|
2007/01/17(水)
40年前の美観地区日記より。 二十一回
|
|
|
G 酒と女とニガオエ、そして・・
中国に「酒悲」という言葉がある。酒に悲しみを紛らそうとして、かえって酒で悲しみを倍加させる意である。無論、中国に限らず人のいるところ必ず葛藤と悲哀があり、酒のあるところには又必ず歓喜とそれに相反する悲しみがあるはずだ。 大道絵師も常に理想と現実のギャップ、みたさんとして満たし得ぬ不満。その上、似顔絵を描くのだから神経疲労の振幅はげしく酒に救いを求めることになる。我欲に捕われていたのでは大道ニガオエ師としての感情が、課せられる試練の異常さに耐えかねるのだ。でついつい度をこえて酒を飲む。すでに酒を楽しんでいるのではなく、酒を恨みつつ飲んでいるのである。 酔えば酔中に命絶えることを願い、死んだ方がましだと思うから無茶をやらかす。酒癖はますます悪くなる。いたる所で顰蹙を買う。人に嫌われるというデカダンスが沁みわたっていて、自嘲的に成りきることによって己を誤魔化しているのかもしれない。 己自身、酒との格闘を記憶のスクリーンにプレイバックするならば醜悪、恥辱に充ちた泥酔など枚拳にいとまがない。悔恨と慙愧の砂塵の嵐が心の中を吹き荒ぶのだ。
ただ酒飲み絵師の詭弁かもしれないが酒飲みの名誉?のために申しそえると、一般に酒で正体を失っていると言うがこれほど馬鹿げた言葉はない。 何故なら反対にたいがいの人が酒を飲まない事によって正体を隠しているからだ。彼等は極言すれば酒を飲んで破廉恥した者と等しく、ある種の感覚の欠如者であり、一般にイントレラントになる可能性が強い。 そこから生まれでた強度の自信は認識の柔軟性を失わしさしめ極端な偽善者となりがちである。 だからとっちもどっちなのだ。 本来インドのソーマ神にせよ、ギリシャのバッカスにしろ酒に関係する神格は躍動や歓喜、あるいは忘憂を意味するものであった。 つまりアルコールとはアラビア語で「引き出す」の意であり、そこへスピリットという言葉をかけて人の魂を引き出すことだ。 ああ・・ごめん、飲みたくなった。 お浜・・・・酒や、酒や・・・
|
|
|
|