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2007/01/14(日)
40年前の美観地区日記より。 十八回
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俺もマックス・ノルダウの退化論をひも解くまでもなく、情報が肥大化し、スピード化すればするほど根っ子のない無国籍都市へ、エゴイズムの亡者共が右往左往するのは良く知悉している。 故に俺は絶望主義者で年がら年中、世にフワリと浮いたり、ポカリと沈んだり、沈み浮いてはニガオエを描いて露命を繋いでいるクラゲ法師なのだ。 こんな法師がスカンク親父の口車に乗せられ、下手な事でも書こうものなら腕を捲くる御人が何人も出てきそうなので、滅多に口を滑すわけにいかない。それこそ孤城落日、四面楚歌だ。まして戯作か、本作か作者さえ解からぬ本流は、津山で死人の肖像画を描きつつ浮かぼうか沈もうか藻掻いていた矢先だったはずである。 スカンク親父にはご退屈様かも知れないが、もう少し藻掻かせてくれ。他にも「何故、大道で絵を描くのか」「絵を描くとき、どうして酒を飲むのか」「どうして結婚しないか」等など質問があるので、俺の鼻穴から尻穴まで御開陳しょうと言うわけだ。ただし、開陳は俺のいう開陳だから、ただしくは逸脱かも判らないので、そのつもりで聞いてほしい。
よく言われる言葉に「手に芸ある者は強いねぇ」だが、大道絵師に関する限り芸は身を助けるより、身を滅ぼすのだ。それと言うのも大道絵師は世の中に非常なる憤懣を内包し、いっそ死んでしまいたいと云いつつも、そうたやすく死を決しかねる者が、死なずに世間に背く手段としてこの道に入った者が多い。 モダンアートの石田、行動美術のO、東京芸大出の久保園、自称ダダイストの城戸、原稿用紙にして十万枚以上という「最上高天原朝史龍眼本記」を著した清原天皇。一日150枚の似顔絵描いた大崎、釣り好きの信ちゃん、立って寝れる中島等、全て大道に於いて憤死だ。 俺なりに考察するば彼等は似顔絵以外、社会の中に持ち込む回路は断たれていた。しかし、名前、金、家、そして命まで捨てることによって、生きることに真剣になりえ、「死」と常に隣合せにいることを意識していたからこそ精一杯血をたぎらせる事が出来たのではないだろうか。 一人の人間が一生アウトロウに捧げた血みどろの研鑽と気迫、魂魄の呻きが聞こえてくるのだ。あえて大上段で構えればあの無知な大衆との間で孤独裡に空を仰いで窮死するモーゼ。十字架につけよと叫ぶ群衆の前に拳を握って悶死するキリスト、神は己の中で死んだと叫んでたった一人山に帰って行くツアラツストラを想起するのである・・・・・・
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