美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/01/31(水) 40年前の美観地区日記より。 三十五回
 その後のヒッピーはドロップ・イン(社会の内)派はとアウト(社会の外)派に分裂する。
 イン派は都会の真ん中に共同体を作るべきだと、国分寺でロック喫茶「ほら貝」とインデァンプロセスという印刷会社をやり始めるのだ。
 「ほら貝」はニューロックやニグロスピリチュアルばかりで当時としては画期的なものであり、インデアンプロセスはアメリカのヒッピー新聞「オラクル」からヒントを得た「部族」を発行。編集は新宿のランボーといわれたナーガであり、絵はニガオエ描きのポンが担当した。

 一方、アウト派は原始社会の自由、平等、友愛がもっとも優れた形で復活しょうというモルガンの言葉をスローガンに、長野・富士見に原始部落を。また或る者は鹿児島南海上、諏訪瀬島に入植、共同生活に入り、ここが日本のヒッピーの聖地になるのである。

 以後、二十数年、紆余曲折があったとはいえイン派は東京・杉並のホビット村から自然食、有機農業の運動にヒッピーイズムの一つの到達点に達し、アウト派は諏訪瀬でのヤマハボイコット運動を巡り、奄美でポンを中心に「無我利道場」を設営、反東燃闘争に入っていくのである。

 ポンの云う「自然に帰れ!、自然を守れ!、ナロードニキへ!!」・・・・・・・

2007/01/30(火) 40年前の美観地区日記より。 三十四回
 ところでその頃の日本は東京オリンピックが終わり、万博に向け高速道路、ビル、新幹線等の建設ラッシュで日本列島がのたうち廻っていた。

 その反動であろう。小田実氏がベ平連結成、反日共系学生、反戦デー新宿駅占拠。三島由紀夫氏、自衛隊で決起演説、賛同得られず総監室で割腹自殺。機動隊、東大安田講堂の全学共闘派を強行排徐、樺美千子氏死亡。

 とにかく何が起こっても不思議ではない時代で、それが新宿の文化的な爛熟期だったのだ。管理社会の圧力に潰され、根こそぎにされていく、最後の花を咲かせていたのだ。
 故にどんな下手くそなニガオエ描きにも、常時三・四名以上の客が付いたものだが、その前を今までの乞食でもないフーテンでもない、一種独特のムードを漂わせた若者達を眼にする。

 これがサカキ・ナナヲ、加藤鋭、山尾三省氏を中心にする我が国でのヒッピー・ムービメントの始まりだったのである。しかし、豊潤たる花は落ちるのも早い。決定的にしたのは68年の「新宿騒乱事件」で警官は市民や学生に襲いかかり、フーテンや浮浪者を検束していった。

 これを期にニガオエ描きの大半が旅に出、ヒッピー達も新宿から出ていき、新宿から人間の匂いが完全に消えたのだ。
 「乞食の消えてしまった町は、もはや人間もなく、祭りもない」と劇作家・別役実氏は言ったが至言で哀れにも新呪区と為り果てるのである。


写真は七ケ国で挨拶するサカキ・ナナオ氏(ニューヨークにて)

2007/01/29(月) 40年前の美観地区日記より。 三十三回
 それほど彼等の標榜する理念、理想が魅力的だったのだ。

 ついには俺も病、膏に達し大阪の和泉橋本にチビグロなる者とコミューンを造るまであい到るのだが、この「アーチ」と名乗る男にはトント記憶がないのだ。そこはそこだ。「一杯飲みにいこう」ですぐ友達になれるがヒッピーの良いところである。
 
 ではヒッピーとは何者なのか。それはジャズ用語のヒップ「調子をあわせる」ヒップト「熱中した」が語源だという説があり、ハピー「幸福」が崩れたのだと云う奴も居る。

 しかし、それは名前上だけで思想的にはヨーロッパで始まった実存主義の影響を受けていると言ってよい。

 50年代のアメリカに規範や普遍的価値を否定し自己の個性、一回的な価値を重視する実存的な風俗や生き方が流行し始めた。やがてここからヒップスターやビートニクと呼ばれる人々が生まれ、60年代になってそれがさらにヒッピーへと発展するのである。
とくに詩人アレン・ギンズバークが「吠える」を出版後、ヒンズー教のメッカであるベナレスで修業、60年帰国して「ヒッピーの聖者」として熱狂的に祭り上げられるのだ。

 彼等の経典は「ホール・アース・カタログ」「ビー・ヒア・ナウ」「ド・フアンの教え」「ボランタリー・シンプリシティ」等でそれらは人と自然との共存共生、自発的簡素、自他愛、相互扶助を説いたものである。一言でいえば「自然に帰れ」が彼等の唯一の主張なのである。


以下、写真は・・・
1967年10月ペンタゴンで銃口に花をさす反戦デモ参加者たち。

2007/01/28(日) 40年前の美観地区日記より。 三十二回
J 国際ヒッピー倉敷支部、アーチ君

 「サーサ、イラサイ、イケノコイ!」

 ヤン君が倉敷川を背に俺の描いた絵を売り始めた。オランダは運河の町ゆえか、まさに水を得たコイのようでこれ又、俺が教えてやった売り言葉を叫んでおる。 
 ちなみに白鳥は一声に全生涯を賭けると言う。ヤンの声もすべて絵を売るため全生涯を賭けているように見える。明るい乞食が貰いの多いのは世界共通だ。瞬時に黒山で、なかには飲みかけのコーヒを持って駆け出してきた観光客も混じっておる。
 俺も負けじと「ニガオエは爆発だ!」と叫んでいると、大黒さんのような袋を担いだ青年が近づき立ち止まった。

 腰まで伸びた髪、首から垂らした鈴、しかし、どこか眼が寂しげなところは、もし彼に思想があるならば、それが世間に認められていない寂しさだ。第一にその鼻下のヒゲ極めて光沢がない。これはその人物に一分一厘の活気のない証拠であろう。そしてそのヒゲが柳のごとく両端はるかに顎の方に垂下しているのは恐らく向上という事を忘却した精神の象徴だ。
 あえて言えば亡国のヒゲだ。

 するとそのヒゲが・・・

 「ヒッピーの新宿タローさんでは?」と来たもんだ。

 たしかに俺は新宿風月堂、国分寺・ほら貝 、京都・ほんやら洞、宮崎・ヤドカニ等ヒッピーの出入りするところは繁雑に立ち寄った・・・・

2007/01/27(土) 40年前の美観地区日記より。 三十一回
それを聞いた彼女、カルチャショックもあったろうが元々、天衣無倣だ。日本列島の酸欠状態にも嫌気がさしていた。
 即、ヤンとバニー島に行くのである。一ヶ月三万円で暮らせる島へ、神と民俗芸能の島へ。何も持って行かなくてもよいがチンポコと遺書が必要な島へ・・・

 さあ、仕事は終わり俺の魂胆の総仕上げだ。青い眼のヤン、ファションモデルのような淑恵ちゃん連れ喫茶店、商店街、K公園へと歩き回った。 俺にとっては水戸黄門の印籠、官軍の錦の御旗だ。いままでピュリタンのロバと後ろ指指していたT市民の驚きよう。また珍宝の先がキューンと痛むのだ。

 読者諸氏よ!この悲しき虚栄を理解せよ!栄華を極め尽くした老ソロモン王でさえ「バニティ、バニティ、オールイズバニティ」と絶叫したと言うではないか・・・・

2007/01/26(金) 40年前の美観地区日記より。 三十回
 深夜の宇高フェリーより、早朝の53号線をペンキを塗りたくったボロ車は走る。ピンク・フロイトをガンガン鳴らし、ウイスキーのラッパ飲みだから白バイの先導付きだ。
 ヤン君の恐れるのは出入国管理官であり、警官はそれほど恐れない。彼にすれば日本語を覚えない方が警官やテキヤに接するとき、便利である事を知悉しているのだ・・・・

 ところが俺の隠居所に入るなり「生きている!」と叫んだのには驚いた。あとで知ったことだが彼は全て「生きている」「死んでいる」この二つで用を済ますのだが、キャンバスと本ばかりの汚い部屋がどうして「生きている」のかと思っていると淑恵通詞がこう言うのである。
 オランダには「水道は水を悪くする、車は道を、女は男を悪くする」という格言があって、ここにはそのどれもが無いから「生きている」のだと。変な褒め方もあるもんだ、と思った。

 「日本は実に無駄なく全てが効率的に機能している国だと感心させられる。けれど何かそこにいて幸福になれない。日本全体が一つに閉ざされた密室で、そこには不思議と人間の生きている匂いが希薄である。まるで巨大な実験所に入れられたようで、ついに外の空気か吸いたくなる。それが東南アジア等に行くとホッとするのだが、この部屋にはそれが感じられる」と又、いうのだ。

 なかなかオランダ人だけあって社交辞令の行き届いた男ではないか。
 そこで画家・ゲインズボロの絵が「生きている」との指摘ゆえ、その絵を二十枚ほど模写してやり、テキヤの親分・藤岡氏「俳優・琢也氏の弟」から貰っていた神農祭り帳もやると、絵を大量に印刷し、全国の祭りで売り捌くのである。最盛期にはオランダより四・五名も呼び、捌かせ非常によく売れたものである。

 現在、ニュヨークでポルノ墨絵作家として活躍している赤陣平・カッペイなどは「ピカソよりトラは大量に絵を売った!」と感嘆詞を奮発する勢いだったのである。

 さて淑恵ちゃんの話だが彼女は鹿児島・天文館通りの花屋の娘であったが英語を学ぶため東京へ。
 詳程は省くが南方特有のモンゴル型ではなく、白肌で瓜ざね顔の大陸ツングース系のの器量良しだ。彼女自身の述懐も先祖は薩摩焼で有名な沈寿官氏と同じく、秀吉の渡韓作戦時代に連れてこられたらしい。
 ただ世は美人を捨ておかないものである。何の機か失念したが銀座の高級クラブ「葡萄園」のママの眼にとまり、そこで働いていると常連の作家・井上靖氏に可愛がられるのだ。氏は美人よりも彼女の天衣無倣、性格を愛していたと思う。

 そこである日、銀座を歩いていると路上にチョークで絵を描き投げ銭を貰っている外人がおる。それがヤンだった理由だが開口一番「日本人は熱したフライパンの上でアヒルが踊り狂っているように見える。オランダでは労働は罰として、その人に与えられるものだが、日本人全体、何か罰を受けているのか」であった・・・・・・
 

2007/01/25(木) 40年前の美観地区日記より。 二十九回
I 作家・井上靖氏に可愛がられた淑恵ちゃん

 「踊るアホに見るアホ、同じアホなら踊らなソンソン」

 この歌は徳島阿波踊りであり、オランダのヤン、その愛人・淑恵ちゃんに始めて会ったのはこの地であった。
 何しろこの踊りは毎年百七・八十万人訪れる大祭で、大道ニガオエ師にとって仙台七夕に次ぎ、稼ぎの宝庫となっている。故にここにか、仙台七夕に顔を見せない大道絵師は死んだか、精神病院あるいは刑務所に収容されていると言っても過言ではない。
 また阿波踊りの情熱的テンポがリオのカーニバルに似ているせいか、外国人ヒッピーも大勢集まってくる。 まさにメルシー、タック、プレゴ、パラカロー、バクシーシ、ニイ・ハオ、それにドウモ等などが飛び交い言葉の大雑炊だ。 はては「エライヤッチャ、エライヤッチャ」の渦中で甘過に達していくのである。
 ここにはもう、とっくの昔にベルリンの壁は取り払われ、三十八度線も、アパルトヘイトもなく、もしダダイスト・辻潤が生きていたら「これこそコスモポリニック・バンクェシェットだ!」と弾むような文体で書いてくれるだろう。
 その中でも突出したコスモポリタンはいわずと知れたヤンであって、観光客より貰った一升ビンを回し飲みするのである。そのあげくクラッカーを鳴らし、酒を飲み干すとガチャンと路上に叩きつけ、これがドイツのポータ・アーベント式祭りの礼儀だと澄ましたものだ。
 そして突然「トラ、トラ、トラ」と叫びなから俺に抱きつき人ごみの少ない所へ連れていく。無論、淑恵ちゃんも一緒だ。


 「トラ、トラ、トラ」とは真珠湾攻撃の際、艦上攻撃隊総指揮官・淵田中佐の「奇襲成功」の「ト連送」であり、それをどうして俺を呼ぶのか。
 ただ、日本の祭りをニガオエを描きながら歩いたのも俺が最初であり、スターのサンプルを大量に売り出したのもこの俺であり、ここ倉敷美観地区でニガオエをやったのも俺が最初であった。

 中国に「隗より始めよ」と言う諺がある如く、常に率先してやって来た。安手の「洞ヶ峠」は俺の気性に合わないのだ。故に「トラ、トラ、トラ」なのだと思っていたところ、淑恵通詞の言うことにゃ酔っ払いの大トラ、つまりトラの三乗からのニックネームと聞き、苦笑せざるを得なかった。

 ところでヤンの話しは絵を描いて貰えないか、との事である。なんでも今、売っている絵はフランス人のマックから仕入れているそうだが、原価を大幅に値上げされ、その上マックらが商売している場所でやらないでほしい、と言われたそうだ。
 しかし、そんな事はどうでもよい。俺には他に魂胆があったのだ。T市へ・・・ピュリタンのロバのごとく扱われているT市へ、この外人と美しい女を連れて行くと思うだけ涙が出るほど嬉しく、珍宝の先がキューンと痛むのだ。

 内容空疎の連中がブランド物を身につけたり、高級車を乗り回すのと同じ悲しい虚栄であった。

2007/01/24(水) 40年前の美観地区日記より。 二十八回
 ここで乞食エカキの思うのは駅や言葉や医学だけでなく、どうしてエラスムスやスピノザの思想を移入しなかったのか残念で仕方がない。
 彼等の「隣人を愛せよ」という命題が巷にもっといきわたってたら、今度の戦争もまた違った形で推移したのではないのかと、云う妄想がオランダの風車のごとくクルクル回るのだ。
 読者の目もクルクル回るであろう。
 倉敷のスカンク親父はカンカンだろう。
 ヒョッとすると酒を返せとも云いかねないので駆け足でヤン君を南下させる。南へ南へ・・・


 南に下がると自然インドに行きあたる。
 そこでギンズバークがヒンズー教に没入したというベナレスに住んだが、どうも論理実証型のオランダ人にはしっくりこない。
 金も尽きる。
 今度はブラジルの奥地で砂金が沢山出るというので、かの地に赴くが失敗・・・・・・・
 まさにピッピーとなれはて、西のヒッピーのメッカ・サンフランシスコのアシュベリーから、日本の新宿風月堂、京都アシュラム、徳島・阿波踊りで俺と相まみれる筋書きである。
 まさにヤンはワーグナーの歌う「さまよえるオランダ人」の典型だろう。
 ほかにも俺の「トラ・トラ・トラ」の名前の由来やヤンの愛人・淑恵ちゃんについて書きたかったが紙数が尽きた。
 酔いも醒め果てた。
 お互い命あらば次回が優曇華の幕開けだ。

 乞食エカキしっかりしろ。

2007/01/23(火) 40年前の美観地区日記より。 二十七回
 いわんや「世界は神によって作られたが、オランダはオランダ自身が造った」という自負があり、と同時に彼等の人種平等感は筋金入りだ。この最もおおきな理由は先哲エラスムスの「国家主義よりも、世界の人々はすべて同胞として考えることの方が賢明である」を堅持していることである。
 たとえば宗教亡命者やベトナム戦争脱走兵、反インドネシア人が住み付いても「彼らが何かオランダのため、提供できるものを持っていれば・・・」と深く追求はしない。それを取り調べる警官でさえ肩まで髪が伸びている。と言ってヤンは笑う。
 彼らは人や市場を保護主義で固めるという事の「愚」を知っている。過去、繁栄していた国なり文明が、内部の力を失ってそのまま滅亡してしまうケースを知悉しているのだ。
その点、いま日本も他者との衝突を回避してばかりでなく、「難民や外国労働者問題など」外部世界から異物を取り込み衝突することで活性化しなければ、所詮、過保護の元ではモヤッシ子しか育立たない事を認識しなければならぬ時期に来ているのではないだろうか。

またヤンは東京駅がアムステルダム中央駅にソックリだという。さもありなん。アムステルダム駅に模して造った物であり、コーヒ、ゴム、ビスケット、オーテンバー「お転婆」ヤーヨース「八重州」博多ドンダッハ「どんたく」半ドン、ダッチワイフ等など、言葉は元よりオランダに恩恵を受けたものが一杯ある。
 とくに旧幕時代、蘭学者といえば長崎の出島を通じオランダの医学に接したことであり、その先覚者であった宇田川玄随、箕作阮浦、緒方洪庵、皆、知る人ぞ知る岡山出身者である。
 ほかにも蘭学の祖シーボルトの娘イネと結ばれ、一女タカをもうけた美作勝山の石井宗謙、やはり門人・石坂桑亀は福渡の出であるが、倉敷の富豪・大橋家に招かれ倉敷に移っている。
 あるアイドル歌手が津山に来たとき、司会者より「印象は?」と聞かれ「病院ばかり眼につきました」と答え皆の失笑を買ったというが、たしかに岡山は和気広世が「薬経太素」を著して以来、医学と宗教の宝庫なのであろう。

2007/01/22(月) 40年前の美観地区日記より。 二十六回
 このヤンは日本人に誤解されそうなキンタマーニという地方出身で弁護士を心ざしていたが、ある時アムステルダムのダム広場を通りかかると、各国から来たヒッピー達で満員だ。そんな一人からヒッピーの教祖と言われるアレン・ギンズバークの長編詩「吠える」を読まされ衝撃を受けるのである。
 人間精神に目覚めたというより、先祖が世界最大の商業国、貿易国として世界に股を駆け船をあやつっていた頃の血が騒ぎだしたのだろう。学校を即、退学してフランスへ行くのだ。

 そのパリはセーヌ川のほとり、前衛劇で有名なユシュット座側にシェ・ポポフというカフェ・レストランがあり、ここがヨーロッパでのヒッピーの拠点で悪くいえば麻薬ルートの拠点でもあった。
 ここにおいて、どこそこに行けば何々と情報が入り、たとえば日本場合・新宿風月堂なのである。
 そこで色チョークで歩道に絵を描けば金をくれる事を知り、旅費が出来ると南下していくのである。
 そうじてオランダ人は社交上手で多国語を自由に操り、商品一つ売るにしても相手の言葉を使った方が得策であるという世態、奥義に通じた紅毛だ。ゆえに結構稼げたと言うのがヤンの述懐であった・・・・・・

2007/01/21(日) 40年前の美観地区日記より。 二十五回
H 彷徨えるオランダ人・ヤン君

 陽の当たらぬ隠居所みたいな部屋で、死人の肖像画を描きつつ籠鳥のように生きていたことは前に話しをした。無論、無為徒食ではない。ナマコでさえ何もしない面構えをしておりなからチャンと生殖活動はしているのだ。
 俺はナマコに励まされ、F先生に援助され、津山の釣鐘堂の二階に美術研究所を作ったが、部族、外人ヒッピー、べ平連の連中で百花争鳴、ついに梁山泊となれ果て、一年ほどで自然消滅していくのである。所詮、俺のような強烈な性癖を持つ者は、絵などを教え金をとる行為は所詮無理なようである。
 また地方では我々風来坊を「余所者」と呼び忌み嫌うのだ。渡り鳥のような旅へと彷徨い歩くボウフラみたいな輩から、鞭打たれつつ尚、黙々として働き苦しみ喘ぐ俺達の生活に何も教えて貰うことはない。お前らこそ覚醒される方だと訂正する方が良いと殴りかぬな勢いなのだ。
 このごとく余所者が自ら決断して行うものを異端児として封じこめようとする。かくしてクリシス海岸に泳いだピュウリダンのロバは「パリサイの徒」と「信仰の徒」からユダのよう見られたように、所詮我々もそういうスキャンダルなモンタジューの人間の影なのだろう。
 それ以来俺はタニシのようになった。母屋にいるホリエ門爺さんと会っても無駄口をたたくこともなかった。ただ彼は朝五時になると判で押したように隠居所の横にある井戸でニワトリが絞め殺されたような声で洗面するのである。俺は毎朝この天の岩戸のオーケストラで眼を醒まし、またウトウトするのだ。

 ところが今日は「トラ・トラ・トラ」」の間奏曲が入るので、万年床を蹴り上げ破れ障子から覗いて見ると「おーっ、なんとヤン君と淑恵ちゃんじゃないか」取るもとりあえず「ダーァ!」「ダーァ!」と叫んで抱きつくのは何時ものごとしだ。「ダーァ」とはオランダ語で「こんにちわ、さょうなら」など両方とも使える便利な言葉なのである。

2007/01/20(土) 40年前の美観地区日記より。 二十四回
乞食エカキをして二十数年の俺も、もうここまで来たらいままで通り何物も所有せず、執着せず、何時でもその気持ちで四国遍路か、あの世への旅に出られる境遇において置きたい気持ちで一杯だ(お陰さまで昨年、火事で全て灰になっておる)

 所詮、流浪の者は流浪の内に生活し、そしてこの世の空「くう」をを悟るのが本当と思うからである。

 いま俺は喪心者のように空を見ながら己の境遇に満足し、昨日も今日も一人で閉雅に酒を飲んでいる。

 ニヒリズムよ!・・・雲よ!・・・女よ!・・・名声よ!・・・
 五目ライスみたいな人生よ!



  この文は親愛なるキチガイ・ペテトさんに捧げる。



次回 彷徨えるオランダ人・ヤン君との交流


2007/01/19(金) 40年前の美観地区日記より。 二十三回
 同棲していた時だ。イタリアの画家・コレッジョの油絵を見て唖然とした事がある。
 それは三人の女が木に縛りつけられている男の側に喰っ付いている絵であり、「情欲」という女は男を挑発しており、「悪習」という女は男を枝に釘付けにしており、「嫌悪」という女は男の脇腹に毒蛇をあてがおうとしているのだ。その男の顔は創造を行う能力を諦めきって柔弱遊惰に溺れきっている。束縛に甘んじ隷属している。壊れた時計みたいに意思のゼンマイが緩みきっている。こういった事が同一の画面に全部表現されているのだ。
 俺はこの絵を見てこの画家の霊筆に驚嘆し、女には一言も告げず旅に出たゲーテや吉田兼好を想起した。ゲーテは正しかったのだ。彼は恋に取り憑かれると取るもとりあえず旅に出ている。そして結果から言えばうまく恋愛の危機をかわし「マリエンバート恋歌」を書き上げているのである。七十四歳の男が不滅の作品に昇華させたのは恐れいるばかりだ。立場が違うが釈迦しかり、シェクスピアしかり、兼好しかり、フーテンの寅・・・・etcだ。

 このように古今東西創造者は女性を冷罵する事は常てあった。釈迦は力をこめて女人を罵り、シエクスピアは往々女人に関して飽き足らぬ語気を吐き、兼好は妻という者は男の持つまじき物なれと固定せる結婚生活を罵っておる。凡人にすれば何と不自然な連中だろうと思うだろうが、無論その反動として女を捨てたヴァガボンドとなって生きるより仕方ない宿命を背負っているのである。
 女のいない男は糸の切れた凧、錨を落とした船に等しく、あてどもなく彷徨い、寄るべき港もなく漂うのだ。
 しかし、そこにこそ創造者の心そのモノの凝視があり、真理があるのではないか。
 そしてかかる孤独に透徹する人間は個人の実在から直ちに人類の根源的実在に相呼応できるのでのではないだろうか。
 過去、何万何億のヴァガボンドが天国に至り得ず、空しく一人荒野を歩き地獄にのたうち廻るにしても、この道が創造者の使命を発する道に通じている事は確かなようである・・・・・

2007/01/18(木) 40年前の美観地区日記より。 二十二回
続ける・・・
 たとえばニガオエを描くとき、頭で掴んだイメージが腕を通って指先で開花するまで普通ガタガタになる。しかし酒を飲むとストレートにいく。頭で描くのではなく、理屈を超えた内なる行為がほしいのだ。
無心になる。
あれこれ思い煩うと大脳の新皮質が邪魔になる。余計な命令をだして眼にフイルターがかかる。
 故に飲む。浜の真砂が尽きても飲む。縄文人も飲む、キリスト、日蓮、一休禅師、白楽天、横山大観も只ひたすら飲む。乞食エカキも飲む。飲んで駄洒落を吐いてニガオエを描き、偽りの天下泰平安穏を歌うもよし、悲憤慷慨して涙流すもよし、行く付く先は博物館に陳列される魚貝昆虫と同じくアルコール漬けになるのもよいではないか。
 楽天、楽天・・・酒なくして何が己がニガオエ描きかなである・・・・・・

 さて「どうして結婚しないか」であるが、一言でいえば生涯連れ添う女に縁がなかった事になるがそれでは身も蓋もない。
 ただこういう問いを発する女には蓬髪、日蓮ヒゲ、薄汚れたコート姿、亡霊みたいな手つき、ひもじい声で客を呼ぶところなどはメス猫でさえ寄りつかないだろう。という意地の悪い姿勢が窺えるのだ。いわんやアル中の上キ印ときているのだから・・・
 ところがドッコイ、乞食エカキ結構興味を示す女がいて、過去数度の同棲生活しているのである。ときにはフランスのリサ、オランダのテレサ等とも一緒に生活したこともあり、実にインターナショナルなのだ。
 それでも結婚しないのは結婚することに於いて俄然その境界が一変し、無形が有形に、無頓着より細心、社会組織に束縛され、ここに自由が不自由に変わることを危惧するからである。
 換言すれば女を得ると同時に一種の排他主義が生じ、また個人的なことや私有財産に対し非常に強い利己的な本能が居座るからでもある。
 故にモノを創造しょうとする男が、女を持つとは首根っ子に沢庵石をぶらさげて生きているようなモノだといっても過言ではないだろう。

2007/01/17(水) 40年前の美観地区日記より。 二十一回
G 酒と女とニガオエ、そして・・

 中国に「酒悲」という言葉がある。酒に悲しみを紛らそうとして、かえって酒で悲しみを倍加させる意である。無論、中国に限らず人のいるところ必ず葛藤と悲哀があり、酒のあるところには又必ず歓喜とそれに相反する悲しみがあるはずだ。
 大道絵師も常に理想と現実のギャップ、みたさんとして満たし得ぬ不満。その上、似顔絵を描くのだから神経疲労の振幅はげしく酒に救いを求めることになる。我欲に捕われていたのでは大道ニガオエ師としての感情が、課せられる試練の異常さに耐えかねるのだ。でついつい度をこえて酒を飲む。すでに酒を楽しんでいるのではなく、酒を恨みつつ飲んでいるのである。
 酔えば酔中に命絶えることを願い、死んだ方がましだと思うから無茶をやらかす。酒癖はますます悪くなる。いたる所で顰蹙を買う。人に嫌われるというデカダンスが沁みわたっていて、自嘲的に成りきることによって己を誤魔化しているのかもしれない。 己自身、酒との格闘を記憶のスクリーンにプレイバックするならば醜悪、恥辱に充ちた泥酔など枚拳にいとまがない。悔恨と慙愧の砂塵の嵐が心の中を吹き荒ぶのだ。

 ただ酒飲み絵師の詭弁かもしれないが酒飲みの名誉?のために申しそえると、一般に酒で正体を失っていると言うがこれほど馬鹿げた言葉はない。
 何故なら反対にたいがいの人が酒を飲まない事によって正体を隠しているからだ。彼等は極言すれば酒を飲んで破廉恥した者と等しく、ある種の感覚の欠如者であり、一般にイントレラントになる可能性が強い。
 そこから生まれでた強度の自信は認識の柔軟性を失わしさしめ極端な偽善者となりがちである。
 だからとっちもどっちなのだ。
 本来インドのソーマ神にせよ、ギリシャのバッカスにしろ酒に関係する神格は躍動や歓喜、あるいは忘憂を意味するものであった。
 つまりアルコールとはアラビア語で「引き出す」の意であり、そこへスピリットという言葉をかけて人の魂を引き出すことだ。

 ああ・・ごめん、飲みたくなった。
 お浜・・・・酒や、酒や・・・

2007/01/16(火) 40年前の美観地区日記より。 二十回
 無論、俺も美術研究生頃には夢があった。デビュー当時の歌手・水前寺清子、司会の大久保令などと共に有名ホテルでニガオエを描き回ったこともある。
 又、木川カエルか、雨ガエルか失念したが大阪万博でもやった。
 しかし、ヒッピーの影響もあるが疑問を感じ始めたのだ。自然を破壊し、人心を荒廃させ何が「人類の進歩と調和か。今回の花博も「人間と自然の共生」を唱えつつ、大阪地下の新聞売り子達を「みっともない」という理由から拝除しょうとするように、過去から現在まで「平和、正義」の名の下でどれだけ悪いことをして来たか。いくら美麗に飾られた会場でベレー帽とチョビ髭、パイプ片手にミンクの豚どもを描こうと所詮オリに入った動物と同じではないのか。
 俺の中でハッキリ分けられるのは路上でニガオエを描いて金を貰い、それをナリワイとしている者だ。金さえ貰えば誰でも描く無節操さではなく、芸をやる事に世渡りが大ゲサにいえば生き死にかかっている者のことである。
 わずかな人間で決めた賞なんてたいした名誉ではない。俺のほしいのは大衆の喝采だ。大衆が俺の仕事を賞賛してくれるならばそれで充分なのだ。

 「乞食エカキのおっさん、今日はボッケー怖い顔しとるノォ」と言って高校生が通り過ぎて行く。女の子が倉敷川に落ちかけた。アブナイ!

  次回 酒と女とニガオエ・そして・・

2007/01/15(月) 40年前の美観地区日記より。 十九回
 「唯一不二の自我人はルンペンでなければいけない」とマックス・ステルナーは言った。
 大道絵師も仮にルンペンにならないまでも、出来るだけ零落する事が要求される。何故なら零落すればするほど世間という名の自己以外のモノが削り落とされていき、零落の段階に応じてしだいに自己は自由気儘なモノとして開放されていくからである。

 「人は如何に生くべきか」など、エセ知識人どもが饒舌に多くの知識を振りかざして説こうとも結局、我々に何の解明をも与えないという事実を悟るべきである。

 人間は愚かなのだ。一生そのものが愚行で充満していると言った方が至当であり、愚行を犯すまいと努力すること自体が愚考だと考えたほうがよいのだ。
 その事を知悉していたのが愚を愛し、愚にあこがれ、この岡山の円通寺で修業した良寛で、夏目漱石の言う「則天去私」であろう。
 くどいようだが悲しいかな大学や図書館、エセ知識人から答えは出ない。大道「自然」が答えてくれるのだ。

 ゆえに俺は大道こそ我が画室であり、修業場でありたいと願う。


2007/01/14(日) 40年前の美観地区日記より。 十八回
 俺もマックス・ノルダウの退化論をひも解くまでもなく、情報が肥大化し、スピード化すればするほど根っ子のない無国籍都市へ、エゴイズムの亡者共が右往左往するのは良く知悉している。 故に俺は絶望主義者で年がら年中、世にフワリと浮いたり、ポカリと沈んだり、沈み浮いてはニガオエを描いて露命を繋いでいるクラゲ法師なのだ。
 こんな法師がスカンク親父の口車に乗せられ、下手な事でも書こうものなら腕を捲くる御人が何人も出てきそうなので、滅多に口を滑すわけにいかない。それこそ孤城落日、四面楚歌だ。まして戯作か、本作か作者さえ解からぬ本流は、津山で死人の肖像画を描きつつ浮かぼうか沈もうか藻掻いていた矢先だったはずである。
 スカンク親父にはご退屈様かも知れないが、もう少し藻掻かせてくれ。他にも「何故、大道で絵を描くのか」「絵を描くとき、どうして酒を飲むのか」「どうして結婚しないか」等など質問があるので、俺の鼻穴から尻穴まで御開陳しょうと言うわけだ。ただし、開陳は俺のいう開陳だから、ただしくは逸脱かも判らないので、そのつもりで聞いてほしい。  

 よく言われる言葉に「手に芸ある者は強いねぇ」だが、大道絵師に関する限り芸は身を助けるより、身を滅ぼすのだ。それと言うのも大道絵師は世の中に非常なる憤懣を内包し、いっそ死んでしまいたいと云いつつも、そうたやすく死を決しかねる者が、死なずに世間に背く手段としてこの道に入った者が多い。
 モダンアートの石田、行動美術のO、東京芸大出の久保園、自称ダダイストの城戸、原稿用紙にして十万枚以上という「最上高天原朝史龍眼本記」を著した清原天皇。一日150枚の似顔絵描いた大崎、釣り好きの信ちゃん、立って寝れる中島等、全て大道に於いて憤死だ。
 俺なりに考察するば彼等は似顔絵以外、社会の中に持ち込む回路は断たれていた。しかし、名前、金、家、そして命まで捨てることによって、生きることに真剣になりえ、「死」と常に隣合せにいることを意識していたからこそ精一杯血をたぎらせる事が出来たのではないだろうか。
 一人の人間が一生アウトロウに捧げた血みどろの研鑽と気迫、魂魄の呻きが聞こえてくるのだ。あえて大上段で構えればあの無知な大衆との間で孤独裡に空を仰いで窮死するモーゼ。十字架につけよと叫ぶ群衆の前に拳を握って悶死するキリスト、神は己の中で死んだと叫んでたった一人山に帰って行くツアラツストラを想起するのである・・・・・・

2007/01/13(土) 40年前の美観地区日記より。 十七回
F 芸は身を助けるより滅ぼす也

  倉敷には暇な人が多いと見えて、俺の書いている物にどうのこうのと言うてくる。
 これは小堀遠州が大阪冬の陣、倉敷川より兵糧米を徳川方に送った功績により天領となった倉敷っ子気質からきているのであろうか。
 過日もご婦人が「あんたは絵も達者だが、口も達者じゃねぇ」とおっしゃる。「何・・・・下の方も達者ですぜ」こう答えると眼を白黒させ、口をポカンと開けておる。
 正直いうと俺のライフワークは「縄文人の魂に帰れ」を理念理想とする教祖なんだが、こんな事でも喋ろうものなら即刻、精神病院に送りかねない態なので慌てて呑み込んだ。
 又、ある親父が「毎月スランプでアンタのを読んどるじゃが・・・」と言う。
 この男は初めて見る山水人物ではなく、どうして喰っているのか毎日ここにやって来て、ときには俺の顔をしげしげ眺め弁当を使い始めたのには流石にビックリした。
 たしかに俺は変わっているが、無論生きたままの蛇を喰うとか、首が伸びるとか、夜中になると油を舐めるとかそういう風に変わっているのではない。
 ただ俺の心情は来るものは拒まず、去るものは追わずで、ましてここは大道で俺の読者だと聞くと無碍に断る訳にはいかないのだ。
 「そりゃ、どうも・・・・所でスランプじやなくスクランブルでしょう?」と答えると「うんじゃ、スカンクじゃ。アンタのは和漢未聞、神武以来の珍文で面白いのだが、オエン。例えば俗化が進む美観地区、人情を忘れ稼ぎ一筋に走る人間どもに筆誅を喰らわして貰いたいのじゃ」とスカンク親父は漢文調で悲憤慷慨だ。
 「それに最近の奴らは緑御殿といっとるが本当は有隣荘で、徳、弧ならず必ず隣有りと言ってノォー」このように論語の教示をしてくれ、その上、酒一本置いていくところ等は慇懃を極め、敬意を尽くした開閥以来の挨拶なんだろう・・・・・・

2007/01/12(金) 40年前の美観地区日記より。 十六回
 アルコールに火照った頬に微風がまるで新しいシーツのように心地良い。ニコニコしながら俺も商売始めると、明るい乞食は貰いが多いは定石で次から次客があり、下手すれば横顔半額、後ろ向き無料、はらみ女は一倍半ともいいかねない勢いだ。
 嵐が過ぎヒョイと見ると類は類を呼ぶというのか、知恵遅れらしい子が大きな瞳を据えて下から俺の顔を覗いている。知恵遅れとは現代風にいえばLDっ子となるそうだが、ノーベルもエジソンもLDっ子で別に悲観する事もない。頭を撫でてやりながら話しをしたが、親しまれればなかなか可愛いものであった。それを見ていたのか娘が俺の前に屈みこみ、一枚の紙切れを差し出す。

 「消えたはずの言葉が、闇の中からよみがえる。消愛・・・死・・・詩、そして愛。アナタハキドッタ道化師ダ。黒ノスェターニ、ウス汚レタズボンニハ、真ッ赤ナスイトピーガニツカワシイ。キドッタ女ノワタシニ、タバコヲ一本ヲクレ」

 ジーパンにダブダブの黒のセーター。長い髪、いやに赤い口紅が気にかかる。こういう時が自称色男?の辛い所であり、色んな妄想が去来するのが俺の悪い癖である。ところが娘はタバコに火をつけると「ありがとう、私はキチガイ・ペテト。あまり酒を飲まないで良い絵を描いてくだい・・・・」そう言ったかと思うと、長い髪をなびかせ、タバコに咽ながら有隣荘の路地に消えて行った。
 ホタルみたいな娘だ。
 これで俺の胸と・・下も・・?膨らむだけ膨らんだショボン玉が壊れて消えた。と同時に酔いも急速に醒めていく・・・・
 そして思った。可愛い娘がたとえ一人者にしろ、汚い口ヒゲを生やしたニガオエ師と駆け落ちするはずがないじゃないか、と。暇で困っているときはそれは少しは相手してくれるだろう。それが最大限の好意なのだ。薬局?だなんて、図に乗るにもほどがある。
 いいか、忘れるな、お前はルンペンエカキなんだぞ・・・わかったか!!

1月絵日記の続き


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