美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/01/09(火) 40年前の美観地区日記より。 十三回
美作・森五代藩主衆利が狂乱、断絶後、赤穂・浅野家に仕官したのが神埼与五郎だ。「ちなみに衆利の狂乱は七月七日で、美作地方では近年まで七夕祭りはタブー化されていた」
 逆に祭りから祭りで狂乱、赤穂から美作に入らんとするのが蓬頭エカキ事この俺である。
与五郎は死後、忠臣蔵四十七士の一人として名をあげるのだが、俺は前回で葬式あげたばかりなのに一向名はあがらない。ホトケとはあらゆる制約からホドケた人の事だそうだが、ホドケルどころか持て余した身を津山線に預けるていたらくである。
だがこの道は昔、出雲街道とも云い隠岐ノ島に配流途上の後醍醐天皇始め法然、紫式部、オランダお稲、千利休、赤松燐作、セン・片山、薄田泣菫、谷崎潤一郎等々が往来しており、この道が偲ばれるのだ。
無論、こういう有名人はごく一握りで、大半は無名で俺みたいな人生座挫者や行商人、時には罪人や駆け落ち者もいたはずである。

道とは未知であり、いわんや業深く人生を呪い悔恨を抱いた旅人はどんな思いで行く先を予測したのだろうか。

 「人の世の旅は冬の旅。一条の光もなき闇の中を我等は道を求め往く」まさに詩人セリエーヌ歌うような旅だったかもしれず、それを思うと又、感慨深いのだ・・・・・・


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