美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/09/20(水) 大阪市立美術研究所・雑感 98
 7 近代新技法の特質

 人間世界の文化があまり発達し過ぎてしまう頃には、沢山の組織とあり余った規則とうるさい儀礼とでこの世の中は充(み)たされてしまう事である。そして人間の心がその下敷となって動きの取れない悲しみを味(あじわ)うものである。規則や組織が古ぼけてしまった時には、ぜひとも清潔に掃除してしまわない限り、次の新らしい人間の心は成長し難いものである。
 西洋における近代のあらゆる絵画の主義や傾向の新しい各派の次ぎ次ぎと起って来た有様は、全く驚くべきものであった。それらはあたかも油絵の組織と規則の下敷から躍り出した処の勇敢なる一群の野蛮人であったといって差支(さしつか)えあるまい。
 新らしき野蛮人は、いつも大掃除については欠くべからざる役目を仕(つかまつ)るものである。
 大体、野蛮人の仕事は単純である。粗野であり、素直であり、個性的であり怪奇である。近代フランスにおいて起った種々雑多の新しい傾向は悉(ことごと)くこの野蛮人の仕事を更に繰り返したものであるといって差支えあるまい。
 即ち印象派以後、ゴーグ、セザンヌ、立体派、野獣派等正に壮大にして衰弱せる老舗の下敷から這出(はいだ)した処の勇ましき野蛮人の群であった。そして彼らの仕事の偉大なる特質は野人の特質である処のあらゆるものの単純化という事であったといっていいと思う。
 しかしながら、その近代に起った野蛮人は、何世紀かの教養と、習練と文化と生活を経て来た処の神経の、明敏にしてデリケートな処の、ヒステリックである処の、そして伝統というものを、その血液の中に確実に含んでいる処の、野蛮人であったのである。
 従ってその野人の仕事は、即ち近代絵画の性質は悉く非常な神経的のものであり、その技法は単純ではあるが頗(すこぶ)るデリケートなものであり個人的のものであり洗練され、鋭い処のものであるのは当然である。そして個人の心を、露骨に表そうとする処のものである。
 個人的といえば、あらゆる絵画は個人的な芸術作品であると思えるかも知れないが、しかしあまりに技法が複雑となり、発達し過ぎた時代の絵画は、ややもすると、個人の製作でなくなっている場合が多いのである。日本でも西洋でも、昔の絵画は、大勢の人たちによって製造されたものが頗る多いのである。あたかも建築の如く、芝居の如く、連作小説の如く、である。
 先ず先生がおおよその着想と構図とを与え、下塗り中塗りは大勢の弟子にまかせ、上塗りでさえも大勢の弟子たちがやる事は普通の事とさえされていた事さえあるらしいのである。
 弟子たちは現今の人間の如く自意識が発達していなかったためか、その仰(おお)せをかしこみて、頗る謹厳丁重に指図(さしず)を待って描き上げるのであった。それは結果においては壮大な壁画や大作を作るにはかえってよき効果さえあったものである。
 近頃でも、日本画の帝展制作等において、大勢の弟子たちが先生の画面へ敬意を捧(ささ)げながら一筆の光栄を拝しつつ手伝っている事は、昔と大した変化はない事を見受けるものである。
 かくの如くして古代の名作は出来上っている事が頗る多いのである。それは決して私は悪い事とはいえないと思う。一人の作でも大勢の作にしても、壮大偉麗なものが出来れば幸い至極と思う。
 ところが近代における人間の自意識の発達と非常な神経の発達とは、極端に個人の心の動き方を現そうとするし、また鑑賞しようとする方向に向って来たようである。
 徹頭徹尾、個人でやる仕事は勢いその画面が小さくなって来た事である。即ち近代絵画の画面の容積は狭(せば)まって来ている事は確かである。そして小さい画面へ人間の神経をなるべく簡単にして深く鋭く表現しようとする。その結果は、自分の作品に対して如何にしても他人や書生や弟子や妻君の手を煩(わずらわ)す事が出来難いのである。一本の線、一つの筆触が近代絵画の生命となってしまっているのであるが故に。
 その結果は、近代画家位い書生や弟子を家に養わない時代も珍らしいといっていいだろう。最も近代生活は画家をしていよいよ窮迫の底へ沈めて行く傾向もあるからやむをえない事かも知れない。また近代位い書生や弟子入りする事を嫌がる時代も尠(すくな)い、それは個人の神経を生かそうとする時代精神からであるかも知れず、またその他の種々の原因があるようだが今ここにそれを述べている暇がないので省略する。とにかく弟子の必要は完全になくなってしまった。


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