美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/09/18(月) 大阪市立美術研究所・雑感 96
近代の心と油絵の組織

 油絵というものが西洋に生れ、西洋人の要求と生活から湧(わ)き出してから古き歴史を持ち、やがて素晴らしい時代が来、大天才が輩出し、その時代時代において花を咲かせ実を結び、あらゆる人間の要求によって、あらゆる画風を生じ傑作を無数に残し、その技法は完全に研究され絵画の組織は充分に備(そなわ)り過ぎる位いに備ったのである。故に油絵技法とその組織というものは、私の考えによると、十六世紀の時代においてその全盛期であり、油絵技法の最頂点を示し、その時代と人間の生活との親密にして必然の要求による結合と、無理のない発達の極度にまで達しているものであると思う。
 それ以後の西洋にあっては、伊太利(イタリア)、フランスの別なく、油絵芸術は習慣と惰性とによって、ともかくも連続はしていた訳であるが睡気(ねむけ)を催すべき性質のものとなり、芸術としての価値は下向して来た事は歴史に見てもその作品に見ても明(あきら)かである。
 私は、ここに西洋絵画史を述べる暇と用意を持たないが、ともかくも、私は油絵具という材料とその形式で以てする芸術の限界においては、再び、レオナルドや、ルーベンス、レンブラント、ドラクロア、ヴェラスケス、ゴヤ等の仕事に比すべき位いの、材料と人間の生活と、技法と画家の心とが無理もなく完全に結び付き、壮大なものを生むべき時代はおそらく来まいと考えるのである。
 あの重たく、厚く、深く、大きく、堅固で悠長(ゆうちょう)で壮大で、真実で、華麗で、油絵の組織の完備する点で、また油絵具の性状が完全に生かされている点において、私は油絵具のなさるべき、頂点の仕事が已(す)でにその時代において為(な)し尽されているように思えてならないのである。
 極端な事をいえば油絵の技法は最早や大昔において、役に立ってしまった処の芸術形式であるといっても差支えないかも知れない処のものである。そして近代以後の人間世界の要求からは、多少とも不合理な材料であると思われ来るべき運命をさえ、持っていはしないかとひそかに私は疑うのである。
 如何に面白い日本音楽であったとしても、近代日本女性の複雑な恋愛が新内(しんない)によって表現される訳には行き難いし、われわれの悲しみを琵琶歌(びわうた)を以て申上げる事も六(む)ずかしいのである如く、あの粘着力ある大仕掛にして大時代的な、最も壮大であった時代を起源とする歴史と組織を有する処の、ミケランジェロやルーベンスを生んだ処のその武器を持って、戦いに出る事は、近代以降の人間にとってかなり憂うべき十字架となりつつありはしないかとさえ考え得るのである。
 だがしかし、今私はさような事を述べる場合ではない。われわれは近代人がこの技術を如何に処理し如何に組織を改めたかを知らねばならぬ。
 全く、西洋においても、十五世紀以来、多少の変化はあったとしても大局から見て絵画は立派な老舗(しにせ)の下敷となって退屈を極め出したのである。その結果近代のフランスにおいて、とうとう印象派が起り、次に後期印象派が起り、キュービストとなり、構成派となり未来派となり、ダダとなり、あらゆるものが次から次へと勃興(ぼっこう)した事は、一つには退屈と衰亡に際する一種の死の苦悶(くもん)から湧き上った処の大革命であったに違いない。
 それらのいろいろの主張や主義や、団体は、幸にして油絵の組織を悉(ことごと)く変化させ、あるいは暴動に似たイズムさえ各処に起って、近代の芸術は頗(すこぶ)る面目を改めてしまった事は何んといっても晴々とした事である。
 幸にして油絵の組織は完全に潰(つぶ)されてしまった。しかしながら、組織を潰す事は油絵そのものの死を早め誘うものである事が判明した。人間の組織を潰す事は人間の死を致す場合がある。それから、人間はあまりに潰れ過ぎたものを正視する事を何んだか嫌がる本能性があるものである。過ぎたるは及ばずという言葉の如く、最近は、その潰(つぶ)れた油絵の組織をば建て直そうとする傾向が現れた。やはり、人類を生かすためには紀元以前から持参する処の古き胃袋を必要とする事、古き肺臓、古き心臓、そして古き生殖器さえも必要であると思われて来た訳であるかも知れない。
 そこで近代の油絵は、また再び構成され、あるものは古典に立ち帰って研究され、あるいはその以前である処のプリミチーブの領域にまで頭を延ばして研究され、油絵の組織は整頓されようとして来たのである。
 だがしかし、それらの仕事の何もかもは、近代の心と油絵技法との、そりの合わない事における末世の苦悶と見ていいかと私はひそかに考える。
 


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