美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/09/08(金) 大阪市立美術研究所・雑感 86
油絵新技法


     1 序言

 枠へ如何(いか)にしてカンバスを張るかパレットは如何に使用するか、等の如き説明はかなり多くの画法の書物に説かれているようだから、私はさような道具類の説明をなるべく避けて、ここには主として、専門に本心に油絵を描き出そうとする人たちへ、絵の技法というものについての心構えといった風の事と、それから現在の世の中に生きているわれわれの心を生かして行くのに最も適当である処の近代の技法について少々述べて見たいと思うのである。
 しかしながら新らしい技法というものは昔の画法や画伝の如く、天狗(てんぐ)から拝領に及んだ一巻がある訳ではない。その一巻がない処に近代の技法が存在するのである。
 従って万事は心の問題であるので技法としてお伝えする事も甚だ六(む)つかしい。私自身も油絵という船に目下皆様と共に乗り込んで難航最中なのである。燈台から燈台へ港から港へと辛(かろう)じて渡りつつあるのだ。何時(いつ)暗礁に乗上げて鯨に食べられてしまうかも知れないのである。全く偉(え)らそうな事はいえないものだ。
 しかし、私は私の行こうと思っている心の方向へ常に船を向けつつ走っているつもりである。それで、今ここに私は何か技法上の事を書く事になった。がそれは先ず私の船の阿呆らしい航海日記とか航海のうちに感じた事柄を記してこれから乗船せんとする人、あるいは已(す)でに乗り込んで間のない人たちへ報告して多少の参考ともなり、心の準備の一助とかあるいは長途の旅の講談倶楽部(クラブ)ともなれば幸(さいわい)だと思う次第である。

     2 絵の技法そのものについて

 絵には技法が必ずある。しかしながら技法を少しも知らずにでも絵は描ける。技法の全くない絵というものは子供の絵である。それも、うんと小さな子供の絵だ。大人でも今までかつて一度も絵というものを描いた事のない人が無理矢理に絵をかかされると、ちょっと子供と同じ程度のいわゆる自由画を描く。これが本当の技法なき絵である。しかしながらその子供もやがて人心がつき初める頃には、もう智恵と慾が付いてくるので、何かの技法を心から要求するようになってくる。自分勝手な自由画では承知が出来なくなってくるらしい。でたらめでは何んとなく恥かしいのだ。
 大人でも何も知らぬ人が第一回目に描いた絵は先ず技法がないが第二回目にはすでに如何にしてという方法を考えるようになる。先ず人間の智恵は技法を要求するものである。
 要するに相当の智恵付いた人間の作品はすべて何かの技法によってかかれているものである。昔も今も、古いものには古いらしい、新らしいものには新らしい、それ相応の技法が備わっている。絵に限らず、あらゆる芸術あるいはすべての芸事において技法のない芸事は殆(ほと)んどないといってよい。
 しかしながら、偉い画家の描いたものや、古来神品(しんぴん)とも称されている作品のあるものには、全く技法も糞(くそ)も全く無視されたような作品があるものである。けれどもそれらはあらゆる技法が完全に作品の裏へ隠し込まれてしまった処のものであるので、隠し込まれたというよりも、むしろ、全く忘却されてしまったものであるという方が適当かも知れない。
 ところで忘却するという事は知った事を忘却するのであって初めから何も知らない事を忘却する事は不可能である。
 しかしながら知った事を完全に忘却する事は容易な事ではないと見えて、先ず知るだけで一生を棒に振ってしまったお人や学者も多い事である。
 また知った事が災難の種となってその智恵に縛られて萎(しな)びてしまう人も多いのだ。
 あらゆる事を承知した後、忘却してしまって後本当の仕業が心のまま思ったままに出来るのではないかと思う。どうも昔からのすぐれた作品を見ると、多くその傾向が見えるようである。
 ところで完全に忘却してしまう位いのものならば初めから智恵づかない方が軽便でいいともいえるが、もし自分の子供が二十歳に及んでなお寝小便をたれるという事があったら悲しむべき状態である。
 自転車でさえ二、三日の練習なしでは乗る事が出来ない、まして飛行機においてまたその曲乗りや高等飛行においてはかなりの正確な技術、技法の習練が必要であろうと考える。
 幸いにして画道においては正確な技法がなくとも早速生命に関する大事とはならないから安全であるが、しかし結果はそれ以上の悲劇となる事が多いと思う。
 ところで技法の習得、練磨、研究も必要な事は正に人の智恵と同じく画家として必要ではあるけれども、あらゆる技法は芸術の終点でも目的でもない事である。
 人が歩む事は何か目的があってそれへ到着しようとするために歩むので、これは不知不知(しらずしらず)の間に運動をしている訳だ。それで先ず用は足す事が出来るが、もし何々派、何々流の歩調にのみあまりに拘泥(こうでい)し過ぎると、その事ばかりに気を取られてとうとう徒(いたず)らに低廻するばかりとなる。
 練習ばかりで飛ばぬ飛行機は退屈だ。飛ばぬが故に安全第一ではあるけれども。
 ちょっと、豆腐を買いに行くにもワルツで行く女中があったとしたら随分うるさい事だろう。しかも豆腐を買う事を忘れて帰ったら阿呆な話である。
 こんな阿呆な話も不思議なようだがこの芸術の世界において一番多く見受ける話である。
 要するに技法は人間の智恵であり普通教育であり礼儀作法であり常識である。従ってこの事ばかり気にするものは小癪(こしゃく)に障(さわ)っていけない。といって智恵なき者は阿呆に過ぎない。
 大体、人間は何んといっても幼稚園を過ぎる頃から少しずつ智恵がついて来るはずのものだ。しかし、まだ何んといっても七、八歳から十歳までは母の胎内にありし日の面影を失わない。何んといっても半神半人の域にある。この域にあるものは絵を描く、童謡をつくる、歌う、それが皆なまでで、上手で、神品である。悉(ことごと)くが詩人で芸術家でもある。
続く・・・

2006/09/07(木) 大阪市立美術研究所・雑感 85
現代の芸術が壁にぶち当たっていることは事実であろう。「事実は小説より奇なり」という俗諺があるように、現代社会は目回るしく変わって捕えどころがない。そこに人の思いつかないような事件が多発している。芸術より社会の方がどんどん先を行っているのだから、芸術家が壁にぶち当たるのも当然であろう。
 すれば、どうすれば良いか。初心に帰るのである。故にここに小出楢重氏の「油絵新技法」を紹介して、「大阪市立美術研究所・雑感」を締めくくる事にする。


油絵新技法
小出楢重



     序言

 日本の油絵も、ようやくパリのそれと多くの距離を有(も)たぬようにまで達しつつある事は素晴らしき進歩であると思う。だがしかし、新らしき芸術の颱風(たいふう)は常に巴里(パリ)に発生している。まだ日本は発祥の地ではあり得ない事は遺憾であるが、それはまだ新らしき日本が絵画芸術のみならずあらゆる文化が今急速に新らしく組み立てられつつ動いて行く工事場の混乱を示している最中である。今あらゆる新らしきものを速かに吸収消化する能力こそ、若き日本人の生命であるともいえる。だが新らしき日本へ新らしき花を発祥させるには根のない木を植えてはいけない。一本の松は地下にどれだけ驚くべき根を拡げているかを調べてみるがいい。芸術はカフェーの店頭を飾るべき紙製の桜であってはならない。しかしややもすると、新日本文化は紙の桜となりがちである。それが最も気にかかる事だ。
 この書は、技法そのものについて、例えば新らしき芸術を作るには砂糖幾瓦(グラム)、メリケン粉、塩何匁(もんめ)、フライパンに入れて、といった風の調理法を説かなかった。あらゆる画家の修業は図書館では行わないものである。
 彼らはミュゼーと、そしてモデルと、石膏と、風景から、伝心的に技法を悟ったに過ぎないと私は思っている。そこで、私は現代にあって、最も困難な絵画芸術に志す若き人たちに対して、この工事中の混乱に向うべき心構えについて、いささか私の考えを不完全ながら述べたつもりである。そして、それから先きの仕事は私の関する処でない。

  昭和五年九月

2006/09/06(水) 大阪市立美術研究所・雑感 84
 「大阪美術研究所・雑感」は本当は私の事を描いていきたかったのだが、検索してみると画家はもちろん、建築家、漫画家、挿絵画家、彫刻家、市民運動家、無農薬野菜研究家、医学博士など思いもよらぬ人を輩出しているので、驚くと同時に何者にも囚われない「天王寺美術研究所」の素晴らしい所だと認識した。
 ただ21世記に入り、現代美術も途切れがちで、何等、我らに生きる、ヒントから遠ざかっているようで、そのことが残念である。
 そこでアナグロ趣味かも知れないが、私の好きな小出楢重氏の絵画姿勢を書いてこの物語は閉じることにします。

大阪市南区長堀橋筋に生まれる。生家は膏薬「天水香」で知られた薬舗。市岡中学時代は心臓疾患のため進級が遅れたが、早くから画才を顕わし、1907(明治40)年東京美術学校日本画科に入学(西洋画科は不合格)、松岡映丘らに学ぶ。1909(明治42)年白馬会洋画研究所に通い、西洋画科に転科。1914(大正3)年美校同科を卒業し帰郷して作画に励むが、草土社風の暗渋な色調が容れられず、文展で落選を重ねる。この頃、松原三五郎の天彩画塾に通った。1919(大正8)年、広津和郎の勧めで第6回二科展に出品、失意の時代の一家の団櫟を描いた≪Nの家族≫(大原美術館)で樗牛賞を受賞。翌第7回展では≪少女於梅像≫が二科会賞を得て会友に推され、画壇にデビューした。1921(大正10)年夏より半年間渡仏、特に画風を変えることなく帰朝する。1923(大正12)年二科会員、大阪市美術協会創立委員となる。翌年、鍋井克之らと信濃橋洋画研究所を創立して後進を指導。1926(大正15)年芦屋にアトリエを構える。翌年、全関西洋画展を創設し、新人の登竜門とした。1930(昭和5)年より身体の不調を訴え、≪枯木のある風景≫を絶筆として芦屋に没する。初期の重厚な写実画法から次第に独自な様式化を進め、渡欧後は日本の裸婦像の一典型を確立する。同時に花、蔬菜、人形などによる静物画を多作し、栖脱な味わいを示した。手すさびに優れたガラス絵を制作し、また独特の名文で随筆集『楢重雑筆』(1927・昭和2)、『めでたき風景』(1930・昭和5)、『油絵新技法』(同年)などの著書も残した。

 下の家族像はゴッホの「馬鈴薯を喰う家族」にも似て好きな一枚です。


 

2006/09/05(火) 大阪市立美術研究所・雑感 83
21世紀になってはや6年、新たなムーブメントも起らぬまま、時間だけがすぎてゆく現在、
しかし次の時世をとらえようと、変革を試みている平面作家が関西にもいた!
彼らは、21世紀になってからどれだけの仕事をしているのか、6年間の推移を静観する。
現代美術かは、今後いかなる方向へ進むのか。

 
 現在の美術界の状況を観察した結果、今世紀に入ってから上質な展開を続けている平面作家とは?という設問に到達。
 自身の6年間を観察する機会と共に他者の変革を学ぶ、そのためには私たち3人の観測を超えた平面作家を選出し、彼または彼女らの視点により、近年頭角を現しつつある未知の平面作家にも参加を要請。こうすることによって、新たな刺激を受けることが私たち3人にもプラスになるに違いない。
 そんな経緯の結果、選出はUNEASINESS展に参加したことのある芦谷正人、氏は果たしてどんな未知の作家を連れてきてくれるのか、しっかり勉強させていただくこととしよう。

1965年 大阪生まれ
1989年 嵯峨美術短期大学版画専攻科卒業

1987年 個展(ギャラリー白、大阪)
      第2回和歌山版画ビエンナーレ
1992年 個展(番画廊、大阪)
1993年 「今絵画は-OSAKA'93-」(大阪府立現代美術センター)
1996年 個展(番画廊)
1998年 「ART UP! -揺籃する位置-」(大阪府立現代美術センターほか)
1999年 個展(番画廊)
2001年 「UNEASINESS」(信濃橋画廊、大阪)
2002年 個展(番画廊)
2003年 個展(番画廊)
2004年 「FLAT PLAT」(神奈川県民ホールギャラリーおよびCASO)
2005年 「UNEASINESS III」(信濃橋画廊)

2006/09/04(月) 大阪市立美術研究所・雑感 82
大阪市立美術館付設 美術研究所


 昭和21年に創設され、公立施設としては他に類をみないユニークな専門教育機関で、素描・絵画・彫塑の実技研究をおこなっています。
 石膏素描 前期・後期、人体素描、絵画、彫塑の課程があり、入所者はまず石膏素描前期からスタートし、年6回ある実技コンクールに合格した者が石膏素描後期、人体素描、絵画、彫塑へ順次進級していきます。
 これまで多くの作家を輩出し、大阪をはじめ広く美術文化の振興、発展に大きく寄与しています。
《 研究課程 》

1 石膏素描(前期)
石膏頭身像を中心に研究を重ね、基礎的なデッサン力を身につけます。
                               
2 石膏素描(後期)
石膏半身像を中心により確かな素描をめざします。

3 人体素描
石膏(前期・後期)で研究した内容をふまえて、人体(裸婦)をモデルに人体のバランス、骨格など把握します。
デッサンの総合的な力を養い、自己の作品とのかかわりを深めていきます。
人体素描を進級したら、絵画科か彫塑部を選択できます。

4 絵画科
素描研究で習得したデッサン力をもとに、完成度の高い表現、それを支える描写、技法を研究します。
人体のマッス(量、かたまり)と色彩を通して培ったデッサン力を独自性のある個性豊かな絵画世界へと展開していきます。       

5 彫塑部
塑像制作を中心に人体(裸婦)を研究し、立体への再構築を試みます。立体の基礎知識から形成(石膏取り)まで、様々な探求を続け自覚的な制作を展開していきます。

2006/09/03(日) 大阪市立美術研究所・雑感 81
馬場 一碧
1931年 旅順生まれ
1961年 大阪市立美術研究所 全関西展
1963年 日本美術会 日本アンデパンダン展
1969年 初個展 白鳳梅田画廊
1739年 大阪府美術家協会創立参加
1976年 個展 中近東 ヨーロッパ研修
1980年 個展 奈良近鉄 大和と近江の風景
1985年 個展 大阪現美センター
1986年 個展 奈良シルクロード博ギャラリー
1990年 個展25 ワークスピリット展
現在 日本美術家連盟 創人会会員

創人会代表、増井氏談

馬場一碧氏との出会いは遠くではなく、創人会発足間もなく、故中野洋先生を介して第一回展を開催したときに始まる。

馬場さんは創人会の発会時に事務局長として努力されていた。

型破りの個性と中国趣味を軸とした独自の画風で創人会を運営されてた。

 会を創設され発展を願いつつ亡くなられた中野先生は物心共にこの会に力を居くされたが、写実の伝統に培われ、藤島武二の薫陶を受けて人物画に高雅な作風を築かれた中野先生は、馬場氏に厳しい批判をされ続けられたようです。

人物画に於けるデッサンの確かさ構図上の問題、ヴアルールの問題等、中野先生から見れば意に添わないことが多かったようです。

馬場さんの絵には、そのような規範の類はあてはまらなかったようである。

野人というか自由人というか、とにかく破掟の画家であろう。

 モデルを前にして絵を描くとき、似類絵かきであろうと大画家であろうと多かれ少なかれ、文寸象モデルに似させたいという意識から離れ切ることはない。

その点彼は例外でどんどん自らの美意識に向かってすすんで行く。

そこにはモデルとは別の世界がひろがっていく。

写実の手浣をとりながらダイナミックで常識にとらわれない表現は時として線や色が躍り出した迫力となっている。

 このルールからはみ出した表現は一定の積み重ねがあった時に評価が定まるものではなかろうか。

彼の場合、既に開花し早くしていたのか。

或いはもう少し続けていくと馬場芸術へと達成され得たのか。

残念ながら今となっては如何とも言い難い。

 思いもかけなしい死であった。

彼の作品のなかにある新しい芽生えの可能性を探りたいと思う。

2006/09/02(土) 大阪市立美術研究所・雑感 80
サブロー・コスギ

千二百年の昔、奈良時代に鑑真和上像や仏像の制作に隆盛を極めた
「脱活乾漆」という技法がある。

漆と麻布で制作された彫刻は強固で軽いと言った利点から盛んに
制作されましたが制作工程が多難なことや材料費が高くつくことから、次第にこの技法は絶えてゆきました。

サブロウコスギ氏は四十年の歳月をかけて乾漆を研究過去の技法の難点を開拓し、過去には不可能だった色彩に於いても、
うるしそのものから発色させる「色彩乾漆」を可能にした。この技法を現代彫刻に用いるという画期的な発想は 軽量なのに
重量感があり強靱なのに柔軟性とまろやかさを 備え独特な光沢を
もつ、かつて類例のない現代彫刻の 誕生につながるのではないだろうか。

新たなる「東洋の美」とヨーロッパから高く評価された サブロウコスギ氏の彫刻は今世界で広く紹介されております。

サブロウ コスギ プロフィール -----
1939年
大阪に生まれる。
1961年
大阪市立美術研究所・彫塑科修
1964年
日展初入選「人間の本質(乾漆材)」発表後日展入選15回
1965年
日本彫刻会奨励賞受賞により同会会員となる。
日展入選10回以降日展会友となる。
1973年
パリ展出展 渡欧
1983年
「個展」阪神百貨店美術画廊於
1990年 1月〜3月
渡欧ドイツのブランデンブルグ門の像制作
第8回アートワールド賞受賞 サージ・マルジス賞受賞(フランス)
日本秀作展(ニューヨーク)出品 TOP ARTIST 100’(フランス)出品
1991年
25カ国参加東京インターナショナルアートショー小杉三朗彫刻コーナー出展
(東京国際見本市会場)
「個展」阪神百貨店美術画廓於
グラヌーズ賞受賞「ミレー展」(フランス)於
1992年
平成4年度国際芸術文化賞受賞 菊花大勲章受章
米国コンチネンタル大学DOCTOR OF ARTS(芸術学博士号学位)授与
水上杏平賞 受賞
1993年
川西市民賞受賞
神戸秋の芸術祭参加企画「小杉三朗彫刻展」アートホール神戸於
1995年
「世界の巨匠展」参加 大阪マーチャンタイズビル於
「小杉三朗展示会」ギャラリー・パンセ於
1996年
「小杉三朗展示会」ギャラリー・巴於
バリ・芸術平和大賞受賞
1997年
バリ・モレ芸術文化褒賞受賞
川西市立・ギャラリーかわにしオープン記念「小杉三朗展」川西市主催
日本グランプリ札幌国際芸術ビエンナーレ展(ユネ近代美術館主催)招待出品
コマンドゥリー勲章・大綬(フランス)授与
1998年
ドイツ・ケルン市主催「1200年の時空を超えて・サブロウコスギ乾漆彫刻展」
5月25日〜6月18日 ケルン市旧庁舎シティホール於
ユネ近代美術館主催「1200年の時空を超えて・サブロウコスギ乾漆彫刻展」
9月6日〜9月27日 フランス・ユネ近代美術館於
現在 ピカソ美術館(バリ)名誉会員
コスギアカデミー 主宰

2006/09/01(金) 大阪市立美術研究所・雑感 79
今日はわての懐かしい所、阿倍野界隈を案内しまひょ。といっても昔の面影など少ししかなく、情緒もなく、しかも天王寺公園、お金取りよるからあまりいってませんが・・・・・。

天王寺公園

天王寺公園の中は、入園料がいります。「天王寺美術館」「天王寺植物園・温室」「慶沢園」「茶臼山古墳・河底池」こんなとこちゃんと案内でける、「かれし・かのじょ」をフィアンセにしなはれや!文化度の高い家庭生活できるカップル誕生です。


そして、くだけたところ見せてあげるんです。「通天閣」目指して、美術館の階段を下りて来ます。真っ直ぐ動物園の上をあるきます。子供たちを連れた家族を指さして「楽しそうだね」と言います。「君とこんなふうに来たいね」独り言のように聞こえるように言います。「そうね」と言ってくれたら、大成功。「ばかね」と言ったら、脈ありです。「返事がなかったら」無視? コリャあきまへん!

何回も来なければ、あきまへん! 何回もな!今度、違う人連れてきた? よろしいがな!がんばりなはれや!

 ここは、ファミリーとカップルそして、一人もん。色んな人達が居てはります。カップルの時は、奥へ、奥へと進みなはれ、奥の茶臼山と河底池がよろしいで!

新世界

新世界へ入ったら「オモチャ箱」の中、また楽しいで!何回も来たい、やみつきになりまっせ!

無視した人も変身して、よう食べまっせ!「そないに喰わな、分からんか?」というほど!!びっくりするわ。今度、「新世界へ行こう」と言うとすぐ来てくれまっせ。こんな時、上の方は避けて「新世界」だけにしなはれや!将来、苦労せんでえぇようになぁ!



みどころがいっぱいあるよ!


 茶臼山古墳・河底池
 大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、夏の陣では、真田幸村が布陣した戦国の激戦地。大阪城に至る首根っこの位置にあたる。茶臼山古墳は、前方後円墳で、古代豪族の墓と考えられ、詳細は不明です。
四天王寺建立のころから「荒陵」と呼ばれた。被葬者は、不明。
周壕の一部とされる「河底池」は、延暦7年(788年)和気清麻呂が河内川(今の平野川)を西へ西流させようとして、失敗した工事後とも言われている。
ここはなぁ、美術館の奥にあって、カップルが多い。茶臼山はうっそうとした林になってて、ベンチなんか置いてあるんです。池には、見事なハスの花が咲き。魚も蛙もいる。散策にはえぇとこです。子どもづれは、動物園の方へ、一人もんは、真っ直ぐ新世界へ行きます。デートコースの穴場ですね。

 天王寺公園
 天王寺公園は大阪市立公園では、中之島公園(明治24年開設)に次いで、2番目につくられた。第5回内国勧業博覧会の跡地で美術館や勧業館等を引継ぎました。明治42年に東部49,000坪(16.17ha)、明治45年に西部15,000坪(4.95h)公園の東方の高台一帯には、温室や花壇を設けた西洋式公園がつくられた。夏は噴水と水遊びができ、花壇には、四季折々の花が咲き誇ります。

 天王寺美術館
天王寺美術館の愛称で呼ばれる。北館の展示室では、東洋古美術を中心とした常設展示や特別展の会場とし、国宝・重要文化財の陳列。永年にわたって収集された独自のコレクションを紹介している。南館は、常時、各種美術団体の展覧会が開催される。二科展・日展など、また、特別展は、見逃せないものが多いですね。
この地下が私の学んだ「大阪美術研究所」あり。


開館時間:9:30〜17:00(入館は、16:30)
休館日:月曜日(祝祭日は翌日振替休)及び年末年始
入場料:常設展一般300円、高大生200円、中学生以下は無料
 天王寺植物園・温室
 温室の植物園は、めずらしい熱帯系の植物が、繁っています。冬は温いし、夏は、暑い。冷え性の人には、よう効きます。あとで、新世界の風呂に入ったらえぇわ!

 慶沢園
 明治の末期に高名な庭師・小川治兵衛が10年の歳月をかけて作り上げた。純日本風の林泉式回遊庭園で、もとは住友家の庭であった。広大な敷地には、中之島が浮かぶ池があって、5月はサツキ。10月は菊が彩る。全国から集められた銘木・名石に見ごたえがある。
●慶沢園を含むこの一帯は、もと住友家茶臼山本邸があったところです。住友家は、明治28年、この地に別荘を建て、内国勧業博覧会の時は、休憩所としたが、明治40年本邸として、周囲に板塀を巡らしました。邸内の庭園は、慶沢園と称し、大正10年大阪市に美術館用地として寄付。今、現在の慶沢園と美術館となっている。


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