美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/09/16(土) 大阪市立美術研究所・雑感 94
人体習作について

 素描を研究すると同時に、油絵を以って、人体の五体を描く事は、基礎工事として技術上欠くべからざる順序である。
 この世の中で人間が一番よく了解し得るものは、お互の人間同士の姿である。猿は猿を知り、犬は犬を知り、猫は猫を、牛は牛を知っているはずである。
 人間は猫の縹緻(きりょう)の種々相を見わけるだけの神経を持たないが、猫はちゃんと持っているのである。
 松の木の枝を実物よりも五本省略して描いても松は松であるけれども、人間の指が一本不足しても、人は怪しむ、人間の腹のただ一点である処の臍[#「臍」は底本では「腸」]を紛失させたとしたら、腹は不思議な袋と化けてしまう。
 人間は、人間の形をよく了解すると同時に、人間の五体の美しさをも最もよく了解するものである。
 人間が鹿(しか)や鳥の水浴を見て恋を感じたという事は珍らしいが、それと同時に人間の五体が如何に美しいとはいえ、牛や馬が見ても世の中で一番美しいものは人体だとはいえないであろう。牛は牛の五体が最も美しく、馬は馬の五体を了解する事かも知れない。
 目下、油絵の基礎的技法として、または最も興味ある題材として、一般に裸身を描く事が行れている事については、それが人間にとって、他の何物よりも強き美しさを感じさせ永く描きつづけて飽きる事がなく人間が人間をよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利(き)きにくい処のものであって、その色彩の複雑にして、微妙である処、一ケ所として一様な平面を持たないあらゆる凸凹において、線において、立体において、そのかたさ、滑らかさ、その構成の美しさがある。
 人間が鹿や鳥の水浴を見て恋を感じたという事は珍らしいが、それと同時に人間の五体が如何に美しいとはいえ、牛や馬が見ても世の中で一番美しいものは人体だとはいえないであろう。牛は牛の五体を感じ、馬は馬の五体をよく了解するであろう。とにかく人間にとって他の何物よりも強き美しさを示すものは人間の裸身であろう。従って永く描きつづけて興味の続くものも裸身である。それから、人間がよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利きにくい処のものであり、その色彩の複雑にして微妙である処、一ケ所として一様な平面や線を持たない処、あらゆるデリーケートな凸凹において、線において、その立体において、そのかたさ、滑かさ、その軟かさ、その構成の整頓せる事において、さようなあらゆる点において、一般裸身を描く事がわれわれ画家にとっては最もよき終生のモチーフであり、画家の喜びであり、またその困難さにおいては初学者にとって最も興味ある手本としてこれらが多く描かれ用いられる訳であろうと考えられる。
 全く、われわれが例えば一個の桃を終生描きつづける事は困難だが、画家は終生裸女を描いている事は珍らしい出来事では決してないものである。

 裸身は画家、一生の最もよきモチーフであると同時にその表現の困難さにおいては他の何物よりも困難である。従って初学者にとってこれも描く事は写実的技能を養う上に欠くべからざるよき対象である。即ち石膏学生と同じく、最初は木炭を以って人体の素描を研究せねばならぬ。次にカンヴァスの上へ素描の下地を作り、油絵具を以て忠実にその立体と調子と色彩のあらゆる関係を研究して行く事が必要である。
 この場合において、初学の人たちはややもすると、習作と製作とを混同して直ちに、何か素晴らしい芸術品を作り出そうとする傾きがあるものである。例えば研究所でまだ石膏の首の調子さえ描き得ないにかかわらず、ルノアル翁晩年の作を直ちに模そうと考え、あるいは直ちにピカソの立体をモデルに当てはめようと考える。あるいはドランの線を附け加えようとする。そして、ピカソやドランやルノアルが、如何に写実がうまいか、如何に写実で苦しんだかという事を考えまいとする傾向のあるものである。それは前章に述べた如く米のなる木を考えないのと同じである。直ちに庭からライスカレーを採取しようとするものである。
 先ず最初は、あらゆる道楽心を捨て去って、そこに立つ人体そのものを尊敬する心が必要である。モデルがあらゆるものを教えてくれるはずである。モデルと自分と、そして厳格な写実、それ以上の技法はないといって差支(さしつか)えない位いのものである。
 自然を勝手に置きかえて見たり、バックを無意味にぬりかえたり、不必要なものを附加したり、モデルを軽べつする事は、やがて神罰によって失明するに至るであろう。
 かくの如く忠実にして厳格なる写実によって、自分の前に立てる裸身と空間との複雑にして困難な物象を描きつづけているうちに、画家は、種々様々の技法の要素らしいものを自ら拾い、自ら感得して行く訳である。そして同時に、あらゆる形態と物象を描きこなし得るだけの力と自信をも養う事が出来るのであると、私は考える。

 


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