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2006/09/29(金)
青木 木米
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青木 木米(あおき もくべい) 明和4年(1767)京都祇園新地縄手町の茶屋「木屋」の長男として生れる。幼名は八十八。後に家督を継いで代々の名、青木佐兵衛を名乗り、これらにちなんで青木木米といった。彼の用いた号は数多く、父の出身地美濃国久々利村に因んで「九々鱗」、青木の姓から「青来」、古器鑑賞の趣味から「古器観」、晩年に耳が聾したことから「聾耳」などと称した。 少年の時に高芙蓉の許に遊び、古器物を鑑賞する事を学ぶ。また、作陶を志す以前に鋳金の技法を初代龍文堂(1798歿)に習った。文化・文政時の京焼の復興期に当たって、煎茶趣味の勃興は木米の文人画と共に作陶の技は高く評価されることになる。 木米の人生を大きく変えることになるのは、京阪第一の蔵書家であった木村兼葭堂を訪ねて、その蔵する龍威秘書の中に朱笠亭の陶説を読んで大いに感銘を受け、それより陶を志すことになったのである。 奥田頴川や寶山文造に学び、寛政8年頃(1796)粟田口東町に開窯。文化二年(1805)には早くも粟田青蓮院宮の御用を拝命されるほどになり、翌文化三年には加賀窯業復興のため、加賀に招聘されて、青磁、金襴手、色絵などを焼く。それらの作品には木米印のほか「金府」あるいは「金陵辺」の刻銘、「金城精製」などの署名がある。 木米は先述の木村兼葭堂や頼山陽、田能村竹田、その他の文人と交際があり、その影響をうけた陶工であると共に、大いなる文人画家であった。 因って、彼の作風は当時流行した煎茶趣味のものが多く、青磁・染付・交趾・赤絵・金襴手などがあり、轆轤物のほか型物も多く手がけている。また、比較的数は少ないが茶の湯の道具も手がけている。天保4年(1833)歿67才。洛東鳥辺山に建てられた彼の墓碑には篠崎小竹が「識字陶工木米之墓」と題し、彼の生涯を語っている。
付記
古九谷が廃窯された約80年後、徳川の成熟期に加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯された。その時に招かれたのが、京都の文人画家・青木木米である。木米(仁清、乾山と並び三名陶の一人)の指導により、全面に赤を施し、人物を主に五彩を用いて描きこんだ絵柄が伝承されている。
春日山窯には、他にも多くの画風があるが、この人物を細くいかにも和やかに大勢描き、隙間を赤で埋め込んだ中国風の、木米風と呼ばれる画風が主である。
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