絵を描いていたのを目撃したからだが、それは山田氏自身「せむし」という障害の劣等感を秘めていたからだと思う。

 しかし、この時より彼は自分の肉体的なマイナスを、精神的なブラスに逆転出来るはずだという信念と、自分は特別に選ばれた天才なのだという自負心と、使命感が湧き上がるのだ。丁度哲人キルケゴールが「せむし」であった様に・・・


そこで彼は友禅染めを即刻止め、昼は天王寺美術館に通って石膏デッサンをやり、夜は京都で似顔絵を描き始めるのである。
 もう一つの衝撃は似顔絵にも馴れ、日本一周旅行も終え、新宿歌舞伎町に立った時である。
 彼自身フリークスを認識し、アウトロウと自覚していたから酔っ払いやチンピラヤクザ等の人間にはビクともしなかったが、ただ一群の若者達だけが彼を苛立たというのだ。それは髪を伸ばし、ヒゲを生やし、ズタ袋を肩にした彼等は高度経済成長と繁栄を否定し、その拝金主義と物質文明に反抗し、自然との共存共生と、意識の進化を目指して生きていこうとする流れであり、混沌の一九六0年代に端を発する、我国のニューエイジの覚醒と行動の発端であったのだ。

 「ヒゲの殿下」とアダナされていたナンダ。「新宿のランボー」と言われたナーガ。東京芸大出のクボゾノ等に洗礼を受け、東京・国分寺に「エメラルド色のそよ風族」長野・富士見に「雷赤烏族」鹿児島・諏訪瀬島に「がじゅまるの夢族」のコミューンを建設していくのである

2007/10/14(日) 倉敷にがおえエレジー 題63回

俺はそれらの行為を見ているうちに、段々と背骨の隋までゆり動かされる様な衝動を感じてきた。

 孔子は「バクチでも良いから手足を使え」といったが確かに現代人は頭ばかりで生きる事を強いられ、それだけに執して暮らしているが、これでは発狂するか、自殺するか、また例えそうでなくとも、それに近い状態で暮らすしかないのではないか。そんな小賢しい知識人という奴ほどバカげて見え、乞食やそれに近いヒッピーの奴らに会うと羨ましく思うのは俺一人だけであろうか。

 イヤ、もう孔子等はどうでも良いであろう。いずれ人間は歴史上の聖人やキリストなんかよりゴリラに学ばにゃならん時がくる。「人間として」より『エテ公として」だ。俺は上着を脱ぎ捨て彼等の仲間入りして踊りまくった。それはあらゆる呪縛から自己を解放する為の意識であったか知らないが、フト、きずくと見物客も全員踊りの輪の中にあった。

 これは意識するしないに係わらず地球的な危機に目覚めた人々にとって、既製のイデオロギーや宗教は信じるに足りず、民族主義や国家主義はとっくに破産している事を感じ初めているのであろう。それらは余りにも人間中心主義だったが為に、自ら招いた危機に対処するだけの知恵も能力もない。それに対してヒッビー達の意識の進化を目指して生きてきたカウンター・カルチャの流れにこそ、サバイバルの可能性を読んでいるのかも知れない。

2007/10/13(土) 倉敷にがおえエレジー 題62回
平成の縄文人ポン

 たしか昭和六十三年二月の初め頃、岡山の須藤君から電話がかかってきた。実はこの男,ヤマギシ会の賛助会員で、その創設者・山岸巳代蔵の終焉地がこの岡山の興除村と教えてくれたのも彼であり、又、美観地区の川に飛びこんだ男、何時もフラフラしているから「時計」という東京のフーテンを俺が助けてやった所、この男とも友達で彼とは安保闘争の時、火炎ビンを投げあった仲だというのだ。それに社民連代表の江田五月氏会わせてくれたのも彼の家だったという風に実に面白い奴なのだ。

 ・・・・で今回は明日、倉敷のキリスト教会館でローリング・ドラゴン・キャラバンがやって来るという。彼等は青森・下北半島での反核燃闘争を終え、高松で行われる「原発サラバ記念日」になだれ込む途中で、俺はその首謀者のポンこと山田塊也氏にどうしても会いたかったのだ。何故なら彼はニガオエ師の先輩であり、彼の全行動に興味を持っていたからである。


翌日、早々ニガオエ商売を終えキリスト教会館に行って見ると、中にはロングヘアー、ヒゲ、ビーズ等々で着飾った若い男女で一杯だ。美観地区でアクセサリーをやっているロク、ヒロ、ハニー、ガラス諸君の顔も見える。受付では第十一回で紹介した「国際ヒッピー協会倉敷支部長」のアーチ君も実に楽しいそうだ。

 舞台では南正人とリバーの演奏に、山田魁也の「お祭りポン太」が目をさまし、すり足でスネークダンスをして見せ、その両脇で彼の娘の宇摩ちゃんと唯摩ちゃんがロングヘアーに。ピアスにネックレス、腕輪、足輪もしっかり付けてフリーソングとフリーダンスの乱舞を披露している。

 フリーとは自由、それは「勝って」ともいい、だからそいつは他人に教わるものではなく自分で編み出していくものだそうだ。ポンもそうだが二人の娘も統帥境に浸っているようで、見ている者をどうしてもジェラシーに誘うのだ。

ちなみに宇摩ちゃんとはシバァ神の妃パールバティの別名ウマより、唯摩ちゃんは「世界が病むから、わしも病む」と宣言した唯摩居士にちなんで名付けられたという。

2007/10/09(火) 倉敷にがおえエレジー 題61回
それに反し、最近ニガオエを描いていて感ずるのは人格がよく見えないことである。
極論すれば何もないゾンビーのオン・パレードだ。
顔も目鼻立ちもハッキリし、彫りが深い顔立ちなのに何となく重みがなく薄っぺらなのだ。

 こうなった原因の一つはマックス・ウェーバー風に言えば職業的論理の衰弱であるとともに、高度経済成長を境に管理社会が家庭だけではなく、学校まで侵蝕し、いわば異種の私によって乗っ取られた虚偽の公「おおやけ」に喰い荒らされ、吸収され、精神まで空洞化されたからではなかろうか。

  人相も思想も「自我と環境の衝突によって造られる」としたら、デフォのロビンソン・クルソーの物語が資本主義の成立期に書かれたことは偶然ではない。

 いまさら「自然に帰れ!」とはお笑いぐさだが、トータルな意味での自己解放、人間性回復の道を模索する時期に来ているのではなかろうか。

 もし高瀬氏の生き方に賛同される方がおられるなら尼崎・定光寺前のスナック「ハーレム」を訪ねたまえ。

 無論ニガオは大原美術館前だ!

2007/10/07(日) 倉敷にがおえエレジー 題60回
ところで一夫一妻が制度化されたのは紀元一世紀のローマの婚姻法とされている。
 ひるがえって日本では稲作農耕か入ってきて定着、制度化さたのは確実であろう。
 以来綿々と続いてきたのは一夫一妻形式が虚位に満ち不自由極まりないモノであっても、その時々の権力者が庶民を治めるのに都合がよかったからであろう。
 故に権力者だけが妾を持つことを権妻「ごんさい」として認めていたのであり、そこから外れた賤民は「せんずり」をかくしかなかったのである。                     しかし、今はもう姦通罪など風化し、性の氾濫でもう一人の男と女が一つ屋根で性行為を繰り返すことなど古くさくて呪わしいものになりつつあるようだ。
 ましてや異性を得ると同時に一種の排他主義が生じ、また己のものを私有財産とする、非常に強い利己的な本能を重ねていくからである。
 トルストイ翁は「こんなに人間個人主義になると、しまいには隣人とお互いに胸グラをつかんでお前が俺を殺すか、俺がお前を殺すかという状態になるであろう」と十九世紀の仕来りに行き詰まりを感じ嘆いておる

しかし、今はもう姦通罪など風化し、性の氾濫でもう一人の男と女が一つ屋根で性行為を繰り返すことなど古くさくて呪わしいものになりつつあるようだ。
 ましてや異性を得ると同時に一種の排他主義が生じ、また己のものを私有財産とする、非常に強い利己的な本能を重ねていくからである。
 トルストイ翁は「こんなに人間個人主義になると、しまいには隣人とお互いに胸グラをつかんでお前が俺を殺すか、俺がお前を殺すかという状態になるであろう」と十九世紀の仕来りに行き詰まりを感じ嘆いておる。
 ここのところである。
 キリストが娼婦に跪くのも、オシャカ様が王妃を寝取られ苦悶のあげく、旅にでるのも一穴主義に絶望したからではないのか。
文豪・谷崎潤一郎なんか、平気で妻の千代をやはり文豪・佐藤春夫にやっちまっておるのは一対一の愛の形が排他的であることに気ずいたからであろう。
 現代それへの高まりとして、フリー・セックスを含めいろんなコミューンが駘蕩しつつあるのも見逃せない兆候ではないのか。
 そういう意味で高瀬家も一種のコミューンで、その結合を高めるためには、性的な満足が繰り返し達成される事は詭弁でも、現代文明のデカダンスの産物でもなく、我々の深く根ざした生物に基礎を持つ、進化的なプロセスではなかろうか

「生物の次元でモノを考える」これは別に人間の崇高さや高貴さを卑しめるものではなく、むしろ今となっては逆に人間の状況を破壊から救い出す唯一の拠点といえるも知れない。
 そんな眼で高瀬氏を見直せば、束縛された生活から作られた顔ではなく実に動物くさい顔なのである。
 妻六人、子供十八人を守る使命感にあふれ、むかし、戸主なら誰でも持っていた威厳さえ感じられるのだ。



それに反し、最近ニガオエを描いていて感ずるのは人格がよく見えないことである。極論すれば何もないゾンビーのオン・パレードだ。顔も目鼻立ちもハッキリし、彫りが深い顔立ちなのに何となく重みがなく薄っぺらなのだ。
 こうなった原因の一つはマックス・ウェーバー風に言えば職業的論理の衰弱であるとともに、高度経済成長を境に管理社会が家庭だけではなく、学校まで侵蝕し、いわば異種の私によって乗っ取られた虚偽の公「おおやけ」に喰い荒らされ、吸収され、精神まで空洞化されたからではなかろうか。
  人相も思想も「自我と環境の衝突によって造られる」としたら、デフォのロビンソン・クルソーの物語が資本主義の成立期に書かれたことは偶然ではない。




下のご婦人はヘンリー、ミラーの999人目の奥さんです。

2007/10/06(土) 倉敷にがおえエレジー 題59回
それは今から十二・三年前、蝉が俺のタンカにおとらず威勢よく鳴いていた暑い日の事である。ご婦人六人、お子さん十数人を描かせ、気前よくお金を払う御仁がおり、始めはは町内会の会長、あるいは中小企業の社長。イヤ、濃い眉毛に筋肉質の引き締まった身体よりヤーさん関係ではと疑心暗鬼していると、何と全てが自分の家族だ、とおっしゃるのだから驚いた眼が点になーる。
 その点でよくよく御仁を観察して見ると、彼は一夫多妻のチェンマイ族か、ソロモン王、はたまたある動物のハーレムを想起するのだ。



 「千夜一夜物語」によるとバクダッドの宮廷には十二のハーレムがあり、そこに三百六十人の側室が住んで、王は一夜づつ回ったらしい。
 それに較べれば雲泥の差かも知れないが、この御仁も一週間のうち六夜を回るわけで体力的、経済的にも大変だろうと察するのだ。
 まして彼は皇帝でも王様でもなく、いっかいの土建業者であって、いわんや日本では刑法で重婚罪に問われるはずである。
 その点、御仁は本妻を配偶者にし、ほかの五人は同居人の形をとって、子供だけは高瀬姓の私生児として認知していると言う。
 つまり雑居家族の形態を取っておられるのだ。

氏はおっしゃるのだ。
「一夫多妻生活の秘訣は世間体など気にせず、博愛主義を貫き、そして当番の女には物心両面、勿論セックスも大いに満足さしてやる事だそうである。
 それには常に健康に留意し、朝はアロエジュース、昼はレア・ステーキを何枚も喰い、なんとっても快眠八時間厳守とか・・・・それで
  
  ゆうべ三つして  今朝また二つ
            合わせて五つ
  紙は無くなる   眼はかすむ
    シノノメノ   ストライキ

・・・という具合にウンと突き出すサービス精神が必要らしい。涙ぐましい努力じゃないか。
 ただし、女が高瀬流のタブーを侵した場合、全体責任を取らせるというのだから、男女同権など叫んでいる女代議士に聞かせたい話であり、春秋の説法でいけば、彼女らこそ女の味方と称して実は女の敵ではないのか。
 何故ならば所詮、女は献身的、盲目的、没我こそ女の持つ徳であり、その点を高瀬氏は良く知悉し、具現されているのには、ただただ、俺の息子もこうべを下げるのみである。

2007/10/05(金) 倉敷にがおえエレジー 題58回
妻6人、子供18人の一夫多妻論者より

 「渡り鳥が渡ることをやめて一所に定住し、その地で死ぬようになってしまった」と云う新聞記事を読んで愕然ときた。
 それは人間がエサを与えるのか、空気中の大気が暖房で暖かくなったのか、北に帰らず巣を作って産卵し、繁殖するようになったと云う。
 ちょうど今の俺も美観地区に定住し、観光客のおこぼれでなんとか生きているように・・・
 俺は渡らない渡り鳥のように堕落したと思った。
 定住の幸福とは生き物の患う最後の病気なのだ。
 保護された生物は川の流れと同じく低い方に流れ、安楽椅子に寄り掛かりたくなるものである。
 美観地区に行く途中、常々思うのはその事で「旅にでも出るか?」ハンドルが自然倉敷駅の方に向かうのである。
 しかし、汽車に乗るわけにはいかぬ。ここに腰を落ち着けたのは己の意思にもよるが、色んな人々の好意があったのだ。
 もし簡単に乗ってしまえば自他ともに裏切るだけでなく、平宗盛は讃岐の浜で笑うだろうし、二位尼御前は壇の浦で苦笑するだろう。
 俺はひたすらペダルを踏んで警察前をコソ泥のように横切り、中央病院前をアル中のごとく走り抜けると鶴形山のトンネルに突き当たるのだ。
 このトンネルでは王将・大山益晴が将棋を指し、戦争中は特攻機「白菊」を作っていたのである。
 それを思うだけで日常より非日常になり変わり、川端康成はトンネルを抜けると雪国だったが、俺にとっては稼ぎの場なのである。
 そして何よりの救いは日本全国ばかりでなく、世界の人々に出会えることである。
 たとえば財田川事件の元死刑囚・谷口正義氏が仏像の絵を持ってきたのにはビックリした。一枚の絵を鉛筆で一年かかって描いているのである。デッサンは狂っているが冤罪のルサンチが籠められていたのだ。
 そんな一人が一夫多妻主義の高瀬氏だったわけである。

2007/10/04(木) 倉敷にがおえエレジー 題57回
俺に言わせると何処の女でも同じなのだ。
 女心を捕まえるには時間と関心を惜しみなく相手にそそぎ、なり振りかまわず、常識に縛られず、恥をわすれ、ひたすら一体性を求めれば良いのである。
 若さも地位も、金も必要ではない。
 この現代の孤独な社会では触れ合いと関心に飢えている女が満ち溢れている。エネルギーさえ惜しまず、他のことに眼をつむる勇気さえあれば岡山女を手にすることができるのだ。

 雨は降るにふる・・・そこで俺はタクシーを呼び「アトリエで続きを描こう」と熊ちゃんもナース嬢も荷物もほおりこんだのである。
 「今日は俺がおゴルバチョフ、君達とノミノケーション、君は何とノーメル賞」と言いながら・・・

さて我々の一宵の宴にも朝が来た。
ローマの詩人は性交を終えたる後は全ての生物は哀しいとも歌った。
 結局ナース嬢は不立文字で悟りを説く、熊法師より、世を茶化して生きるクラゲ法師のモノになるのだが「ノドが乾けば水を欲する。だからといって我々は水を愛しているわけではない。この事は性欲に当てはまる」と云うオルテガ説でナース嬢を愛した訳ではない。
 ところが、それからの彼嬢は度々やってきて掃除をし、花を活ける。食事も作ってくれる。ときにはナース服を持ってきて、廃人同様の細胞に躍動を与えてくれるのだ。
 五山の僧都が堕落したのはここの所である。
 良寛でさえ69才で29才の美しい尼僧・貞心尼になにもかも忘れて縋り付いておる。
 驚くのは一休禅師などは79才で森「しん」という盲目の女を妊娠させておる。
 万物全て陰陽あって一体となって動いていくのは真理である。
 生まれた物は死に、出会いがあれば別れなければならないのも真理である。

 真理は何も難しいことではない。己に素直になる事であると、悟った訳だがリスクとして誤解もある。

 ある日の事、昔の美術学校時代の女絵描きが遊びに来た。
 ところが我々留守の間にナースが来たとみえ、女絵描きの服や下着は八つ裂きで「倉敷の大久保清、死ね、死ね、死ね・・・」不連続線の上にナイフ添えられてあった。
 女の感情が動けば破壊と云ったのはフロイトだ。女が修羅にあった時、黒髪が逆立つそうである。

 俺は「ヒィーッ」と叫んで呆然自失した。
人が寂滅する刹那には大概こんな声を出して、後は静かになるのであろう。

2007/10/02(火) 倉敷にがおえエレジー 題56回
酒屋から帰ってくると熊ちゃんの前に赤い傘が一輪咲いておる。一ヶ月に一度は熊ちゃんに似顔絵を描かせる看護学生だ。
 相変わらず鼻穴から描き初めており、それは熊ちゃんにすれば絵の人物もまず呼吸させてやる論理だそうである。

 さきほどのスケッチブックを何気なく見るとダルマ絵の上に「所作を用いるに無心にして所作自ずから沸き立つ・・・云々」と書いてある。盤桂禅師の禅機だ。
 俺は酒のせいもあるが急に頭に血がのぼり、看護学生に向かって強い口調で言い放った・・・
 「君はどうして彼ばかり描かして、俺に描かせてくれないのか?」
 「酔っ払いは、一時の発狂です!」とピタゴラスで反撃できたもんだ。
 「何!発狂?俺の絵は頭から生まれる。身体なんぞは借家同然だ。だいたい酒というものは精神の飢餓が求めるものである。君が酒を飲まないのは精神か飢餓状態にないか、あるいは心の飢えに気ずかないのだ。WHO「世界保健機関」によると世界で毎日千人が自殺し、未遂を入れると一万人。日本でも毎日八十人が自殺、その三倍゛未遂という現状でる。そこを救っているのが酒なのだ!」一気加勢に言葉を投げつけてやった。すると「アナタのは詭弁よ、しょせん、男のヒステリーで抑圧された性欲と反動だわ・・」と背負いなげだ。可愛いいナースの言葉ゆえ、俺は殴りつけられた様な気持ちがした。

たしかに最近の俺は女に縁がない。旅していたときは女に秋波送られ、誘惑された事もある。彼女らは性欲強く持て余していたのかも知れず、欲情の激しい女は男なしでは居られないのだろうと思った。
 そこで自分を満足させてくれる情事の対象を探すが、イザとなると女には以外に難しい面がある。会社や知り合いでは一寸具合が悪い。
 街で拾ったイナせな男は最初はおとなしく紳士的でも、一皮むくとヤクザになる事もある。面白くって後くされのないのは放浪エカキと言うことになるのであろう。
 しかし、この岡山に腰を落ち着けたトタン女の肌からほど遠くなるのだが、何でも俳優の殿山泰司薯「日本女地図」では岡山女の貞操観念の堅いこと石のごとしと書かれている。その理由としてここは人口密度に較べて女学校が多く、そこへキリスト教などでキャンキャンで手のほどこし様がないのだそうだ。
 胴長で色黒、陰毛は短く縮れており、体位は松葉くずししか喜ばぬ・・・・もう、ここまでくれば誹謗以外何物でもない。
 川西町の飲み屋の女傑などは「何、言ってるジャー、女は昔、太陽だったァ。その殿山と言う男が来たらホーデンを噛みきってやる!」と変な平塚雷鳥ばりのタンカである。

2007/10/01(月) 倉敷にがおえエレジー 題55回
「花時、風雨多し」と言う。
 まさにこの言葉通り、朝には晴れていたが、昼前より風吹き、雨打ちの天候になって来た。

 ここはK氏の好意で、その軒下を借りているのでさほど雨はかからないが、それにしても何処の馬の骨ともわからぬ乞食エカキに対して、親切を尽くして下さるのには、やはりその人自身の人徳であろう。
 いわんや今日は俺一人ではなく、広島の三原より熊ちゃんまで来ているのだ。俺は早速、そこの叔母さんを無料でニガオエを描いてあげた。これはちょっとした事であるが、その意義、効果は大きいのではないか。何故なら実人生は観念より行動だからだ。

 ところで熊ちゃんはここに来るのに汽車賃が二千円以上かかるので、少々の雨でも帰れない。セッセとダルマ禅師の肖像を模写しているのである。「無心、一切無心,以描為天」のごとくである。

熊ちゃんは禅門への行程については口をつぐんで語ろうとしないが、推測によると山田無文師との出会いからであるらしい。
 それまでの彼は天理教や一燈園に出入りしていたが、山口県人特有の観念的で理想主義的情熱を癒してくれず、ひたすら只管打座に救いを求める事になるのだ。
 頭蓋骨の内部に巣食った苦悩の重さを確かめるかのように、彼らしく現実離れした奇妙な方法で・・・・己の意思で精神病院まで入院して面壁何年かを過ごすのである。

世を軽薄に沈み浮いているクラゲ法師にすれば、鉄壁金山と悟りすまし安心立命に立つより、森羅万象に対し多情多根たれと言えないのだ。完全を現実に求めるのは最も危険な人生の愚拳だと言えないのだ。文化の行くてを教えるものは文明の怪霧のうちに潜んでいるデモンであると,言えないのだ。

 前の倉敷川ではミズモに雨が落ち、無数の輪が発生し消滅していく。人の生まれ死ぬ世の中を高速度で見たら所詮こんなものであろう。もうこうなればゾロゾロ前を通る観光客でさえ無意味に見え、それを眺めている俺も無意味であろう。しかし、このような宙の幻花はよろしくない。

俺は急いで酒屋に駆けこんだ。


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