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2006/09/09(土)
大阪市立美術研究所・雑感 87
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油絵新技法 小出楢重
ところで彼らが十二、三歳ともなると妙に絵も歌も拙(まず)くなってくる。彼らの心から神様が姿を消して行くのだ。従って全くの人間と化けてしまう。この時に当ってお前は人間の浅間(あさま)しさを知らないか、いつまでも無邪気でいてくれと頼んだって駄目だ。子供は大人のする事をしたがる。大人のような絵を要求する本当の技法を要求するようになる。 ところで、さように早速、大人の事が出来るものでない、自分の拙(ま)ずさがはっきりと判(わか)る、それで絵をかく事も詩を作る事も嫌になる子供が、先ずこの時期において大部分を占めてしまう。 この際になおあくまで絵を描きたがる子供は極めて尠(すくな)いものである。 それから中学女学校程度に至ると最早や神様の影は全く消えて充分な人間となる。この時代によい絵を描ける者は全くないといっていい。もし描いたとすれば大人の技法を目がけて心にもない事を描き出すものである。もし上手に描いたとしたら、それは拙いよりもなおなお厭味(いやみ)である。文章にしてもこの時代においてかなり嫌味である。 私の考えるのにこの年輩の人は絵の好きである事と素人(しろうと)としてなぐさみに描く事はいいけれども決して専門に勉強してはいけないと思う。それよりも大切な事は人間として常識である学業の勉強がよいと思う。 学業の勉強は決して面白いものではないがしかしこの時代は芸術、殊に絵の勉強には年齢が早過ぎるのである。 絵の技法はピアノ、琴、三味線の如く幼少の頃から手や指を訓練させる必要のない技術なのである。 手や指の運動が円滑を欠いても絵を描くに不自由は更にないのである。多少円滑を欠く位いの方が、絵の表情はがっしりとして、かえっていいかも知れない位いのものである。三年や四年間絵を休んでも別に絵は拙くなるものでは更にない。 大切な事は心の問題である。先ず心が定まって後、普通の人間の知るべき事は知って後、如何にも絵が描きたくてたまらなければゆるゆると始めて、決して遅いものではないと思う。私の方へ時々、母親が子供をつれて相談に来る事がある。中学を嫌がって絵ばかり描きたがるので勿論成績もよくなく身体も弱いから一層の事画家としてしまいたいというのである。私はそんな場合、なるべくならその事はいけないと止めるのである。せめて中学校だけは卒業させるように勧めて置くのである。絵の技法を本当に学ぶには早過ぎて困るのである。 もし、この時期にわけのわからない技法が沁(し)み込んだとしたら第二の天性ともなる事がある。うっかりと乗り込んだ乗り物である。西向きか東向きか知らずに乗込んだ汽車である。気がついた時、汽車は地獄へ向って走っている。 技法は心を第一としなければならぬ。心定って後の乗物である。神戸へ行くには必ず西向きの汽車を撰択すべきものである。 何んといっても相当の人としての心定まった上自分自身方向を定める資格が出来た上、自分の心の方向に従い足を進める必要がある。 ところで足を進める事はどんな方法によって進めるのかというと、先ず昔は、心の用意も人間としてまだ出来ていなくとも、十二、三歳の神様時代から丁度琴や三味線のお稽古(けいこ)と同じように、ある先生につかしめたものだ。先生は画法という定った一巻を頭へしまい込んでいる。それを一つ一つ授けて行くのだ。何はともあれ無意識にそれを稽古してさえ行けば、いつかは何んとかなる事だろうという迷信によって進んで行くのだが、しかしながら、昔の先生でも何んとなく心定まらない子供のうちは技法を授ける事は無益で便りないと感じたものと見え、西洋にあっては弟子(でし)たちは先ず年期奉公というものをやらされ、その間においては一向に絵らしいものを描かしてもらう事は出来ない。ただ絵具を油で練って見たりその他雑役をするだけの事であったらしい。 日本でも同じ事で年若くして弟子入りすると先ず拭(ふ)き掃除(そうじ)をやらされる位いの事である。 先生の絵具を溶かせてもらうまでに至る事は随分の辛棒(しんぼう)が必要だった事である。勿論昔は絵具の練り方作り方が一つの修業でもあり、画家の職責でもあった。 日本画も絵具の溶き方においてとても六つかしい秘伝さえある様子である。
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