美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/09/06(水) 大阪市立美術研究所・雑感 84
 「大阪美術研究所・雑感」は本当は私の事を描いていきたかったのだが、検索してみると画家はもちろん、建築家、漫画家、挿絵画家、彫刻家、市民運動家、無農薬野菜研究家、医学博士など思いもよらぬ人を輩出しているので、驚くと同時に何者にも囚われない「天王寺美術研究所」の素晴らしい所だと認識した。
 ただ21世記に入り、現代美術も途切れがちで、何等、我らに生きる、ヒントから遠ざかっているようで、そのことが残念である。
 そこでアナグロ趣味かも知れないが、私の好きな小出楢重氏の絵画姿勢を書いてこの物語は閉じることにします。

大阪市南区長堀橋筋に生まれる。生家は膏薬「天水香」で知られた薬舗。市岡中学時代は心臓疾患のため進級が遅れたが、早くから画才を顕わし、1907(明治40)年東京美術学校日本画科に入学(西洋画科は不合格)、松岡映丘らに学ぶ。1909(明治42)年白馬会洋画研究所に通い、西洋画科に転科。1914(大正3)年美校同科を卒業し帰郷して作画に励むが、草土社風の暗渋な色調が容れられず、文展で落選を重ねる。この頃、松原三五郎の天彩画塾に通った。1919(大正8)年、広津和郎の勧めで第6回二科展に出品、失意の時代の一家の団櫟を描いた≪Nの家族≫(大原美術館)で樗牛賞を受賞。翌第7回展では≪少女於梅像≫が二科会賞を得て会友に推され、画壇にデビューした。1921(大正10)年夏より半年間渡仏、特に画風を変えることなく帰朝する。1923(大正12)年二科会員、大阪市美術協会創立委員となる。翌年、鍋井克之らと信濃橋洋画研究所を創立して後進を指導。1926(大正15)年芦屋にアトリエを構える。翌年、全関西洋画展を創設し、新人の登竜門とした。1930(昭和5)年より身体の不調を訴え、≪枯木のある風景≫を絶筆として芦屋に没する。初期の重厚な写実画法から次第に独自な様式化を進め、渡欧後は日本の裸婦像の一典型を確立する。同時に花、蔬菜、人形などによる静物画を多作し、栖脱な味わいを示した。手すさびに優れたガラス絵を制作し、また独特の名文で随筆集『楢重雑筆』(1927・昭和2)、『めでたき風景』(1930・昭和5)、『油絵新技法』(同年)などの著書も残した。

 下の家族像はゴッホの「馬鈴薯を喰う家族」にも似て好きな一枚です。


 


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