美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/01/11(木) 40年前の美観地区日記より。 十五回
 なんでもショウペンハウエルの動機説によると、俺みたいなつむじ曲がりの男が時々震動するのもやっばり虫の精だそうだ。
 虫といえば啓蟄と言って虫や草が冬眠から醒めて活動を始める日のことで、この頃になると俺はソワソワし始める。それに昨夜は死に写真の婆さんと坊主の肖像画を描き、なんとも言い難い気分にもなっていた。
 夜の明けるのも待ちきれず薬局に飛び込み鎮痛剤ハイゲレランを求め、十錠ほどウイスキーで胃に流しこんだ。「現在の非ピリン系は駄目です」しばらくすると身体が揺れ、心が揺れ、いつの間にか俺自身も倉敷行きの汽車に揺られていた・・ ・・ 


 倉敷商店街では喫茶店のガラスに映る己が姿に微笑し、会釈する余裕も出てきた。
 出てきたといえば美観地区はすごい人出で、倉敷川の川辺に並ぶ土蔵群や白壁の商家に感嘆の声をあげておる。それはそうだう。牢獄の管理システムから生まれた団地やマンションに馴染むのは家ダニぐらいで、所詮人は馴染めないのである。それゆえここには慰撫されるものがまだ残っているのだ。それにも増して観光客を慰撫するのは迎える人達の姿勢である。酔言を吐けば道端に並んでいるアクセサリーの若者は客の喜ぶ顔を見たい一心で良い作品を作り、美術館の館員は芸術鑑賞を心いくまで味わえるよう気を使い、喫茶ウエダは美味しいコーヒを飲ませようと余念なく、塚村酒店の老刀自は酒飲みの健康を案じ、誓願寺の住職はお経をあげるたびに泣く。彼等は自分の仕事に誇りを持ち、他人の仕事を尊び信じあっているように見える。一人一人がカレーの市民のように見えるのだ。

2007/01/10(水) 40年前の美観地区日記より。 十四回
 画家F先生の紹介で、文化人K氏宅の隠居に腰を落ち着けた。部屋は母屋より遠く離れ、ビワや柿の木が鬱蒼と繁り、裏は隣の酒倉がピッチリ喰っ付いているものだから昼でも暗い。天窓はあるにはあるがまったくの座敷牢である。
 しかし、その頃の俺は四方八方のタカマチ・香具師・テンプラ学生の花車に担がれる事に飽き飽きしていた。キザに言えばあ
らゆる情報過多で分裂、混乱、自らの主体によって論理を構築することも、血を造ることも出来なくなっている自分に苛立っていたと言ってもよい。故にけむる煙に目もくされる座敷牢であればあるほど俺の心を癒してくれるのではないか、思った。
 K氏 は「駆け落ちするなら津山にきんちゃい」という言葉がここにあって、昔から落人や駆け落ち者を匿ったと胸を張る。し
かし、ヒネクレ者の俺に取っては住めば住むほど、この言葉は逆説的ユートピアに思えて仕方がないのだ。
 例えば「間引きの多いのは日向と美作」「百姓一揆の多発」「七夕祭りのタブー」「炬燵商売」「官尊民卑的ヒエラルキー」等々・・・・・
 こういう悪評は美作人が何時も自分を他人より、一段高い所におく気風が絡みあって現出したと見てよいのではないか。この自意識過剰の事情を作家・立原正秋氏が辛辣に述べておられるのでここでは割愛するが、とにかくこういう中にトップリ浸かっていると物狂おしくなってくるのだ。
 とくに友人が訪ねてきたときは血がジェット機のごとく急上昇、例の蓬髪に日蓮ヒゲ、おまけにステッキで津山の町を徘徊するのである。俺がそういう風体で傲慢な顔つきで歩いているのを見て、何の為に威張っているのかおそらく町の人は馬鹿か、気狂いぐらいに思っていただろう。
 しかし、俺はこの空威張りでやっと己の侘しきところより助かっていたのである・・・・・・

2007/01/09(火) 40年前の美観地区日記より。 十三回
美作・森五代藩主衆利が狂乱、断絶後、赤穂・浅野家に仕官したのが神埼与五郎だ。「ちなみに衆利の狂乱は七月七日で、美作地方では近年まで七夕祭りはタブー化されていた」
 逆に祭りから祭りで狂乱、赤穂から美作に入らんとするのが蓬頭エカキ事この俺である。
与五郎は死後、忠臣蔵四十七士の一人として名をあげるのだが、俺は前回で葬式あげたばかりなのに一向名はあがらない。ホトケとはあらゆる制約からホドケた人の事だそうだが、ホドケルどころか持て余した身を津山線に預けるていたらくである。
だがこの道は昔、出雲街道とも云い隠岐ノ島に配流途上の後醍醐天皇始め法然、紫式部、オランダお稲、千利休、赤松燐作、セン・片山、薄田泣菫、谷崎潤一郎等々が往来しており、この道が偲ばれるのだ。
無論、こういう有名人はごく一握りで、大半は無名で俺みたいな人生座挫者や行商人、時には罪人や駆け落ち者もいたはずである。

道とは未知であり、いわんや業深く人生を呪い悔恨を抱いた旅人はどんな思いで行く先を予測したのだろうか。

 「人の世の旅は冬の旅。一条の光もなき闇の中を我等は道を求め往く」まさに詩人セリエーヌ歌うような旅だったかもしれず、それを思うと又、感慨深いのだ・・・・・・

2007/01/08(月) 40年前の美観地区日記より。 十二回
 なんでも岡山のF先生が「肖像画の手伝いをしてくれ」という話もある。そうだ、居を岡山に移し土・日ぐらい美観地区に行ってニガオエを描く。酒は少々に控え、女にも手を出さず聖人君子みたいなエカキになって倉敷の人々に愛されるのだ。そしてある日突然、ニガオエを描き終わった時、瞑目の後、即心成仏といこう。そこでだ、俺の葬式が始まる。男子一生、一度は虚栄の旗印を振りかざせと言ったのは太宰治だが、ここは俺の生涯通じてもっともドラマチックな一幕といきたい所である。それにはやはり寅さんにあやかって山田洋次演出風でいこう。


 さあ、出発だ! 一番先頭の船には俺の棺桶だ。二番目は姉のサクラと兄の豊。そしてチモトコーヒー、点心堂ちもと、ちもと画廊、地本屋旅館等ちもとチエーン一同。ああ、バスク老や星の王子さまはその頃死んでかたずいている。後の三艘にはハッピ、鉢巻した阿智神杜氏っ子の威勢のよい若い衆、笛、太鼓、三味線の鳴り物入りで騒がしいことこの上ない。一方、土手の上では川西町あたりの綺麗どころ二・三十のスインキョウ踊り。天領太鼓も鼓膜がやぶれよと鳴り出し、それが合図か五艘の船が一切に倉敷川を下りだした。エンヤドットエンヤドット、岡崎さまのヨォーーー向山と鶴形山で今や遅しと待っていた花火屋が大筒におもいをこめて火をつけた。スーススス、パパパパー・・・・・・・パーーッと散ってパーラパラパラ。
 それを見ていた観光客が隣のオヤジに「今日はお祭りだっか?」と聞いておる。「なにっ、ボッケーアル中のニガオエ描きが死んだだけじゃ・・・」答えるオヤジに心なしか目尻に光るものがある。パパーパーン、パーン空中で割れた花火より無数の一万円札が花開く。大道で得たモノは大道へお返しする、それが俺の持論だ。足腰まがったジィさんもミンクのコートを着た御婦人も、店員も主人も駆けつける。そこには平常の取繕った顔も姿もない、己が心の開放があるだけだ。さきほどのオヤジも例外ではない。やっとの思いでヒラッタ紙には「面白しくない世の中を面白くするのが人間のつとめじゃ」と書いてあり、そして隅に小さく「あの世にも旨い酒と粋な女はいるかしら・・・」
 そんな騒ぎの中、五艘の船は下がっていく。その先にある市営粗大ゴミ焼却炉の煙突が、勢いよく真っ黒い煙りを吐き出した・・・・・・・・実に明るい朗らかな青空である。

2007/01/07(日) 40年前の美観地区日記より。 十一回
明るい朗らかな青空だ。
 祭りは赤穂義士を偲んで、四十七士の行列が大石神社から駅前を廻り、花岳寺まで行進するのだがそれを見ようと沿道に多くの人々が溢れかえっておる。それ以上、お祭りムードを盛り上げているが言わずと知れた露店の数々だ。赤、青,黄、色とりどりのテントの中ではお好み焼き、カルメ焼き、焼きソバ等など何処か昔懐かしい匂いが立ち込めておる。大人の顔は童心に返ったごとく生き生き輝き、況や子供の眼は次なる獲物を求めて、のし歩くケモノのようでもある。ここには絶えず追いまくられ、せせこましい生き方を強制された現代人が忘れ去ろうとするモノ、すっかり失ったモノ。あえて言えば変態的飽食文化が奪いさろうとするモノがある。つまり大人も子供も管理社会の時間割りから抜け出し、誰憚ることなく「懐かしき無礼講」の中にとっぷり浸かる事ができるのだ。ある露店商が言う「俺達は夢をを売っているのだ。懐かしさと郷愁の匂いを売っているのだ」と。たしかにここではワルプルギスの夜が一杯あって、道化の猿が跳びはねまわっている。
 山田洋次監督描く「男はつらいよ」の渥美清演じる寅さんなら「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ、お尻の廻りはクソだらけってぬぇ。おばさん・・・まかった数字はこれだけ、一声千両といいたいね。オイ、ダメか?八百・・・六百、よし・・・浅野内匠頭じゃないが腹切ったつもりで五百両だ。持っていけっ、泥棒!」とこう言うだろう。彼もまた各地でお祭り「タカマチ」や縁日で、このような口上で品物を売る事を商いとするテキヤである。これは的屋とも書き「うまく当たれば儲かる者」といった意味にも通じる商売で、その元締めの親分と子分は「神農道」をうたい、「何々一家」といった名をなのる。つまりヤクザの世界にも通じるような一面も持っているのは確かなようだ。無論、人の良い金魚すくいの叔父さんや、甘栗屋の叔母さん等もいるが、テキヤはヤクザ、ヤクザは反社会的暴力集団。ふつう社会市民がイメージするテキヤの最大公約数はこんな図式ではないか。
俺だって例外ではない。とくにチャクトウと言って場所を貰いに行く時が一番緊張する。受付場所ではパンチパーマの男達が入り混じりテントの中は空気が極めて薄く、俺達はそれだけで酸欠状態の金魚になつた。そして一列のウンコになってただ「似顔絵描きですが・・・よろしくお願いします」と頭を下げるしかないのだ。ここには烈しい掟がある。だが寅さん映画で見る限り「テキヤ」の世界、渡世の義理というものは何時でもいとも簡単に寅の都合のよいように、その世界に入ったり出たりしてしまうのである。所詮、寅の香具師はドラマトウルギーの上に成立しており、自然リアリズム論で検討するほど馬鹿げた事はない。「映画はひたすらそれを見る人の幸せを願って作らねばならない」「人を楽しませるのが芸術」だと柳田国男の言葉を座右の銘にしている氏のことだから、一笑に附されてしまうであろう。故に寅が義理「建前」と人情「本音」を御都合主義において、取っ換え、引っ換えしても誰も怒らない。反対に「しょうがねぇなぁ、寅さんは!」と自分の中にある寅さんを許容し、カタルシスの作用でシンドさを解消しつつ、映画館の暗闇で思わず涙ぐむのである。ここに二十数年近くも汎国民的な映画となりえた秘密が隠されているのだと思う。しかし、しかし、この映画は後何年続くのだろう。例えば四十年代の神であった「網走番外地」の高倉健が年を感じさせたとき、シリーズの命は終わったように、寅さん演じる渥美清も老いぼれ、足腰萎え異郷でと・・・想像するだけでそこには笑いがない。そこには憐れみがあるだけだ。ひるがえって俺も祭りから祭りの生活を続けて十数年、もうソロソロ有封にはいってもいい時分だろう・・・・

2007/01/06(土) 40年前の美観地区日記より。 十回
 駅の片隅に何時の間に来たのか、雲水姿の老人が座禅でもするように読書していた。驚いたことにその容貌風采たるやまことに孤影飄々だ。とくに怪しげなる着物は、過去において黒かったという事実を危うく忘却させるくらい、古色を帯びたものであった。やはりさきほどの鼻ボテ警官がただ汚い格好している判断からであろう、無遠慮な職務質問を始めだした。「そりゃ、乞食だ、浮浪罪だ」警官のエキセントリックな声が聞こえる・・・・老雲水黙っていたが、急に・・・

 「拙僧を乞食と呼んでもよろしい。そなた達も鎧で身を固めていなさるが、人間、みな裸になれば乞うて喰うて生きているのじゃ。今日まで全国津津浦々、浄財を集め禅堂建立のため行脚してきた訳だがそれが罪になるというなら、あえて言葉を呈そう。まず周の禮学からやって頂きたい。民を治めるには笛を吹き、銅鑼を叩いて祀りごとをおこなったのじゃ、それが治国統民の極致だったのだ。お解かり申したか・・」老雲水の意外な反撃に警官は呆気にとられておる。考えてみると蓬頭垢面の乞食エカキ、そして老雲水。これらを見たら世のどのような積極主義者でも、その一瞬に玉手箱は開かれショーペンハウエルの虜になるのではなかろうか。「お前達の行く末は野垂れ死にだ・・・」警官は厄病神を振り払うごとく、捨てゼリフを残して立ち去って行った。

 「雲水とは底の底まで落ちる行なんじゃ。乞食の心にまで下がって物乞いをし、己を最下等の人間の立場に置く事によって、そこで始めて人の親切や暖かさがわかる。大自然の摂理と恩恵に感謝する気持ちも湧く。人間乞食になるがよろしい。それには義務教育を終えた青年子女に一年程の放浪、あるいは歩き遍路になることを申し述べたい。つまり流転即成長じゃ」この老雲水は人間は一度集団から離脱して、山河草木の自然界に自己を放つことが生の本源に帰する生き方だと言いたいのだろう。すれば我々大道絵師は一刻たり とも雨降って地固まる事はありえない。雨降って地流れるの心意気だ。
 なんでもドイツの社会学者であるテオドル・ガイガーによると放浪者を政治や芸術、教育面における指導的知識人と並べて論じるべきだとも提唱しておる。
 ハルマゲドンを経過する事なく、人々を後史文明に送りだすためにも、今、我々は生物の次元でモノを考えねばらぬ時期に来ているのではないだろうか。

 乞食エカキは二日酔いのボンヤリした頭で溜息をつく。眼ヤニをこする。尻の下のクシャクシャの新聞紙の上でアクビをする。夜が明け雲が飛ぶ。乞食と乞食の別れはサッパリしたものだ。「恙無きよう・・・・」の一言で南北隔てるのだ。故に老雲水の未来のページがどんな事が書かれているのか俺は知らない。ただ迂曲転回していく俺の舟先はまだまだ怪しげな処へ没入していくのである。

2007/01/05(金) 40年前の美観地区日記より。 九回
 「まぶしいな・・・」眼を開けると、この真夜中に警官が二人、不審そうな顔をして立っているじゃないか。懐中電灯を突き出し、腰はヘッピリだ。横を見ると、迷宮は例によって「悲哀」そのもののような眼つきをし、田島は土の中に潜った蛙が俄かに掘り起こされたとでもいうような面構えだ。
 「あんた達、何しているの?」「何しているって、ごらんの通り寝てますけど」「・・・・・・・?」二人の警官とも、口を半開きにしてまるで鳩が豆鉄砲を喰ったような面持ちである。「イヤ、仕事は何をしているのかと聞いておる」こんな風来旅をしていると度々こんな職務質問がある。故に俺は馴れたもので頭鉈袋をヒックリ返し、有名人の似顔絵、スケッチブ ック、筆入れ等を順序よく並べ「人の顔をデッサンし、それと引き換えに金を貰って旅している。つまり似顔絵かきです」と素直に言うたもんだ。それは俺が宿命論の信者だから何でも因縁だと諦めることにしているからである。
 水素と酸素が結合して水になるのも因縁だ。こうして警官がやってくるのも前世の因縁だと思うと腹が立たない。俺の思想はかくのごとく簡単であり明瞭である。
 ところが明瞭でないのは彼等である。今度は野外イーゼルを風呂敷に巻いたものに眼を付け「開けて見ろ」という。顔の真ん中に芋虫みたいなボテボテした鼻が座禅し、鼻ばありの警官がだ。彼にすればその物体に猟銃でも入っていると考えたのかも知れない。しかし、大道ニガオエ描きにとってイーゼルとは、サムライの刀、釣り師の竿、色男のネクタイみたいなもので絶対の必需品なのだ。
 迷宮独特の紆余曲折的な説明に警官はウンザリしたのだろう。「ニガオエ描き?そんな事して何の役に立つ、もっと建設的なことをせんとオエン」いかにも不機嫌にいってグルッとあたりを見回した。

2007/01/04(木) 40年前の美観地区日記より。 八回
C 雨降って地流れるニガオエ師


「美観地区とは名の示す通り、白壁や美術館だけをさすのではない。ポイント心の風土てある。そこには当然、人とのかかわり合いがからんで来なくてはならない」これは美観地区で酒屋を営む老刀自さんの言葉である。

 たしかに初めて倉敷に来た俺にとっては白壁や美術館より、何より嬉しかったのは自称バスク人の子孫や星の王子さまに会ったことである。それは極言すれば一陽めぐり来たって万物蘇生の気分でもあった。何故ならばこの画一化した世の中に異色ある人物が段々と跡を絶ち、いわゆる良識ばかりの発達した同じような人間ばかりになれば、世の中は退屈極まりないものになるからである。それに帰途ゴミ箱に首を突っ込んでいた乞食氏を見たことであつた。大道ニガオエ師は知らない異国の土地をの人情を乞食の有無において推し量るのだ。我々の経験からいうと乞食のいる町はニガオエが描ける。それだけ町の人の心にゆとりがあるという証てあろう。ところが誰でもウスウス感じていると思うが生活環境が整備されるということは必ずしも幸福につながっていないという事である。人間が築く建築、主義、政治、宗教運動の底にはそれがどのような立派な町であり、良き運動であろうとも獣的な利己心、優越性に対する酷いあさましい我欲の念か動いているはずである。それはあくまで虚態の繁栄の社会なのだ。その社会の表層から隠蔽されたモノを人々の眼前に引きずり出し、秩序の仮面の下からカオスを涌出させる者が乞食といえる。バランディユ風に言えば「心理学的な儀礼の偉大な司祭」と呼ばれる所以である。故に乞食の姿なき町は滅びる・・・・色んな妄想、幻惑、放屁。ウトウトしていると瞼の裏が突然、真っ赤になるではないか・・・・

2007/01/03(水) 40年前の美観地区日記より。 七回
我々は緑御殿の石段に座って話しをした。さきほどの牛のクソ面男、幸福そうに熟柿の匂いを発散させているのだが、星の王子だというのには驚いた。汚い鼻毛をのばした王子さまだ。きっと九等星か十等星くらい の星だろう。ところが以後、彼とは倉敷市民会館での反戦フォーク、草の根市民運動「元気屋」での反核ディ スカッション、倉敷キリスト教会館での似顔絵師ポンこと山田魂也のヒッピーコミューン運動など俺の行く先々 顔を会わすのだ。しかし、彼と付き合えば付き合うほど、まったく俺の文章のごとく春だか秋だかハッキリ分からない王子さまである。サン・テグジュベリーの「星の王子さま」によると「本質的なモノは目に見えないこと」とある。すれば彼こそ本質的なモノを掴んでいるのかも知れない。と勝手に飲み込むことにした。

 「わしゃ、バスク人の子孫じゃけんのぅー」待ちかねたようにおっしゃるのはベレー帽の爺さんだ。一人一人 舐めるように見ていって、少しでも異を唱えそうなら怒鳴りかねない剣幕である。聞くところによるとキリストも 除福も日本に墓がある。故に彼がバスク人であっても可笑しくない。我々にも損得はない。助け舟の恩義があるから聞いているだけである。ただ、よく観察してみるとベレーはバスク人の発明であり、バスク固有の三角顔。眼は洞穴のように深く、おまけにワシ鼻でそういう眼で見れば見えぬことはない。いっその事、赤いネッカチーフに銃でも持たせればフランコ将軍も裸足で逃げ出しただろう。ピカソはヤンヤの拍手をしたに違いな い。上手くいけばゲルニカの絵が貰えたかも知れないのだ。「わしゃね、日本人のコセコセしている所が嫌いなんじゃ。さきほどのガードマンも枝葉末節に捉われておる。なぜ姿、形ばかり見てその奥にある深層の本質を見ようとしないのか・・・まあ、あの男に言っても無駄じゃろうが・・」こういってバスク老は深く凹んだ眼をしばたいた。「言ってあげるが長い人生、ときには自分の思う通りにいかんもんじゃ。望むのと生きるのは別の事。こんな事でクヨクヨするんじゃオエン。肝心なのは望んだり、生きたりすることに飽きない事じゃ、後は我々の知ったことじゃない」人生の重い荷物でチリメン腰にはなっているが、幾つかの人生の悲哀を通過したあと故意見は確実で俺達に安らぎ希望を与えてくれた。やっぱり亀の甲より年の功だと思った。

 さて、こんな騒ぎにまぎれて、奇怪千万な年末の夜がコソコソとやって来た。俺達は明日、播州赤穂義士祭りに討ち入りに行かねばならぬ。倉敷駅にて三人、野良犬に喰われぬようかたまって寝た。寒かった。カタツムリがもしいたら、なんて人間っていう奴は不便な生き物かと笑っていただろう。

 時、昭和四十六年十二月十三日の事であった。

2007/01/02(火) 40年前の美観地区日記より。 六回
B  バスク老と星の王子さま

 


 ボナールの「欄干の子猫」見たかい。色の魔術師といわれた彼の絵も近くに寄ってよく見ると汚い色の複合だった。嘘で大きな真実を生む、この嘘と真実の微妙な釣り合いが問題で極端な誠実さとはやはり奇異で鼻持ちならないものだね。と小野君こと迷宮かいう。俳優の加藤剛に似てハンサムだが「三日前に母親が亡くなりました。禅坊主に帰依して三七・二十一日間、ソバ湯だけでとうしました」と言うようなやつれた大岡越前ノ守だ。げんに彼は京都の大徳寺で座禅し、禅の瞑想だけでは飽き足らずヒッピー詩人ゲリー・シュナイダーらが日本でやっていた「部族運動」にも片足を突っ込んでいた。故に彼の言説は紆余曲折的であり、そこから迷宮というアダ名を献上されたのであろう。

 もう一人の田島はカリエールの「思い」が気にいったとみえ絵ハガキを買っておる。煙りのようにボンヤリした中に憂愁にみちた女の顔があり、どことなく不安を蔵する画面でる。後の話であるが、あの幼女連続殺人のMはこの絵の前で半日でも一日でも立ちつくしていたという。思うに、Mにとっては現実の世界がつらい、それを真っ向から乗り越えるではなく、空想の世界に逃避・埋没しょうとした時によき対称であったのではなかろうか。すれば作者カリエールの「悲哀を知らない人は、善についても何も知らない」という言葉と裏腹でとんでもない間違った鑑賞していた事になる。とまれ・・・こんな所でM論していたら俺達三人とも野垂れ死にだ。Mは酒と共に胃に流しこんでイーゼルを美術館の前に突き立てる事にした。


 季節がら柳の緑はなかったが、倉敷川を挟んで残っている白漆喰の塗籠め造りの土倉、民家の持つ品位と格調の高さには驚嘆した。いつ鞍馬天狗が現れても可笑しくないと思った。天狗は現れなかったが観光客もポロポロである。しかし、さすが美術館前のせいかそのポロポロが全て描かせてくれるのだ。俺は意味もなくバッタのように平身低頭する奴とあべこべに後ろにのけぞる奴は信用しない事にしているが、この時ばかりはのけぞるだけ反り返ったものである。だが世は人事雲千変だ。さきほどからネズミのように首をだしたり引っ込めたりしていた男が「わしはガードマンだ」と言って、さも珍しい種類の連中が来たとばかり俺の前に顔首をグッと突き出すのだ。「いま美術館はゴッホ、ルオー等の作品が盗難にあって取り込み中。こんな所で幕を開けると迷惑する、すぐやめちゃい」との御託宣である。幕?・・・成る程、俺にしろ越前にしろ面体がドサ廻りの旅役者には持ってこいの風格だ。三流芝居なら勧進元の声は天の声である。皆をうながしてニガオエ道具を片付けていると「ガードマンさんノォー、このヒゲの先生方が芸術活動なさるのを、どうあっても止めさせなくちゃ顔が立たんとオエンのか。ここを東洋のモンマルトルにしたいと言うのが大原氏の意向じゃろ。やらせてあげなされ」声の主はチリメン腰だがワシ鼻にベレー帽の粋なジイさんからの助け船である。すると今度は「オメエリャの出現は倉敷の一大啓蒙じゃ、かまやせん、ヤレ・・ヤレ・・」と牛の糞を踏んずけたような顔の男が、梅毒の広告みたいな世辞で追風を吹き込んでくれるだ。船は頑固で風は横着、ネズミは威信で三つ巴である。なんでも世の中の悶着は機械のせいだと先哲ウイリアム・モリスは指摘したが、ここの悶着は俺達のせいだ「まあ、まあ」と言いながら騒動の原因を作った俺が仲裁に入って、皆を緑御殿まで退却せしめた。それを見届けたガードマンは己の使命感からくる満足を身体一杯にあらわし美術館の中に消えていった。

2007/01/01(月) あけましてオメデトウ御座います
先ほどこういう添付メールがきました。
 ああ、その、お写真を見て「良かった・・・」と心底思い、こういうときこそ絵描き冥利につき、来年も生きようと思いました。
 皆さん、あけましてオメデトウ御座います。本年もよろしく

ちもと・宏様

先日、結婚式のウエルカムボード用に似顔絵をお願いした、広島の00です。

その節は、色々と注文を聞いていただき感謝しております。
両親にも大変喜ばれ、とても良い披露宴になりました。
写真ができましたので、ご報告までに送ります。
どうもありがとうございました。

 来年もよろく・・・・


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