美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/08/21(月) 大阪市立美術研究所・雑感 70
大阪美術研究所から多彩人々を輩出している。前に紹介した「人間時計」という漫画で一世を風靡した徳波誠吾もそうであるが、彼は紙芝居画家でもあり、関西での紙芝居王・塩崎源一郎氏にお世話になっている。たまたま故塩崎源一郎翁の名を思わぬところで聞いたので書いておく。信州信濃町、黒姫山の山麓に建つミヒャエル・エンデ記念童話館である。
「ええ、塩崎さんのお名前はここにも聞こえていますよ」
 大阪を遙か離れた雪国で思わず耳にした、若い館員さんの尊敬のこもった言葉遣いに、塩崎翁の偉大さを今更ながら思った。
 塩崎源一郎翁の自宅兼博物館は、大阪西成区の天下茶屋にあった。翁の名は、それに携わる人々やマニアの間で絶大な響きを持っていた。大阪における街頭紙芝居の絵元であり、収集家であり、新作のプロデューサーとして、東京ではすでに博物館の中に入って久しいと言われた街頭紙芝居の灯を、亡くなる直前まで全身を賭してともし続けた人物だからである。
 街頭紙芝居にのめり込む友人に誘われて、生前の翁を幾度か自宅兼博物館に訪ねたことがある。地下鉄四つ橋線「花園町」で降り、長屋の続く小路をしばらくいくと、その長屋の一軒に塩崎翁の自宅があった。しかし、ひとたび扉をくぐるとそこには外観からは想像できない世界が広がっていた。土間、書棚、押入、はては階段にまで、整然と、しかし、ぎっしりと詰め込まれた数万巻はあろうかと思われる紙芝居原画たちが息を潜めていた。私は、まずその量の大きさに圧倒されたが、つぎに、そこに収蔵された紙芝居の画面に踊るヒーロー、悪漢、はたまた妖怪やお化けなどの異形の者たちとの突然の再会に目が眩んだ。タイムマシンに乗って少年のころの自分にふいに遭遇したときの驚きというのはこういうものに違いない。
 しかし、それは私の失礼な思い違いだった。彼らは現役のヒーローであり、悪漢であり、妖怪だったからだ。塩崎翁と彼に師事する人々の手で、街頭紙芝居は今日でも、その逞しい生命を保ち続けているのである。

            ◆

 大阪は、一九八四年まで免許制度が残っていたほど街頭紙芝居が盛んな街であった。そして、今でも多くのファンが存在し、公演を支えている。(塩崎翁の事跡と大阪の街頭紙芝居の現状については、『大阪人』[二〇〇二年九月号・大阪都市協会]が特集を組んでいる。)学校教育の一環として演じられる教育紙芝居と異なり、街頭紙芝居は都市の雑踏空間で演じられる強烈なパフォーマンスである。街頭の騒音と闘って観客=子供たちの視線を力ずくで奪い取る絵の迫力と色彩。元来は動かない絵に生命を吹き込む紙芝居屋の(生活がかかった)職人芸。この街角で演じられる紙芝居屋と観客との丁々発止のやりとりが持続しなければ、街頭紙芝居は、その命の大半を失う。それは、昔も今も変わりない。
 現在、もはや紙芝居を専業とする者はいない。ただ、上演の形態を守りながら、この芸能を継承し発展させようとする大阪人は少なくない。主婦、教員、医療従事者など、職業は千差万別ながら街頭紙芝居の可能性に魅入られた人々が今を支えている。
 しかし、それだけでは不十分だ。彼らにネタの「絵」を提供しつづける塩崎翁のような絵元が存在しなければ、この芸能は存立しないのである。だからこそ、塩崎翁の存在は、大きかった。塩崎翁が亡くなられた今、生涯を連れ添った伴侶のゆうさんが、翁の遺志を受け継いで、八〇歳を超え健康に不安を抱えながらも健気に絵元の役目を続けている。絵元と紙芝居屋。大阪の街は、この車の両輪を奇跡のように転がし続けてきたのである。
 一方、東京の街頭紙芝居は、保存を優先し原画を博物館に収蔵したために、紙芝居屋たちがそれを使って自由に「商売」することができなくなったことによって、その芸能としての生命を失ったと言われる。口さがない大阪人ならこう言うに違いない。ときおり虫干しでもするかのように引っ張り出した紙芝居を、芸術の薫り高い舞台で演じたとしても、それは「似て非なる」レプリカに過ぎないと。
 館員は言う「人情にもろい人でした。夢想家でもありました。原作者や画家をかばって、駄作でもなんとか活かそうとする人でした。でも、アドバイスをするときは、ストーリーができてからでも、ここはこう直した方がいいと的確に指示を出しました。原作の筋を頭に入れて十分に計算をしてから細かに指示を出したりすることもありました。」
 
 こうやって多くの原作者や原画家が塩崎翁に育まれた。その中には、演劇の美術担当や絵本作家、漫画家など他の芸術領域から越境してくる人々も多かった。街頭紙芝居は、時代を共有する多様なメディア芸術の中で生きてきたのである。

 さてさて、友人が好んで使う馴染みの会場は、平野の商店街に隣接したお寺の境内である。演目は、名作の誉れ高い「蝋人形」や「ネンゴネンゴ」などのホラーもの。
 かつて夕暮れの路地裏に自転車に乗っていずこからともなく現れた紙芝居屋のおっさんは、すでに過去のものとなったが、駄菓子に群がり、上演を今か今かと待つ胸の高鳴りは以前のままである。
 ほら拍子木が鳴り始めた。開演である。

   写真は塩崎さちさん。


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