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2006/08/03(木)
大阪市立美術研究所・雑感 62
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激しすぎる「連なり」への欲求 ・田中敦子 田中敦子は、戦後の日本美術を語る上で欠かすことができない「具体」の美術運動の中で、やはり欠かすことのできない作家の一人として知られています。 初期作品に田中の出世作「ベル」がある。この作品は、スイッチを押すと展覧会場に設置された二十個のベルが足元から会場の奥へ向かって次々と鳴り、一番奥まで届くと、逆にベルが鳴り戻ってくるというものです。 次の「電気服」。1956年に発表されたこの作品は、9種類に塗り分けられた管球や電球が全身を覆うように配列された服で、これらが「ベル」と同じ要領で不規則に点滅し、さまざまな色の光が浮かび上がるようになっています。 「感電の可能性も」という註釈はつくものの、実際に着用することができるこの作品は、田中敦子作品という意味を超えて、「他人のやらないことをやる」ことをもって良しとする「具体」の美術運動の代表的な (少なくとも「具体」らしさがよくわかる)作品として知られるようになっている。 彼女は、むやみと色数を増やしたり画面を分割したりという若干の迷いの期間をすぎると、同心円を使った丸の大きさでリズムをつけながら、赤を基調にした原色がハーモニーを奏で、細くも力強い多くの線がそれらを有機的に結びつけるという、さらに発展させた作品群を産むことになる。それらは、脳細胞のニューロンの結びつきを想像させるようなというべきか、触手を伸ばしているようなというべきか、ともかく激しく連なり を求める線の緊張感が独特で、その緊密なきめこまやかさが、なぜか安心感を感じさせてくれますよ。
そして、この間、いくつかの国際展への出品や国内での受賞など、田中敦子の評価は高まっていきます。と同時に、具体のリーダーの吉原治良との志向の違いが目立つようになり、1965年には具体を去っていきます。ここまでが、主催者のいうところの「いつも具体の会員という枠内」で紹介されていた田中敦子の10年です。 その後も、現在に至るまでの約40年間、田中敦子はずっとこの丸と線の組み合わせによる絵画を描きつづけています。それを、一貫したテーマというべきなのか、そこから逃れられなかったというのか、評価の仕方 は様々でしょう。ただ、このスタイルは、明確かつ明快に田中敦子作品のオリジナリティを表わしており、あえて違うスタイルを志向する必要がなかったことも確かです。 しかし、それだけに、個々の作品の「違い」は、素人目にも明らかである。 例えばそれから個々に描かれた丸をつなげる役割をしていたはずの線はなおさらに太く乱れたものになり、むしろ画面上におおいかぶさっているように見えました。あるいは、基本の丸が ほとんど見えなくなるまでピンクや黄色、空色の太線で塗り込められた作品もありました。これらの作品は、どう見ても「連なりを描いた」というよりも「連なることへの絶望」であり、「新たな展開」というよりも「過去の否定」であるようです。。 この時期の田中敦子は個展中心の活動に変わるものの、「美術界においては大きく 取り上げられず、具体時代と同じほど注目されたとは言い難い」という状況にありました。「具体」脱退直後は精神的にも追いつめられていたともいいますが、作家としてのダメージはさらに長く深かったようで、この時期の作品を見るかぎり、美術界が取りたてて冷たい反応をしたとも見えなかったのでした。
もう、立ち去ろうとした時また「ベル」のけたたましい叫びが、「具体の吉原に挑戦しているよな」悲鳴に聞こえるのは私一人だけであろうか。
田中敦子 たなか あつこ 008 1932 大阪生まれ 1951 京都市立美術大学退学後、入学前から通っていた大阪市立美術館付設美術研究所に通う 1953 0会に参加 1955 具体へ参加 1965 具体美術協会を退会 1969 奈良県明日香村に移住 国内外で個展・グループ展多数。
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