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2006/09/27(水)
狩野芳崖
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日本画の近代化に大きく貢献した芳崖は乃木将軍と共に長府を代表する 人物として地元、豊浦高校の校歌にも 乃木将軍の在れにし処 狩野芳崖生まれし処 剣に筆に偉人を出す 霊気こもる地 これ我が豊浦 と歌われている。 長府には下関市立美術館に長府在住期の作品を中心として46点を、また 忌宮神社宝物館に絵馬、豊浦小学校教育資料館に「雪景山水図」等を見 ることができる。
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―略歴―
文政十一年(一八二八)一月、長府藩の御用絵師狩野晴皐(かのせいこう) の子として長府町の印内に生まれる。 幼名を幸太郎(こうたろう)、号を貫甫(かんぽ)、皐隣(こうりん)、翠庵(すいあん) などといった。 幼少から絵の天分を発揮し、十九歳のときに江戸にのぼり、木挽町狩野家 勝川院雅信について十年間絵の修行をした。 多くの門弟たちの中でも彼の技術は群をぬき、橋本雅邦とならんで雅信門下の 双璧とされた。 幕末の動乱期には、故郷の長府に帰って画業についたが、一時は描くことを 中止し、武具の制作に従事したこともあった。 明治になり、藩からの扶持が断たれた芳崖は、画業のかたわら養蚕や測量図の 仕上げなどをして生活を支えたが、貧苦はつのるばかりだった。 明治十年、五十歳のとき藤島常興を頼って上京したが、健康を害し苦しい闘病 生活となった。 明治十二年、橋本雅邦の紹介で、「犬追物図」制作のため島津家に雇われやっと 生活の安定を見、さらに明治十七年(一八八四)五十七歳の時、アメリカ人のフェノ ロサに見いだされ、ようやくその労苦が報われる。 その後、芳崖は美術界の新人養成機関が必要であることを時の首相伊藤博文 に説き、美術学校(現在の芸大)の創設に努力した。 明治二十一年(一八八八)十一月美術学校開校を目前にし没す。 享年六十一歳。墓は東京谷中の長安寺。 代表作に「悲母観音図」「仁王捉鬼図」「八臂弁財天図」等。
絵は狩野芳崖の代表作「悲母観音図」
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